三、藁の血族

 駅前に河童の像が建てられて一週間。評判はまずまずだった。まわりを地域の老人会が花で飾ってくれたので映りもいい。人気の漫画家のデザインで、ファンも見受けられた。かといって一部の趣味の人にしか通じないような姿は避けてもらったので、新聞、雑誌、地域のコミュニティ紙も取り上げやすいらしく、けっこう大きくあつかわれた。また、インターネット上で検索すると個人の記事も増えてきていた。費用についてはきびしい批判もあったが、それでも広報としては成功といえた。

「こんにちは。散歩ですか」

 通りかかった老人がベンチに知り合いを見つけて話しかけた。

「そう、ちょっと休憩。駅前きれいになったね。河童ができて」

 声をかけられた方は腰をすこし浮かせ、耳の悪い老人特有の大声でそう返した。

「ほんとにねぇ。河童なんてばかみたいって思ってたけど、できてみたらはなやかになって。なにか像があるってのも悪くないね」

「この花、あなたの会でしょ。飾ったの」まわりの反応を気にしたのかふつうの声にもどした。

「そう、いえね、ちょうど季節だからいっぱいあったし、役所に話したら大いにやってくれって賛成してくれたから」

「そりゃそりゃご苦労様です」

「それじゃ、ちょっと買物しますので。お散歩ゆるゆると」

 電車が到着し、駅前が一時的に騒々しくなった。写真を撮っている者もいたし、駅や像近辺が位置情報ゲームのポイントになっているので、スマートフォンの画面を見ながら指を滑らせている者もいた。よそから来た人々は観光案内にしたがって駅前商店街を抜けて神社とその御山を見物し、川沿いに帰ってくるコースをたどるために散っていった。

 耳の悪い老人も立ち上がった。いつもの通り神社に向かうが観光コースではなく、地元の者だけが知る道を使った。御山に先に上って神社におりてくる。坂が急だが、木の実や野草を摘むのが目的だった。厳密にいえば神様の山のものをだまって採っているのだけれど、だれも気にしていない。そのかわりといってはなんだが境内の掃除や手伝いには積極的に参加していた。

 山道に入るがこつはわかっているので疲れない。足に歳は取らさない、とは落語で聞いたいいまわしだがうまいと思う。たしかにそうだ。上りながらあたりを見回す余裕がある。山は静かでだれともすれちがわない。ただし表の道とくらべると手入れがなかなか行き届かず、台風で倒れた木が脇にどかされただけで放置してあった。土を巻き込んで空を指している根が痛々しい。

『ほーい』

 倒木を横目に通り過ぎたとき、茂みの向こうの方から呼ばわり声がした。

「ほーい」

 なにか考える前にそう返した。子供のころの習慣がぱっと出たのだった。じいさんにしつけられた。呼ばわり声がしたら返す。それが御山のきまりだった。

 しかしいまどき呼ばわるなんて、となつかしさで微笑んだ。だれか自分のような老人が戯れにしたことだろう。現代では呼ばわり声は意味を失っている。

 そのじいさんの顔を思い出しながら一歩踏みだした瞬間、あっ、と立ち止まった。しまった。一声目で返してしまった。うっかりしていた。じいさんからいわれていたことがもうひとつあった。

“呼ばわり声は二声”

 山には恐ろしいモノがいるからな、とじいさんは頭をなでてくれながら教えてくれた。でも二声は呼ばわらない、と。

 一声目で返事しちゃったらどうなるの? と聞くと、モノに見つかる、といわれた。

 見つかるとどうなる? いや、知らん。でもモノに見つかってええことはない。

 神様の御山なのにそんな怖いモノがいるの? そういうと、じいさんは遠い目で御山の方を見、ため息をついた。モノはな、神様でもあるんだよ。まだよくわからんだろうが、神様の悲しい悲しい顔がモノなんだよ。ま、そのあたりはわからんでいい。呼ばわり声は二声まで待てばそれだけでいいよ。おまえはかしこい子だからちゃんと守れるな。

 きびしくて、やさしいじいさんだった。ポケットから携帯用の買物袋を出し、野草を摘み、木の実をひろいながら山頂まで上った。たしかに呼ばわり声がしたのにだれともすれ違わなかったし、追い越しもしなかった。御山のてっぺんは草木を刈り込んでこぢんまりとした広場に仕立ててある。いつのまにかだれかが据え付けたベンチがあるので、そこで一休みさせてもらう。

 日を背に受け、おだやかな風に吹かれていると眠くなってきた。こんなところで寝たら風邪をひく、と思いながらもまぶたは重くなってくる。ちょっとだけ、ちょっとだけうとうとしようか。それにしてもなんと心地よい日だろう。

 目が覚めた。時計を見ると十分ほどしかたっていない。本当にうとうとしただけのようだ。それでも頭はすっきりしている。すこしの眠りが単なる休憩以上に疲れを取ってくれた。

 ハチが目の前に現れた。老人はとっさに手を出して払おうとした。しかしどういうわけか出した手はハチを握りつぶしていた。厚めの紙で作った細工物の感触がした。ちょうど指の間から腹がはみだし、濡れた針がのぞいていた。あわてて振りすて、木の葉で手をぬぐった。

 目が覚めた。日が陰っている。寝ている間に濃い灰色の雲が空の半分以上を覆っていた。風も冷たくなってきた。老人は立ち、神社の方へ下りていった。

 いつもは人混みからは遠ざかるようにしていたが、その時は観光客がいる境内を見てほっとした。手水で手を清め、洗った。汚れてなどいないが、そうしなければならないような気がした。自分の手に不浄が染みついている感じがしてならない。

 お参りをすませると落ち着いた。夢のハチにあわてた自分が滑稽に思えてきた。しかし、あんな感触まである夢はほとんど見たことがない。ましてうとうとしたていどで見るとは意外だった。

 家に帰った頃、雨になった。野草は天ぷらに、木の実は下茹でしてじゃこといっしょに炊いた。体に良くないとわかってはいるが、味付けは濃くした。

 それから体調を崩し、一週間ほど家で過ごした。山で寝たのが良くなかったのだろう。微熱と倦怠感がとれない。医者は風邪でしょうと薬を出してくれた。

 八日目、すっかりよくなったので、たいした病気ではなかったのだが床上げということにして出かけた。いつもの散歩コースをたどる。すると河童のようすが変わっていた。

「なんだい? 花壇のようすがちがうね」

 いつものベンチに腰掛け、通りかかった知り合いをつかまえて聞いた。

「ああ、あの区切りね。いつものやつだよ、東と西と南の。わかるだろ。またやってんだよ」

「いつまでやってんだよ。歳とっても大人じゃないんだねえ」

 世間話がてら、細かい事情を教えてくれた。はじめに河童のまわりを飾ったのは南地区の老人会だった。そこへ東と西が自分たちも参加させてほしいといいだした。いつものように対抗心と嫉妬心をむき出しにしている。今回は河童と花壇の組み合わせがメディアに取り上げられたことに端を発していた。

 すでに花壇の整備と保守を行っていた南は難色を示したが、町の仲裁でゆずることになった。河童を中心にした円を四分割し、それぞれの扇を方角に合わせて東、西、南に分け与え、像の背面にあたる北は町が案内や掲示板を設置する。それで一応は落ち着いたようになった。

「一応は、ね」

 意味ありげにささやく。耳が遠くても表情で意味がとれた。

「もうやだよ。ぎすぎすするのは」

 顔をしかめる。数年前の居酒屋での殴り合いはいまでもおぼえていた。あのときは先生といっしょに皆が四方八方走り回って表ざたにならないようにおさめたが、もうそんな元気も気力もない。

「ああ、さすがにみんな懲りてるだろうから手は出ないと思うけどね。こうなったら我々みたいに会に入らないほうがのんびりできるかもな。じゃあ、散歩の邪魔したかな」

「いやいや、一週間引きこもってたからこれで追いつけた。ありがとう。それじゃ」

 挨拶をして立ち上がり、御山へ向かった。きょうも山道はだれもいない。一週間ぶりの御山の景色と空気を楽しみながら歩く。

 あの倒木を通り過ぎた時だった。いたずら心がわいてきた。家にこもっていた後の外出だから気分が高まっていた。

「ほーい」

 十数える。

「ほーい」

 もう一回呼ばわった。

『ほーい』

 茂みの向こうから返ってきて、老人はほほ笑んだ。わかる人がいたんだ。出会ったら呼び止めて話をしてみよう。

 しかし、前とおなじくすれ違わず、また、追い抜かさないまま山頂についた。不思議に思いながらベンチに腰を掛けた。知らないうちに別の道でもできたのかな。

 ハチが飛んでいたが、こっちには来なかった。葉の表、裏、木のこっち側、向こう側。獲物を探している。自分で食べるのか、巣に待っている子がいるのか。虫にはくわしくないのでわからないが、蜜や花粉をあつめる種類でないのはたしかだった。

 目が覚めた。日を浴びていると意識が遠くなるようになってすこし寝てしまう。

 下山し、神社で手を合わせ、商店街で買い物をしてまた駅の方にまわろうとしたが、遠くからでも騒ぎが起きているのがわかった。そういうのを見るのはいやなので遠回りして帰った。自分が知るべきことならだれかが教えてくれるだろう。

 結局、耳にとどいたのは三日後、だいたいおさまってからだった。

「先生が間に入ってくれてね。ようやくだよ」

 そういいながらとなりにすわってきた。煙草を出そうとしたがやめる。

「いいよ。気にしないから」

 駅前はいつものようすだった。常に人通りはあるが、混みあってはいない。

「減らしてるんだよ。夜中に咳が止まらなくて」

「じゃあ、南と西かい?」

 それかけた話をもとに戻すようにそう確認すると、相手は大きくうなずく。

「そう、西の。例の、ちょっと忘れっぽいのにがんこなのか認めないから、いつかこういうもめごと起こすんじゃないかっていわれてた人。知ってるでしょ」

 こどものけんかのような話だった。西の老人会が担当の区画を手入れした時に道具を南にちょっと置いて、そのまま忘れてしまった。それを南の人が注意したのだが、その西の人は置き忘れは認めたものの、よその区画にはぜったい置いていないといい張り、かつ、注意のしかたが気に入らないとしてもめたのだった。

「なんだい。いい歳してすなおに頭も下げられないのかい。それで先生がねぇ」

「うん、やっぱりこういう時は頼りになるね。自分は無関係なのにあっちこっちに頭下げてまわってたよ。みんな感心してる」

「実るほど……っていうから。双方うらみっこなしかい?」

 相手は首を小さく振った。

「どうも、ね。こんどは前とはちがう感じがする。表はおさまったけど、すっきりしてない」

「いやだね」

「いやだよ。こういうときはあんな会に入ってなくてよかったって思うよ。じゃあ。散歩の邪魔したかい?」

 いつもの言葉をいって笑いながら立ち上がるのを見上げ、いつもの返事をする。

「いいや。おかげで世の動きに追いつける。ありがたいよ。じゃ」

 商店街の方へ行く背中を見送ると、河童が目に入った。騒動など我関せずといった顔で花に囲まれている。

 それからいつものように御山に登った。倒木はようやくかたづけが始まったらしい。手ごろな大きさに切り分けられていた。

『ほーい』

 茂みの向こうからだった。十数える。

『ほーい』

「呼ばわるのはどなたー?」

 返事はなかったが、こんどはその場で待った。十分ほどそうしていたが、声もなく、姿もなかった。あきらめる。

 山頂につくまでだれにも会わなかった。あの後社務所で確めたのだが、ほかに道はないとのことだった。だいたい御山に勝手に道など作れるはずがない。倒木の処理が遅れたのも人手不足もあるが、御山だからという事情があった。のこぎりなど刃のついた道具はむやみに持ち込めない。きちんと御許しをいただくのにこれほどの時間がかかったのだろう。

 そして、頂上広場のベンチがなくなっていた。気にはなっていたのだが、倒木ついでに神社の管理でないものも取り除くのだろう。いい休み処になっていたけれどこればかりはしかたがない。

 居眠りできないなと思いながら、立ったまままわりを眺めた。遠くが霞んでいる。天と地の境がはっきりしない。

『ほーい』

 方向のない音だった。

『ほーい』

 わずかにこだまする。

『ほーい』

 三回目。返事をしようとした先だった。こういう時の対処法は教わっていない。四回目まで待ったほうがいいだろうか。

『ほーい』

 音が大きくなったが、近づいているという感じはしなった。

「どなたー?」

『ほーい』

 単調な声だった。もしかしたら人工的な音を呼ばわり声とかんちがいしているのかもしれない。はるか遠くの工事の音や放送が大気の具合かなにかで響いているだけなのだろう。そんな現象について聞いたことがある。意思を含んでいるとは思えない。

『ほぉぉぉぉぉいぃぃぃ』

 でも薄気味悪い。もう降りよう。

 目が覚めた。ベンチに座っている。立った時にハチの死骸が足元に転がっているのに気づいた。帰るときに気づいたのだが、背のところに通知文が貼りつけられており、所有者の申告がなければ撤去するとあった。

 山を下りると大騒ぎになっていた。あの西の老人会の人が、道具の放置を注意した南の人を傷つけた。河童の像の前で、手入れに使っていたスコップを横ざまに振り回した。南の人は顔を切られ、驚き、よけようとして倒れたときに像で頭を打った。一時は意識を失ったという。

 その像や周囲はすでに青いシートで覆われていたが、花壇や地面のタイルに赤さび色の点々がのこっていた。警官と駅員、二種類の制服が話をしている。当事者はもういない。それぞれ病院と警察だろう。

 目を背けて帰った。まったくのひとごとなのに胸が波打つ。意識しないと呼吸も荒くなった。いつごろからだろう。こんなふうにできごとに過剰に共感して反応するようになったのは。

 しばらくは引きこもろうと決めた。毎日時刻表のようにすることを決め、できるだけ波風を立たせないようにしてきたのに世間はそんな気持ちを理解してくれない。とうとう人が傷ついた。目を閉じるとまぶたの裏の画面に赤さび色がひろがった。すわって熱い茶を冷ましながら意識してゆっくり飲む。いつもの方法だが効果はあった。飲み終わるころには食事の用意や風呂など日常の行為を行う気がもどってきた。

 家のなかや庭で体操をしたり、縁側で茶を飲んで十日ほどすごした。知人が立ち寄ってくれるが、こういう性格は知られているので外出を避けていても大ごとにはなっていなかった。茶菓でもてなし、うわさ話をありがたく聴いた。

 それによると、傷害は先生でもおさえられなかった、というより、刑事事件にまで手を出すつもりはないようだった。報道もされた。地元がこのような形で取り上げられるのは恥ずかしいと思った。

 老人会は花壇から手を引いた。町は続けてほしがっていたが、血の流れた事件への忌避感情はかなり強かった。しかし、せっかくの花なので町が引き継ぐ方向で動いている。世話するボランティアを募集するんじゃないかとのことだった。

 河童とそのまわりはきれいに洗浄された。清掃予定はまだまだ先だが赤さび色の点々をつけたままというわけにはいかない。その部分だけふき取るのも不自然なので全体が洗われた。それでも駅前広場全体から見ると河童周辺だけ照明があたっているかのように浮いていて不自然になっていた。

「なんかね、きれいにしすぎ。あそこまでやるんだったら広場全部やらなきゃ」

 いつもうわさをもたらしてくれる知人が茶を飲みながらいった。

「予算やらなにやらあるんだろうさ」

 適当に返事をした。まだ自分の目で見ていないので想像しにくい。

「ああ、それでもちょっと出るんだって。花壇の世話」

「ボランティアじゃ?」

「そ、ボランティアってことになってたんだけど、こんどばかりは集まらなくて。先生も動いてくれたんだけど、血がでたからね」

「先生でもだめかい?」

「うん。それに加えて会同士がややこしいことになってるから。先生困ってたよ」

 そういいながら身を乗り出す。

「どうだい? 手を挙げてみたら」

「ええ? いきなりなんだい」

「だって、出るんだし。こづかいていどだけど。それに場合が場合だからよそからねたまれたりしないし、会同士のややこしいあれこれにもまきこまれないよ」

「あんたはやらないのかい?」

 即答を避け、話をそらせた。

「女房が南だからね。あいつの立場があるし。どうだい、通しといてやろうか」

「もうしたんだろ?」

 すこしあきれたようにいう。こいつがこういう話を持ち込んできたときはすでに進行していると見たほうがいい。

 返事がわりに大笑いが返ってきた。

「いつまでも家にいてもしょうがないだろ。やんなよ」

 強引だが、憎めない。それにそろそろ外に出ようかと思っていたところでもあったのでうなずいた。

「じゃ、こまかいあれこれは町からきちんと文書がくるから。悪いようにはしないよ」

 週三日、二時間ほど。落ち葉やごみを掃除し、肥料を施し、全体的に様子をととのえる。ひさしぶりの土いじりは悪くない。畑仕事の経験があれば年をとっても片手でできるような仕事だった。それでも町の仕事なのであつかいはきちんとしていた。保険もつく。ご苦労様と、通りかかる人は声をかけてくれる。

 それに河童。いままできちんと見ていなかったが、手入れついでに近くで見ると悪くないなと思った。気づかなかったが、服や小物などの細工が細かい。この町の河童伝説は、えらい僧侶が築堤を行わせるために藁をたばねて作った人型が、完成とともに野に放たれたというものだった。治水工事を行っていたのでそのまま川にとどまり、いつしか河童になったという。そのいい伝えを表すかのように昔の道具を身につけている。

「だけど不思議なんだよ。それだけのことしたのにそのお坊様の記録がないんだよ。お寺にも」

 いっしょに手を動かしている老人が河童を見ながらいった。

「変だね。堤防工事の記録はあるんだろ?」

 おなじように土をほじくりながら返事をした。

「それはある。ほんとは農民を使ったんだって。年貢の一部減免ってことで」

「なんだ、河童って農民のことか」

「ただな、学者のいうには農民だけにしては規模が大きすぎるし、仕事がきっちりしてるんだって。そこが謎でさ、よその専門集団が加わったって説もある。でもそっちの記録もない」

 まじめな顔をしていた。たしかにそれは町の歴史の不思議だった。しかし、年月はなんでも洗い去ってしまう。記録がないものその類だろうと思われていた。ないのではなく失われたのだろうと。

「藁の河童かい?」

 額にくっついた葉を払い、にやりとしながらいった。結局謎は全部河童のせいにしておくのがいい。

「はっは。そうそう、そういうことにしときなよ。おかげで観光客もくるようになったし。商店街な、日よけを新しくするんだって」

「そりゃ景気がいい」

 ふたりは笑った。話を聞いていたほかの老人たちも笑った。商店街の変化はなにかと噂になる。それも今回は明るい話なのでみんな遠慮なく口にした。

 仕事のない日は降ってさえいなければいつもの散歩をする。御山は台風の片づけが終わり、きれいになった。それと山頂の広場のベンチが変わっていた。こんどは神社が設置したもので、丸太を削って作ったようなかたちをしていた。さわってみると樹脂だったが遠目には見分けがつかない。座っても冷たくなくてよかった。

『ほーい』

 空は青く、雲ひとつない。

『ほーい』

「ほーい」

 返事をした。むだでもいい。なにかのまちがいでもいい。自分が呼ばわり声だと感じたのだからこれは呼ばわり声なのだ。だからじいさんに教わった通り返しておこう。

 だから、足音が背後に近づき、背もたれの部分を軽くたたかれたときは驚いた。

『おう、なんども返事をしてくれたのに姿を見せられなくて悪かったな』

 枯葉の匂いがした。振り返りたいのに体が動かない。目はじっと前だけに固まってしまった。

『でも、あんただってよくないんだぜ。ほら、二回目まで待たなかっただろ?』

 声も出せなかった。

『モノについては知ってるよな。あんたくらいの年なら』

 うなずくことも、首を振ることもできない。

『かんちがいするな。わしはモノじゃない。モノはここの神の顔のひとつだからな。わしはそんなに偉くはない。でも安心しな。おまえは憑かれちゃいない。お使わしを握りつぶしたから。良かったな、いや、残念だったかもな。神の容れ物になれたはずだったのに、断ったんだ』

 ハチが目の前を横切ったが、こちらには見向きもしなかった。そう感じられた。

『それからはわしが呼ばわっていた。呼ばわるのはモノだけじゃない。そのあたりはおまえたちのいい伝えはちょっと違うな』

 枯葉の匂いが強くなった。もっと近くに来たのか、息がかかっているのかわからない。

『わしは山童だ。変ないい方だが、山の河童さ。堤ができたあと、みんな川にとどまったわけじゃない。それもいい伝えのまちがい。山を選んだ人型もいたんだ』

 いつのまにか、雲がでてきていた。白いが厚く、布団綿をちぎって撒いたように中身が詰まって見えた。

『いい伝えのまちがいはまだまだある。おまえたちは時間を超えてものごとを伝えるのは苦手なようだな。藁の人型は川にとどまって河童になっただけじゃなく、山に住んでわしのような山童にもなった。そして、里にひそみ、人間と見分けがつかなくなった人型もいたんだ』

 耳をふさぎたかったができない。聞きたくないといいたかったが口を開けない。

『おまえにはその血が流れている。かなり薄まっているとはいえまだまだわしらには見分けられる。おなじ血。藁の血だ』

 日が陰った。空気が冷えるのがわかった。

『なにもしやしない。わしらはモノじゃないからな。憑きはしないしできない。ここに住まわせてもらってるだけの山童さ。でもな、血族を見るとうれしいのさ。おまえら里の一族はおもしろいことを考えた。人と交わることで血は薄まるが増えられるようになった。石のようにすり減り、ゆっくりと砂粒以下になって消えるだけのわしらとは大違いだ。そしてたまにおまえのように話ができるくらい藁の血が濃いのがでてくる。組み合わせとは不思議だな』

 首を振った。全身の力が必要だった。

『おお、おまえは特に濃いようだ。だからモノのお使わしを取り除けたのか。あれはまぐれじゃなかったんだな。ではもうすこし聞いてもらうぞ。藁の血族なら知っておけ。損はしない』

 もう一度首を振ったが、背後の気配は消えなかった。

『われらの起源だが、もう察している通り坊主なんかじゃない。それは後から作られた話だ。しかしまったくの嘘でもないから藁の血族を自称しているがね』

 力を込めると足の小指が動いた。

『よせ。力を使いすぎるな。それに逃げようとしてもむだだ。聞け。わしらが藁からできているのと治水工事のために生みだされたというのは正しい。だが、生命の火を灯したのは僧の祈りというまっとうなものじゃなかった。血だよ。人間の。邪な術だったんだ。わずかな子どもを生贄に大群ともいえるほどの人型を作った。だからすべてが終わったら記録は抹消された。人型のほとんどは処分されたが、こうなるのを察していた少数が逃げ延びたんだ』

 足が冷え、こわばる。力を緩めた。

『そうだ。それでいい。落ち着け。手に取って示せる証拠はないが、おまえなら分かるな。嘘ではないと。わしはおまえとちがって世代を重ねているんじゃないから、この話は体験談だ。それも分かるな。かといって、人間に恨みはない。復讐なんか考えてない。邪な術とはいえ、そもそも生みだしてくれたのは人間だからな。けれど借りもないぞ。堤を作ったんだから。わしらはただすり減って消える時が来るまでなにごとにもわずらわされずにいたいだけなんだ』

 目が潤む。

『うん。おまえたちは例外だ。里にひそんだのは正しい判断だったか、わしにはなんともいえん。人と交わったので滅びはなくなったが、血が段々薄くなり、時には濃くなり、子々孫々藁の血族は続いていく。今後もおまえのような者が世に出てくるだろう。人の世の中にいるのになじめず、いつもまちがった場所にいるんじゃないかというもやもやした感じを抱いていなくちゃならない』

 風が濡れた頬を乾かす。

『きょう、お前は真実を知った。けれど忘れろ。これは幻夢だ。居眠りをして見ただけの夢だ。気にするな。知らせなかった方が良かったかもしれないが、でも藁の血族は、いや、わしはさびしかったんだ。ただすり減る前に話の通じる者に出会えたからついおしゃべりをしてしまったんだ。ありがとうな。聞いてくれて。でも忘れていいぞ。じゃあな。もう二度とおまえの前には現れない。呼ばわらない。約束する』

 目が覚めた。雲ひとつない青空とやわらかい日差しが全身を暖めてくれていた。立ち上がりながら手のひらを見た。ここに藁の血が流れている、らしい。夢にしてははっきりしていた。

 頭を振る。民俗学の本を読み漁って継ぎ合わせ、オカルトをちょっと振りかけただけの三流の想像だ。夢にしても自分の発想のていどの低さが恥ずかしかった。

 大きな蟻が向かってきた。靴をはい上がろうとする。見たことがないほど大きい。女王の引っ越しだろうか。気づいた瞬間、払いのけて踏みつぶしていた。そして、その行為が正しいとわかった。どうやらモノの方はあきらめていないようだ。

 老人は下山し、神社で手を合わせ、駅前の広場にもどった。河童が花に囲まれて立っている。その像にうなずいた。この里で生きていかなくちゃならない。そう選んだのだから。


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