九、夢の通い路

 おととい、きのうと春の嵐があったが、きょうは朝からよく晴れた。まだ風はあるがもう激しくはなく、変ないい方だけど、強めのそよ風くらいだった。

 こういう日は浜に行くのが好きだ。いろいろなものが漂着している。遠くから見ると、波打ち際に黒い線が引かれているようで、さらにほかの色が点々とまじっている。

 こういう漂着物のほとんどは流されてきた陸のものだというのをなにかで読んだ覚えがある。日の光をちらちらとさせているのはペットボトルだろう。ほかにも瓶や缶、段ボール箱の残骸が目立つ。

 浜に降り、線に沿って歩く。まだ砂は乾ききっていないので歩きやすいとはいえ、道路に比べるとふわふわしている。

 近くまで来るとうちあげられた小魚やクラゲ、ヒトデが干からびつつあるのが見えた。爪の先ほどの桜色をしたかわいい貝がらを拾ったが、よく見ると穴があけられていたので捨てた。貝を食べる貝がいるのは知っている。

 さらに歩くと捨てられたらしい漁網にからまった前腕ほどのサメが無感情な目で空を見上げていた。

 そのサメの鼻が指す先で段ボールの破片がもぞもぞ動いた。めくってみると手のひらに乗るほどの小さい人がもがいていた。テグスに手足を取られている。しゃがんで見ているとただ暴れるだけなのでますますひどいことになっていく。かわいそうになったので捕まえてほどいてやった。

 いったん立ち上がってから座りこんだ小さい人は、助けたこっちを見ようともせず、体中をさすっている。よほど強く締めつけられていたのだろう。もしかしたら急に血が通いだしたのでしびれているのかもしれない。裸の体にはテグスの跡が走っていたが、だんだん薄くなった。

 こんな小さな人に人間の基準があてはまるのかは分からないが、姿だけ見ると女の子らしい。肌は青味がかっていて、髪や体毛はないようだった。おどかしたり触れたりするのは悪い気がしたので息を詰めてじっとしていた。

 その子は立つとあたりを見回しながらぴょんぴょん跳ねだした。どう解釈していいか分からないが、遠くを見たいのに積み重なったごみで見られないという感じだった。白いところのないただ黒いだけの目をぱちぱちさせている。

「おい」

 動きを止め、びっくりしたようにこちらを見上げる。

「どっか行きたいの?」

 また跳ねだした。また捕まえてごみの上、見通しのきく高さまで持ち上げてやった。特にあばれはしなかった。そのままあちこち見回すと、海を指さした。

「そっち?」

 反応はなく、ただ指さすだけだった。試しに陸の方を向かせると、腕を振って海を指さし続けた。そこで海の方へ歩いていき、波が打ち寄せているあたりに降ろした。

「ここでどう?」

 もうこちらを見ようともせず、ただまっすぐ歩いて行った。ひざ、腰、そして胸までつかると泳ぎ始めた。風呂で遊ぶおもちゃを思わせる泳ぎ方だった。

 泳ぎだすと速く、どんどん沖に行く。青味がかった肌のせいで見えなくなりかけた時だった。

 大きな魚がひらりと舞い、その子をくわえた。腰から二つになったが、両方ともすぐに飲み込まれてしまった。

 空はただ青く、海も青かった。さえぎるもののない日差しは、春先とはいえ帽子をかぶってこなかったことを後悔させた。

 食われた小さい人がいた後の段ボールを完全にめくってしまうと、ビーチグラスが三つあった。飴を思わせる形と表面をしている。大きさもそのくらいだった。色は茶、黒、赤だった。ちょっと考えたが、拾ってポケットに入れた。ここにあるのだから意味だってあるだろう。歩き出すとかすかに音を立てる。意味、という思い付きに笑う。でも、ここや私の意味はなんだ?

 ざわざわと人の声がし、エンジンの音も聞こえてきた。ごみの除去が始まるのだろう。音を背に河口の方へ向かった。ごみがさらに増えていくが、種類に変化は見られなかった。これほど使われているのだからプラスチックというのは非常に便利な素材なのだなと実感させられた。

 とうとううちあげられた小魚などもプラスチックになった。まだ口とえらを動かしているが、触ってみるとプラスチックでぬめりはなかった。クラゲはほとんどビニール袋だった。

 体表がプラスチックで安っぽくなってしまったヒトデは星のように分かれた体の部分のうち一本だけを残して他を丸めていた。周囲に落ちている十数匹すべてがそうしていた。その一本はみんなおなじ方向を指している。陸の方だった。

 川にはまだごみが流れている。木の枝が砂に刺さってななめに立ち上がっているなかを、ペットボトルや紙くずが引っかかりながら海に向かっている。

 プラスチックのヒトデを一匹拾い、ビーチグラスと反対のポケットに入れた。ゲームでアイテムをゲットした気持ちになる。これはラスボスを倒せる決め手なのか、それとも呪い、いや役に立たないジョークアイテムだろうか。こいつの意味はなんだろう。

 漂着物の線から陸の方へ直角に曲がり、砂浜から上がって川の上流へ向かう。振り返らなくても指さしているヒトデが分かった。あれほど多くの指があると背中に力がかかる。まるで指圧をされているようだった。

 川に沿って伸びている土手兼遊歩道を歩きだすとその圧力は消えた。もう届かないらしい。ヒトデの力はそんなものだった。空にはまだ雲ひとつないが、空気には湿り気があった。

 歩いて歩いて、振り返っても砂浜は見えなくなった。家や建物が建ちならぶ背景に海だけが輝いている。川を左手に置くように道をたどっているが、あきらかに上り坂ばかりになってきた。道は乾いていたが、川だけは嵐の名残で、水は濁って泡立っていた。

「おはようございます。どちらまで」

 近所の人だった。犬は止まりたくない様子だった。

「いえ、きれいに晴れたものだから、海を見てきたんですよ。それでこんどは展望台に上がろうかって」

「そうですか。浜はまだごみだらけでしょう」

「ええ、これから清掃って感じでした」

「ああ、それでは」

 犬に引っぱられるままお辞儀をした。どっちが散歩をし、させているのか、見ただけではよくわからなかった。

 また歩き出そうとしたとき、背後からいわれた。

「そうそう、海を見てきたっておっしゃったので一応いっておきますが、海のものを御山に持って行っちゃだめですよ」

 うなずいて手を振った。その人はまたお辞儀をして引っぱられていった。

 そんな迷信は知ったことではないし、以前も拾った貝がらをポケットに入れたまま行ったことがある。それにビーチグラスとプラスチックのヒトデは、厳密には海のものではないと思う。

 展望台に行く前に神社にまわって手を合わせた。山はご神体でもあると聞いたが、そのあたりはぼんやりとしか理解していない。分かる気もない。財布を取りだしながら、賽銭代わりにビーチグラスを放りこんでいこうかと考えたが、さすがにそういういたずらはやめておいた。

 山道の脇の緑は柔らかく萌え、季節を先取りしていた。湿った落ち葉が滑るので足運びを慎重にした。それでも疲れもせずに展望台に出た。鉄骨を擬木で覆っていて、ベンチと日よけがある。最近手を入れて広くなった。すでに数組の家族連れがお茶をしており、望遠鏡には子供たちがとりついていた。

 ここからだとまた浜がみえる。豆粒のような人々と重機がごみを片づけていた。作業を見ながらポケットに手を入れると、変な感触が伝わってきた。

 ビーチグラスを取りだすと、三つとも飴のような形と外観を失っていた。表面が摩耗していてビーチグラスには違いないが、割れた元の瓶の曲面を残している。もうしばらく砂にもまれたほうがいいような感じだった。

 ヒトデはヒトデではなくなっていた。クリスマスツリーの梢につける星になっていた。

 なんだか値打ちがなくなってしまった気がして捨てようかと思ったが、どこにもごみ箱がなかったのでまたポケットに戻した。

「あ、家見っけ」

 望遠鏡で子供たちが騒いでいる。それぞれが自分の家を探しているようだった。山と海に挟まれるように家がひしめきあっていて、その間を川が貫いている。

「電車だ!」

 また騒ぐ。ここから見ていると、二両編成が下手から現れ、上手にはけていった。音がずれて届く。

 待っていたところでベンチは空きそうにないので、足を休めるのはあきらめてさっさと降りることにした。日差しはさらに強くなった。たぶんニュースでは各地で夏日とかいわれるだろう。

 町まで下りてくると、さっきの犬が一匹で歩いていた。リードを引きずっている。

「どした。ご主人は?」

 うしろから声をかけた。

「かけだしていなくなった。探してる」

 振り向きもせずに答える。心配しているというより、いらだっているような声だった。

「いっしょに探す?」

「助かる。目の位置が高いほうが探しやすいだろうし」

 リードを持ったが、それは犬の行く通りに歩くためだった。どこを回るかはこいつの方が知っているだろう。

 あたりを見回しながら歩き回り、路地をのぞきこんだ。ますます暑くなってきた。

「水、いる?」

 自動販売機があったので聞いたが、返事の前に買っていた。手をお椀にして飲ませてやり、自分も飲んだ。

「ありがとう。きょうはきついな」

「日陰歩きなよ。照り返しきついし。あ、あの人」

 角を曲がると公園があり、さっきの人がブランコに座っていた。犬が急に走り出し、リードをはなしてしまった。そのまま勢いをゆるめずに飼い主の胸に跳びこんだかと思うと首をかみちぎった。倒れた体と転がった首から赤い体液が流れ、ブランコの下のくぼみにたまった。犬はこっちを振り返っていった。

「これは夢だ。ポケットを確かめてみな」

 飴にしか見えないビーチグラスが三つ。それとプラスチックのヒトデ。

「そういうことか。教えてくれてありがとう」犬にお辞儀をした。「でも、どうするんだい。ご主人殺しちゃって」

「さあな。つじつまなんか合わせる気はないし、そもそもおまえの夢だ。おまえがなんとかしろ」

「知らないね。この夢を見ている誰かさんにいってくれ」

 犬は笑った。赤い体液の付いた牙がむき出しになる。あまり気持ちのいいものではない。

「じゃ、行くよ」

 別れを告げ、その場を去った。一瞬どこへ行こうか考えたが、足の向いている海に向かうことにした。川を右手において道を下っていく。

 砂浜が見えてきたが、もうヒトデの指圧は感じられなかった。漂着物の線もごみは無くなっていて藻屑などの自然の物だけになっていた。砂にタイヤの跡が残っている。

 もういちど砂浜に降りた。乾いた砂は午前中以上にふわふわする。潮が満ちてきたのかさっきより波が陸に迫っている。とはいってもここの満ち潮は大したものではない。藻屑の線がそう教えてくれていた。

 砂に腰を下ろすと尻からぽかぽかと暖まってくる。ポケットから湿ったような感触がしたので手を入れてみると、ヒトデがヒトデにもどっていた。ぬめっとしている。取りだして波に放った。くるくる回りながら飛んでいったがいつまでたっても沈まず、沖にもさらわれず、おなじところでゆらゆら浮かんでいる。気のせいだろうか、波がひとつ過ぎていくたびに大きくなっているように見えた。

 いや、気のせいではない。もう大き目のハンカチほどになり、すぐに座布団くらいになった。それから座がとれて布団となり、絨毯サイズになると体の端が浜にとどいた。もぞもぞ動いてこっちにやってくる。砂まみれで汚いと思った。

 隣に来ると動きを止めた。しばらくそうしていると乾いてきたので砂を払ってやった。

「ありがと」

 低い、くぐもった声だった。

「いや。それよりどこから声出してんの?」

 ヒトデは体を持ち上げ裏を見せてくれた。中央がぱくぱく動く。

「ここから」

 また元に戻す。

「なるほど。ヒトデも日向ぼっこするんだね」

「する。日焼けがはやってる」

「日焼け?」

「体の色が濃くなる。いまは色むらがあるからもっときれいになりたい」

 赤に青と白の斑点がある体は、そういう通り赤にむらがあった。

「乾いてだいじょうぶ?」

「ほんとはあんまり良くない。けど、はやりだから」

「そっか。はやりか。ならしょうがない」

 気づくと、大きなヒトデがいつの間にかおなじようにずらっとならんで日を受けていた。隣のよりむらがあるのや、逆に職人が塗ったかのようなのもいた。

「あなたはなにしてるの?」

 そう聞かれると答えに困った。なにをしているわけでもないが、そう答えると素っ気なさ過ぎて会話を打ち切ろうとしていると思われないだろうか。

「波を観察してる」

 ついそんなふうに答えてしまった。

「楽しい?」

「全然。でもはやってるんだ」

「はやりか。ならしょうがないね」

 さっきのまねをすると咳をするような音を立てた。ヒトデの笑いらしい。ひとしきり咳き込むとまた聞いてきた。

「でも、はやりっていう割には一人だけだね」

「独りだけのはやりなんだ」

 波が引いていく。もう引き潮の時間なのか。隣や、ならんだヒトデたちが小さくなっていく。

「戻れるか?」

 心配になった。

「いや。すっかり干からびたから戻れない」

 弱々しい声だった。

「運ぼうか」

「いいよ。どうせ今朝うちあげられた時に終わってたんだから」

「そういうことか」

「そういうこと。生きたヒトデが日にあぶられてだいじょうぶなわけない。そのくらいわかるでしょ」

「わかるけど、話してたし」

「話せるってことと生きてることとは無関係だから」

 ヒトデはもう普通の大きさに戻っていた。耳を近づけないと聞こえない。

「なあ、また山に連れて行ってやろうか」

「いいね。展望台から放ってくれないか」

 そして、話さなくなり、プラスチックになった。拾ってポケットに入れ、立ち上がる。こうするのが私の存在する意味なのだろうか。海と山との往復が。

 また川を左手に見て歩き、御山に登った。こんどは神社は通りすぎた。

 展望台にはだれもいない。プラスチックのヒトデはクリスマスの飾りになっていた。いいのかな、と思いながら投げる。草木の間に落ちて見えなくなった。

 列車が上手から下手に走って消える。こんなことを繰り返すのにも飽きてきた。ここが夢ならこれを見ている奴の世界へ行けないだろうか。どうやらこの展望台がもっともそこに近い場所らしい。川が流れて海にそそぐ。なら源はどうなっているのだろう。

 展望台からさらに深い山道に入る。細くなった川が木々のすき間から見えた。さっきまでのように左手において上流に進む。展望台はほとんど頂上のはずなのに、川沿いに歩くとさらに上がっていけた。ときどき振り返るが木が密に生えていて見通しがきかない。空も見えなくなった。

 でも細くて荒れているとはいえ道はあった。だれがつけたのか知らないが、それは道だった。

 疲れてはいないが、ちょうどよい切り株を見つけたので座った。断面は新しく、こんなところにまで来て働いている人がいるのだなと思った。ちょっと止まって考えてみよう。

 夢を見ている奴の世界に行けたとして、なにをすればいいのだろうか。いまは分からないけど、行けばなんとかなるだろう。これまではそうだった。初めてのものごとでもそうなってしまえばどうにかなったし、後から意味も分かった。こんどもそうに違いない。流れに乗って進んでみよう。

 ちょっと姿勢を変えたとき、ポケットで痛みを感じたので立ち上がって中身を取り出すと、ビーチグラスのうち一個がただのガラス片になっていた。穴も開かず、けがもしていないが、危ないのでその一個は置いていった。年輪の真ん中にとがった茶色のガラスを座らせる。迷ったが、他のはまだ表面がビーチグラスの状態だったので持っていくことにした。

 音と、時々見える川を頼りに山登りを再開した。道はまだある。あるどころかごみまで落ちている。ペットボトルが空に向かってぽかんと口を開けていた。

 前の方の熊笹ががさがさしたかと思うと、青い肌の小さな人が転げるように飛び出してきた。こっちに駆け下りてくる。黒い目をぱちぱちさせている。

 足元で止まってこちらを見上げた。ぴょんぴょん跳ねる。

 どうしたらいいかわからなくて立ち止まっていると、小さな人が出てきたところよりもっとむこうでさらに大きながさがさ音がし、すぐに首のない人と犬が現れた。人は右手で首を抱え、左手でリードを持っていた。

「青い奴を見なかったか」

 犬が聞いてきた。

 感じで左足の裏に隠れているのがわかった。

「黙ってないで答えろ。これはワイルドハントだ。知ってるな?」

「西洋版百鬼夜行ってこと? でもいまは真昼間だし。あんたらは一人と一匹だけだね」

「それはどうでもいい。知ってるんなら妨害するとどうなるかも分かるだろ」

 ワイルドハント、怨霊どもの狩りを妨げると一緒に連れていかれるか悲惨な死しかない。そういう伝承は知っていた。

「これは夢でしょ、なんの禍があるっての?」

「無礼な奴。噛み殺すぞ」

 ふくらはぎに痛みが走った。噛んだか刺したか、そんな感じだった。もぎ離して犬の方へ投げる。こんなことをする奴をかばう義理はない。ズボンをまくってみると、血は出ていなかったが赤くなっていた。

「ほら見ろ。そんなのをかばうからだ。でもありがと」

 犬はあっというまに青い小さな人をくわえると腰から真っ二つに噛みちぎった。体液は赤く、意外と量があった。道を濡らし、細い線を引いてこちらの足元まで流れ、さらに下っていった。目を戻すといつのまにか青い人の残骸は人がくわえていた。げそがはみ出しているように手足がでている。

「じゃ、もう行っていいか」

「どこへ?」

「川の源」

「そんなものはないぞ」

「あるだろ。流れ下ってるんだからたどれば」

「それは現実のまともな川の話だ。ここは夢だぞ」

「でも行く。行けたらこの夢を見てる誰かの現実にたどり着けるかもしれない」

 人の首が笑った。音は切断面の方から出た。犬がうなるとやめた。

「おまえ、すごい奴だな。でも通さない」

「なんで? そっちはワイルドハントだろ。ならあんたは猟犬で番犬じゃないはず」

 また歩きはじめた。いつまでも止まっていられない。犬はうなった。横を通り過ぎるとき、噛もうとしたが結局そうしなかった。

 しかし、人の手が服をつかんだ。リードが落ちる。

「離せ」

 犬が笑う。その時、またポケットに痛みを感じた。探ってみると黒いビーチグラスがただのガラス片になっていた。それでつかんでいる手の甲をひっかいた。人は手を引っ込めた。犬はまだ笑っている。

「そのガラス、こいつにやってくれないか」

 それで、右目に埋め込んでやった。ついでにリードを拾って持たせてやる。切断面から満足げな吐息がもれた。

「気がきくじゃないか。じゃあな」

 ワイルドハントはあっという間に駆け下って見えなくなった。また静寂が戻ってきた。聞こえるのは川の流れのみ。

 さらに登るとその音がだんだん小さくなってきた。どうやら川そのものが細くなってきているらしい。しばらく行くとまた道沿いに流れが見えるようになったが、もうまたぎ越せるほどになっていた。一方で、岩が多くなり、流れがぶつかったり小さな滝のようになったりで、音は小さくても騒々しくなった。

 道はある時は川の左側、すこし行くと右側というようにたびたび場所が変わった。もう川そのものが道なので無くても困らないのだが、道は道なのでたどっていった。

 源にはあっけなく着いた。流れが水たまりになっていた。大ざっぱに円形でマンホールの蓋くらいだった。落ち葉や木のかけらが周りにたまっている。こんなのがいくつもあって、そのうちの一つを見つけたのだろう。しゃがんで指をつけてみるとかなり冷たい。湧き水だからかなと思った。

 ポケットのあたりでまた痛みを感じ、赤いガラス片を取り出した。でもこれをどうすればいいのかわからなかった。前の二つのように直観的にわかるかなと思っていたが、こんどはなにも浮かばなかった。目の前の水たまりに放りこもうかと考えたが、川の源にごみを投げ入れるのははばかられた。

 しゃがんだまま赤いガラスをすかしてみる。もとは瓶の口の部分だったのだろうか。そんな形をしていた。瓶の口だったとして、元の形はこうだろうと想像してみる。その想像の瓶で水を汲んだ。透き通っている。なにも漂っていない。

 意を決して飲んでみた。指を入れたときに感じたほど冷たくはない。味はない。飲み干すと想像の瓶は消えた。ガラスもなくなっていた。

 周囲の様子が変わった。なにかが現れたり消えたりしたのではない。でも変わった。解像度が上がったというのだろうか、落ちている葉や枝、生えている草木、森の匂い、すべてがはっきりしている。感触も違う。葉を拾うと乾いたところが崩れ、指に粉のようなかけらが残った。これまでそんなことはなかった。

 立ち上がり、元の道に戻ろうとしたが、どっちの方か分からない。とにかく流れに沿って下ったが、来た時の感じからもう道があるだろうと思うのにない。

 靴の汚れに気が付いた。泥やなにかのかけらがくっついている。

 記憶より倍は歩いただろうか。やっと道らしくなっている筋を見つけた。川はまだ川といえないような細い流れだったが、とにかく右手に置いて歩く。

 周囲がうす暗くなってきたころ、筋の幅が広がってきてほっとした。これは明らかに道だった。でもなんで暗くなってきたのだろう。もう足元がはっきりしない。

 なんどかつまづきかけ、これ以上は危ないと感じた。恥ずかしいがかまっていられない。大声で呼びかけてみたが、返事はなかった。

 しばらくするとなんとか道がわかるようになった。目が慣れたのだろう。それに葉のすき間から光が見えた。太陽よりは暗いがおなじような光る丸が空にあった。月だと思うがそう決めつけていいのか自信がない。でも、なんにせよおかげでゆっくりではあるがまた歩けるようになった。一歩一歩慎重に足を運ぶ。流れの音がやけに大きく聞こえた。

 進めば進むほど道が道らしくなる。またぼんやりと明るくなってきたころ、くしゃくしゃになったペットボトルを見つけたときはうれしくて拾いたくなったくらいだった。見慣れた太陽が、いつもと違う角度から光を浴びせてきた。さらに歩いているうちに光の方向が上の方になっていく。太陽が動く、という発見にわくわくした。

 とうとう町の音が聞こえてきた。車や列車の音、それからかすかに波の音。そして神社のわきに出た。

 舗装した道路は違う感触を足の裏に送ってくる。どこへ行けばいいのかわからないが、とにかく海へ向かった。

「おはようございます」

 犬を連れていた。いまは首がちゃんとつながっている。

「おはようございます」

 相手の言葉をおうむ返しした。

「散歩ですか。お早いですね」

「ええ、ちょっと気分がいいものですから」

 早いかどうかなんて知らないが、適当に答えておいた。

「どちらまで?」

「海に」

「いいですな。では」

 頭を下げて行ってしまった。なにがいいのだろう。

 また、海に向かう。ずっと下りで膝が飽きたといってきた時、惹かれる方向があったのでそちらに曲がった。

 おなじような規格の家が建ちならぶ中を歩く。静かな空気に生活音がまじる。そこに惹かれる元と思われる家があった。黙って門を開けて裏に回る。ここは知っていた。裏庭に面する窓から一家三人が寝ているのが見えるはずだった。

 その通り川の字があった。右から大人の女性。あの青い小さい人に似ている。真ん中に女の子。大きさと肌の色以外はあの青い小さい人そのものだった。布団からのぞく寝巻の衿は青だった。

 そして左の男性。この人が寝ているからこそ、ここに自分が存在している。

 じっと見ていると子供が起きてこちらに気づいた。大人を揺する。二人も起きた。

「そこからでいいですよ。朝を一緒にどうですか」

 男性が声をかける。女性がうなずいている。子供だけが不思議そうだった。

「では、失礼します」

 靴を持って窓から上がる。家の中も分かるので玄関に置いてきた。

 戻ると布団をたたみ、それぞれが朝の支度をはじめていた。着替え、洗面。そのうちに呼ばれたのでテーブルについた。

「トーストとコーヒーです。お分かりですか」

 女性がそれぞれを指さして教えてくれる。姿は知っていたがどうすればいいか分からないのでそういったら、トーストというものになにか塗り、コーヒーには白い粉と液体を入れてまぜた。

「どうぞ」

 女の子が笑う。その子のするとおりにトーストを食べた。コーヒーは苦くて甘みがあった。

「いつですか」

 女性が聞いてきた。なにも塗らずにトーストを食べている。

「いつ、とは?」

「こちらに来たのは」

 まだ意味がよくわからなかったが、とにかくこれまでのことを話した。しかし、それでよく分かったらしく、女性と男性はほほ笑んでうなずいた。子供は黙々と食べている。

「じゃ、父さんも変わるの?」

 食べ終わるとその子がいった。そうよ、と女性が答える。

「変わるって?」

 聞くと男性がむせた。

「そうか。知らないんですね。それはそうだ」

 子供がかばんを背負い、行ってきます、行ってらっしゃい、と出かけた後、男性が三人にコーヒーを淹れなおして説明してくれた。

「もう気づいていると思いますが、あなたは私の夢です。でした、かな。正確には。でもこっちに来ました。私と入れ替わるんです」

「嫌です」

 とっさにいったが、二人は首を振った。男性が続ける。

「嫌とかじゃなくて、そういうものなんです。娘も妻も入れ替わりました。次は私の番なんです。おっと」

 立とうとしたが、肩を押さえつけられた。恐ろしく強い力で、椅子にくっつくかと思った。

「嫌です。夢に帰りたい」

 またいった。女性がほんのすこし気の毒そうな目でこちらを見る。

「海は覚えていますよ。ヒトデやクラゲと話をしました。みんな日焼けしたがっていました。でもここでは話の出来るのは人間だけです。それはちょっとさびしいです。でも夢の通い路がある以上仕方ありません。私たちは行ったり来たりするんです」

 立つのをあきらめ力を抜くと、肩を押さえていた手がゆるんだ。

「行ったり来たり? ならまた夢にもどれるんですね」

「すみません。それは勢いでいった言葉です。本当に行き来できるのか確めた人はいません」

 男性がそれにかぶせるようにいう。

「変なことは考えないで。分かりますよ。夢では平気で取り返しのつかないことをします。でもここでは取り返しのつかないことはいつまでも取り返しがつかないんです。すべてがはっきりしてぼやけたところはありません。覚えておいてください」

「でも、ここでどうしたらいいんですか」

 男性と女性が顔を見合わせ、女性が口を開いた。

「私と娘は経験者です。だいじょうぶ。慣れるのには半日とかかりません。入れ替わりが終わればひとつひとつ『思い出し』ますよ」

 男性の方を向く。

「じゃ、あなたは」

「ええ、海に行きます。境界線を越えれば夢です。今夜からはあなたが見る夢です」

 もう一度立とうとした。不意を突けばあるいは……。

 しかし、その瞬間、妻との結婚式や娘が生まれた日のことが雲間から差し込む日光のように脳を照らした。

 結局立ち上がれず、男性が出ていくのをただ見守っていた。一度も振り返らず、なにもいわなかったし、女性も見送ろうともしなかった。まるで目が覚めて忘れ去られる夢のようだった。

 目を戻すと、テーブルの上の物について名前と性質が分かった。牛乳、バター、いちごとブルーベリーのジャム、砂糖、皿とカップとスプーン、バターナイフ、トースター、朝のドラマを見た瞬間、いままでの話がつながった。仕事も思い出した。在宅のエンジニア。遠隔でサーバー監視をするのが当面の業務だった。

 妻を見、首を振った。嫌だ。夢がいい。なんでこんなことをするんだ。そう大声でいったが、ほとんどはっきりした発音にはならなかった。うなりに近かっただろう。それでも妻は答える。

「それは私もずっと考えていることです。でも分からない。なんでこんな目にあわないといけないのか。夢ではないここはなんなのか。暮せばわかるけど、とてもややこしいところです、ここは。起きたことは起きたままだし、その起きたことが次に起きることにつながっていくんです。結果から原因をたどってみて理屈の通らないことは起きません。不快で、いまのあなたとおなじく嫌になってきます」

「他にもいるんですか」

「ご近所にもいるでしょう。でもお互い関わろうとはしません。家族は別ですよ。いまみたいに事情を教えてあげます」

「怖いのか」

「それはいまのあなたもでしょう?」

 その通りだった。今朝言葉を交わした犬の散歩をしていた人に、あなたも夢でしたか、などとは聞けない。そうです、と答えられたところでどうすればいいのだろう。

「なんで入れ替わらなきゃならない?」

「知らない。なんでも聞かないで。でも、どっちかが空になったら困るんじゃない?」

 笑った。それはそうだ。夢を見る立場、見られる存在。どちらが欠けても重複しても成り立たない。

 時間になったので仕事を始めた。やり方はもうわかっていた。ログをチェックして不審な点を調査、修正する。それから顧客の注文に応じた変更を行う。要所でチームに報告。暇ではなく、忙しすぎでもなかった。

 妻も別の部屋で仕事だった。総務で事務処理をしている。コーヒーを淹れたが会議中らしかったので保温にしてスマートフォンにメッセージを送った。コーヒーあるよ。

 そろそろ昼かな、と妻と時間を合わせるために聞きに行こうと立った時、ポケットで痛みを感じた。取りだすと赤いガラスのかけらで、指先をわずかに切ってしまった。机に置き、また座った。指をなめる。なんで。

「ちょっと出かけてくる」

「だめ!」

 妻が部屋から飛び出てきた。

「それを」

 手をのばしてきたので払いのけた。

「痛っ」

 ガラス片を持ったままだった。

「ごめん。でもどいて」

 押しのけたがうしろから腰のあたりをつかまれた。

 意外としぶとかったし、殴るとこちらの拳も痛いというのを知った。なにより首はそう簡単に胴体から離れるものではない。でも夢で見たようにやった。赤い体液が飛び散ったので体を洗って着替えた。外に出ると昼の日差しが高かった。

 どちらに行こうか迷ったが、やはり山の方にした。また水を飲もう。まず試したいのはそれだった。神社まで自転車で行って乗り捨てた。山道は急ぎ足で、ほとんど体力の限界まで駆け上った。

 道が細くなり、とぎれると走れなくなったが記憶を頼りにできるだけ急いだ。不思議なくらいなにもかもはっきり覚えていた。岩や生えている木が道標のようだった。切り株に座った茶色のガラス片も見た。

 源に着いた時、日は完全に沈んでいたが、月明りはあった。赤いガラス片を取りだした。

 想像すると瓶が現れた。水を汲んで飲み干す。

 周囲が明るくなった。同時になにもかもがぼやけ、解像度が下がった。山道を駆けたのに靴は汚れていない。疲れもしていない。

 すべて元にもどった。

 うしろで枯葉を踏む音がした。振り向く。

 いや、まだもどっていない。

 自分が立っていた。

「どういうつもりだ。なんでこっちに来た」

 腕をのばしても届かない。どんな動作をしても一拍おけるくらいの位置にいる。

「嘘つきめ」

 赤いガラス片を突きつけた。

「まだ持ってたのか。妻はどうした」

 喉を指で横一文字にはらう仕草をした。

「糞め」

「そっちだってそうだろう」

「気づいたのか」

 うなずいた。もう分かったと目でいった。そいつは言葉を続ける。

「だよな。現実なんて存在しない」

「だけど、これが夢ってことはどこかでだれかが寝てるんだろ?」

 そいつは苦笑いした。

「海に行ってきた。きれいだった。水平線の向こうにはなにがあるんだろうな」

「蟹と戯れてろ」

 嫌味をいってやったが鼻で笑うだけだった。一歩距離を詰める。もう一人の自分は下がらなかった。覚悟はできているらしい。ここは私の夢だ。

「自分は二人いらないか。なるほど」

 そういって見下した態度でこちらを見ている。わざとだろうか。聞いてみる。

「消されたいのか」

 そいつがなにか答えようとしたとき、横から勢いよく飛んできたものが押し倒して首を噛みちぎった。犬だった。リードが垂れさがり、その向こうには首を抱えた人がいた。右目が黒いガラスだった。一人と一匹のワイルドハント。

 赤い体液が流れたが、源には入らなかった。犬がこちらを見上げる。

「代わりに始末をつけてやった。おまえ、おしゃべりが過ぎるぞ。やることがわかってるんならさっさとやれ」

「慣れないもんで。ありがとう」

 礼をいうと犬は満足げにうなずき、ガラスの右目がリードを取ると去っていった。

 やることがわかってるんならさっさとやれ、か。いい助言だと思う。なら次は海だ。

 あっという間に川に沿って山を下り、神社を過ぎた。乗り捨てたはずの自転車はなかった。そういうことなんだろう。

 町を過ぎ、砂浜にでた。波打ち際に藻屑とごみの線ができていた。ヒトデやクラゲ、小魚はぬめっとした光沢を保っているものもあり、プラスチックとなっているものもあった。

 大きなヒトデが日光浴をしていた。声をかける。

「もう色むらはないよ。乗せてってほしい」

「どこまで」

「水平線の向こう」

 咳をするような音が返事だった。

「笑うな」

「でも、無理なことくらい知ってるくせに」

「遠いのか」

「距離じゃない。水平線の向こうは世界じゃない」

 ヒトデは笑いをやめ、説明してくれた。水平線のところで世界が曲がっていて、まっすぐ進んでいるつもりでも戻ってくるという。

「じゃ、行ったことはあるのか」

「海の生き物はみんな試してみる。そしてあきらめる」

 そのいい方で閃いた。

「山の生き物は?」

 また咳の音がした。

「長距離を泳げる山の生き物がいるなら、勝手に試したらどうだ」

 うしろから足音とうなり声がした。

「ヒトデの話、聞いた? できそう?」

「できるが、念のため、もう二、三人青い小さな人を食いたい」

 ため息をついてあきれるヒトデをほったらかしにして、私とワイルドハントはそこらのごみをひっくり返していった。

「いたぞ! 食え!」

 犬が捕まえて引き裂き、首が食う。あっというまに砂浜のあちこちに体液だまりができた。

「もういいだろう」

 そういって狩りを止めたのは犬だった。黒いガラスの目の人からリードを受け取る。

「行こう」

 一声吠えると走り始めた。一緒に走る。海は柔らかすぎるのをのぞけば大した障害ではなかった。波は地面の起伏に過ぎない。

「準備いいか」

 足に伝わる感触が変わり、進んだつもりでも浜との距離感が変わらないところに到達した。犬はそういってこっちを見上げた。ポケットから赤のビーチグラスを出してにぎりしめる。その拳を前に振り上げてたたきつけた。

 足元がしっかりしたなと思ったら、展望台に立っていた。犬はしゃがんでいた。周囲はいままで見たことのない鮮明さだった。太陽に照らされたすべてが目をそらしたいほどの情報にあふれていた。疑いようがない。ここがそうだ。夢を生み出す世界だ。

 あの、すみません、ペットはご遠慮いただいているんですが。そういってそばに来た男の首を犬が落とす。そして周りからの悲鳴に負けず遠吠えをしてから目に入る全員を始末した。どうやらここの人間は夢を生み出すが、生みだしたものへの耐性は持っていないようだ。そうなるとこんどのワイルドハントは歯応えがなくつまらないかもしれない。

 私は用済みとなった赤いガラス片を捨て、山を下りていった。

 夢を生み出すことができるものすべてを狩りつくす。そうしてなにもかもを終わらせる。宇宙はそう望んでいる、と私は結論した。だから赤いガラスは消えなかった。

 夢を見る能力を持った知的存在は別の宇宙を作りだしてしまう。それは安定のために排除されるべきものだ。そして私たちが選ばれた。

 夢見る存在がいなくなれば、夢の世界も通い路もなくなる。夢という形で情報をやり取りする通路がなくなれば宇宙は閉じ、エネルギーは完全に保存されて永遠不滅となる。

 やることがわかってるんならさっさとやれ。まったくその通りだ。私は充分知的だからそれを理解した。なら行動あるのみ。このワイルドハントは知的生命体の自殺だ。こんなことは宇宙が始まってから何万回、いや何億回と繰り返されてきたのだろう。

 夢を見るものはいずれその夢に滅ぼされなければならない。そうやって宇宙という構造が永遠に存在し続ける。

 犬がまた遠吠えをする。私も雄叫びを上げた。

 人類の歴史において、最初で最後のワイルドハントが始まった。


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