二、ヤドカリのお宿
アオはよく動く、石のすき間にかくれっぱなしのミドリとはちがう。その中間がアカで、気まぐれに動いたりじっとしていたりする。キはすみでじっとしているが石の下には入らない。磯で捕まえたときにはヤドカリにこんな個性があるとは思っていなかった。
それぞれの名前はハサミにつけた目印にもとづく。右の大きいほうに耐水性の塗料でちょんと点を打った。
水槽には浜の砂と石を入れ、金魚を飼っていた時のエアレーションをとりつけた。餌は魚の頭や、野菜や果物の端切れをあたえている。水は捕ってきたところで汲んできて、掃除しながら半分ずついれかえている。週一くらいだろうか。ときどき忘れていて十日ほど空くがそれほど悪い影響はないようだ。大丈夫そうだったら二週に一回くらいにしようかなと考えている。
それから貝がら。ひろってきたのを二十個入れている。サイズはいま入っているのとおなじくらいから特大まで散らばるようにした。引っ越しについて調べてみたけれど、頻度や傾向はなさそうだった。すぐに引っ越すと書いてるのもあるし、飼いはじめて一年で一回しか越していないという記述もあった。
だから一月半ほどたってアオが引っ越しているのを見つけたときはなんだかうれしかった。なにがうれしいのかわからないけれど、ちょっと濃いめのすじが入った貝がらにうつっているアオをなでてやりたかった。
それがきっかけになったのか、十日ほどでひととおり全員が貝がらを変えた。アカ、キ、そしてなんの不満があったのかアオが二回目、それからやっとミドリ。いつの間にかちがう貝を背負って石のすき間で触角をゆらゆらさせていた。いや、よく見るとアカもまた変わっていた。前のに似ているけどちがう貝だった。いまは水槽の壁をこするように脚を動かしている。ガラスをどう思っているのだろう。
「規則性?」
学食で友人にヤドカリの話をした。水産学部なのでくわしいだろうと思ってのことだった。
「そう。飼いはじめて半年ほどになるんだけど、引っ越しする順番がいつもおなじ」
そういって記録を見せた。
「いや、そんなの聞いたことないなあ。ヤドカリの研究してるんじゃないけど」
「でもさ、いつもだよ。この順番」
友人は見せたスマートフォンの画面をじっと見る。そして笑った。
「なんだ、冗談かよ。まじめな顔しやがって」
だまっていると続けていう。
「これ、グーグルじゃん」
そういって自分のスマートフォンで検索ページを開き、ロゴを見せてきた。青、赤、黄、青、緑、赤。
「いや、そんなじゃなくて。ほんとに」
そういえばそうだと驚きながらも否定した。こういうとき冷静にはなれないもので、あっちこっちに散らかった話し方になった。それでかえって冗談ではないとわかってくれたようだった。
「まあ偶然だと思うけど、論文とか調べといてやるよ。ヤドカリ同士が集まって暮らしてたらほかの個体の引っ越しに影響受けないか、とかな。グーグルの順番になったのはたまたまかもしれないし」
「でも、色の目印つけたのは俺だよ」
「それもふくめて偶然ってこと。だからたとえばアオがムラサキだったら紫、赤、黄、紫、緑、赤の順になってたかもしれないだろ」
「そんなになる確率ってめちゃくちゃ低いだろ?」
「そうだけど、ゼロじゃない。世の中の驚くようなできごとってそういうおっそろしく低い確率のことがたまたま起きたからみんながびっくりして世間に広がってるわけで、おまえのグーグルヤドカリもそうじゃないのかな」
「グーグルヤドカリっていうな」
笑いながら返す。偶然については多少引っかかるが、そういわれてみるとそんな気もする。そのあとは遊びの話や共通の友人のうわさに変わった。
「じゃ、手間かけるけど、急ぎじゃないからあいてるときにしらべといて」
「おう、コーヒーくらいおごれよ」
研究棟に帰る友人を見送った。いつもだが、あいつは頼りになる。相談事の大小にかかわらずなにか策を示してくれる。
でも、ほんとうに偶然で片がつくのかな、とさびしくも感じた。できごとには意味があってほしいと考えてしまうのは人間の人間たるところだろう。そうでなければ自分がここにいるのも偶然の積み重ねと宣言されているようなものだ。あのヤドカリたちもただ存在しているだけではなく、そこにいる理由があるはずだ。
しかし、あるはずだ、と述べる心の奥で、存在は存在であり、意味や理由などないと叫ぶ部分があった。そこを取れかけのかさぶたをなでるようにして帰宅した。
友人のすすめにしたがって色を変えてみようとしたが、結局やめた。そうやっていうとおりになったとしてもつまらないだけだ。偶然でもグーグルの色の順に引っ越すヤドカリというのは話のタネになる。
しかし、その日からまったく引っ越ししなくなった。ずっと観察しているが、もう三か月になる。みんなお気に入りの貝を見つけたのだろうか。
そして、友人からはそんな論文は見つからなかったといわれた。ちょっとがっかりした表情だったのだろう、論文がないのはそういう事実がないってわけじゃない、と変ななぐさめが入った。礼をいってコーヒーをおごった。
エアレーションの低い動作音と水泡のはじける音を聞きながら眠る。夢とわかる夢を見た。ときどき見るのだが、夢とわかっても見ているだけで登場人物として自由に動けはしない。あくまで観客だった。
けれど、その夜の夢には色がついていた。といっても単色で青だった。いつもは白と、黒の濃淡のみだが、その黒の濃淡の部分が青になっていた。安っぽい効果をかけた昔のビデオ映像のようだ。
街を歩き、クレープを買い食いする。公園の芝生で昼寝をする。以前つきあっていた女の子が唐突に出てきていいあらそいをした。青かった。悪夢ではないが全体に不快な夢だった。
翌朝、水槽をのぞくとアオが引っ越していた。
その二日後にこんどは緑の夢を見、ミドリが引っ越していた。それからまた二日後に赤、さらに三日後に黄の夢を見、それぞれ翌朝にアカ、キが越していた。
これも偶然だろうか。でも、予知夢にしてはくだらなさすぎる。飼っているヤドカリの引っ越しを予知してもなんにもならないし、夢なので人にいえないし証明もできない。
証明、と思ったところではっとした。前のスマートフォンを捨てずにとってある。これを監視カメラにできないか。
なんでも知っているグーグルで調べ、古いスマートフォンを無線接続して監視カメラアプリを入れた。本と空き箱を使って水槽を撮れるように固定する。設定は苦労した。動体検知ができるので動きのあるところだけ残せると思っていたのだが、エアレーションの水泡や漂うごみを検知してしまう。ヤドカリが動いたときのみ記録するよう感度調整するのに一苦労した。
でも、また引っ越ししなくなった。はっきりした夢も見ない。監視カメラの方は毎夜一時間くらい記録を残しているが、引っ越しではなく、ほとんどアオかアカが気まぐれに動いているだけだった。
しばらくすると水槽の前の監視スマートフォンが見た目にうっとうしくなってきた。それにそんなことを気にしている自分がばかばかしくなってきた。飽きてもきた。もうやめにしてかたづけてしまおうか、と思うが、明日、明日とずるずるのばしてしまう。どこか期待もしているのだ。なにかあるんじゃないかと。
もう明日でやめようと決心した夜だった。青の夢だった。公園の芝生に寝転んでいるが、こんどは惣菜パンをむしゃむしゃ食べている。袋にいっぱい入っている。ソーセージ、コーン、玉子、ツナマヨ、焼きそば。これは高校の購買の惣菜パンだった。でも袋は近所のスーパーのだった。
目覚めるといつものように通知が来ていた。水槽を見るとアオが越していた。朝をとりながら記録を確認した。引っ越しは十二時過ぎだった。
昨夜布団に入ったのは十一時半くらいだった。夢を見た時間なんかわからないけれど、眠りに入ってすぐ見た夢を覚えているものだろうか。予知夢だと勝手に考えていたのはまちがいかも。夢の方が後? 偶然じゃなくてなにか関連があるとするとなんだろう。
かなり無理のある仮説を立ててみた。自分は無意識の領域でヤドカリの引っ越しする兆候がわかるようになっている、というものだ。成長した体を窮屈そうにするとか、居心地悪そうにしているなど、わずかな動作から引っ越すヤドカリがわかり、それが夢の色となって表れる。つまり観察の結果が目覚める前の夢として表示されただけなのだと。それほど熱心に入れ込んでいるとは思えないが、心の奥底ではヤドカリたちをじっと見つめていたのだろうか。
「おい、最近ヤドカリの話ばっかだな」
そう指摘されて恥ずかしくなった。雑談をしていると必ずヤドカリの話題を入れてしまう。自分の話ばかりする奴は嫌がられるが、おなじようなものだ。
「悪い。気になるんだ」
「ヤドカリが? 引っ越し観察まだしてるの?」
「してる」
監視カメラの話をすると友人の表情が曇った。笑い飛ばしてほしかったのだが。
「ちょっと気にしすぎというか、こだわりが強いからな、おまえは」
「あ、そういうとこあるかも。うざいか?」
「うざいってほどじゃないけど。慣れてるから」
「慣れてる?」
「中学からずっとだし」
「まあ、前からだしな。俺のこだわり癖は」
「うん。でもだれにも迷惑かけないから。変わってるってだけで」
コーヒーをかき回す。テーブルの上では記録が再生されっぱなしだった。アオのだった。
「研究ってのはこだわることなんだろ? お前だって」
逆襲のつもりでいい返した。研究室で飼料の袋を敷いて夜を明かすような奴にいわれたくない。いまだって無精ひげで薄汚れている。
「そうだけど、おまえみたいに独りじゃない。結果は研究仲間にオープンだし常に批判も受ける。健全だよ」
「俺は不健全なのか」
「はっきりいうとそう。俺からすると独りよがりすぎる。ヤドカリの引っ越す順番とか夢との関連とか、理屈として通ってないのはお前自身よくわかってるだろ」
うなずくしかできなかった。
「わかってるならいい。遊びならともかくのめりこむなよ。理屈を考えるときは必ずケチをつける奴を同席させとけ。心の中に味方ばっかりそろえるんじゃない」
「きょうはえらく説教するな」
「前からそうだったっていったけど、この頃ちょっと心配になってきたから」
「ありがと」
夢の色は必ず一色ずつだった。それもおかしいし、引っ越しは夜、寝ている時にしか起こらないのも考えてみれば変だ。これも偶然か?
新しいヤドカリを加えようと思ったが、いまの水槽では狭すぎる。やめておいた。それなら入れ替えればとも考えたが、この四匹には愛着がわいており、逃がすのはいやだった。
愛着、なのだろうか。三か月ほどたち、はっきりした単色の夢と引っ越しに慣れ、もういいやと監視カメラを片付けてしまったある日、ミドリが死んだ。水換えの時に発見した。だからいつ死んだのか正確にはわからない。最後に緑の夢を見たのが二週間前だからそれ以後なのだろうというていどだった。悲しみはまったくなく、水汲みついでに磯に放った。ほかの三匹に食われた様子もなく、ただ貝の中で縮んでいた。
それから二色になった。緑がどこかに加わっている。青と緑、赤と緑、黄と緑。人の顔とか、看板とか、一部が緑になっていた。それでも引っ越しのルールは変わらない。翌朝は主となる色のヤドカリが貝を替えていた。
さらに一か月が過ぎたころ、アカが死んだ。ミドリとおなじで縮こまっていたので、ミドリとおなじように磯に帰した。
夢に赤が加わった。公園の鉄棒が赤い。逆上がりをする子供の腕も赤かった。
それからキが、アオが死んだ。夢は色とりどりとなった。どの色が主でもない。混じることのない四色がぎらぎらと世界を彩っていた。
水槽や器具を洗って物置に片付けた。つぎを飼う気にはなれなかった。部屋は水槽の分空間ができ、エアレーションの音が消えて沈みこむような静けさがもどってきた。
「ヤドカリ、どう?」
学食で昼食後にコーヒーを飲んでいると、友人がやってきて思いついたというふうに聞いてきた。無精ひげをなでながら正面にすわる。手には缶ジュースを持っていた。
「どうって?」
「引っ越してる?」
「うん」
「夢は?」
「見てる」
「おい、大丈夫か」
「大丈夫?」
「なんか、もっと話せよ。答えてるだけになってる」
ここは学食のくせにコーヒーや紅茶には白くした油じゃなくてミルクピッチャーがついてくる。中の濃い牛乳は農学部提供だった。そのかわりアンケートに答えないといけない。チェックボックスに印をつける。
「あ、すまん。上の空だった。ヤドカリな、逃げた。いや、いなくなった、引っ越した。ううん、死んだよ」
「なにいってんだ。徹夜明けか」
「そんなとこ。死んだ。水槽とかもう片付けた」
あきれたような顔をしている。あきれるようなことをいったのだろうか。
「とにかく休め。ひどい顔だぞ」
「おまえだって」
「研究忙しくて。生き物はこっちの都合では動いてくれないからな」
「それはわかる。ヤドカリどもとは一度だって分かり合えなかった。犬や猫とはちがうな」
そういうと友人の目がやわらいだ。
「やっとまともな顔になった。さっきまで心をどっかに飛ばしてたみたいだった」
「着陸した?」
「軟着陸じゃないけど、乗客の一部は無事って感じ」
「一部かよ」
「心が全部無事なやつなんかこの世にいないよ」
友人は立ち上がった。
「おまえこそ休まないのか。俺にいっといて」
その顔を見ていった。
「うん。きょうこそ産卵を確認する。じゃあな」
学食を出ていく背中を見送った。空き缶は置いていったので始末してやった。
夢は変わらず四色だった。自分が自分でなく、観客のように見ているだけなのもおなじだった。いつもの公園にいて黄色の芝生に寝そべっている。木は青で、人は緑。子供の手だけ赤かった。
もうわかっていた。ヤドカリなのだ。引っ越し先が夢というだけで、あの四匹はいまここにいる。そう考えていると自分が体を起こしたのがわかった。さらに振り向く。そこに貝が落ちていた。空き家の貝だった。いくつもあった。
そばに寄って両腕を使って大きさをはかる。ちょうどよいサイズ感のはない。大きすぎるか、小さすぎるか、入口はよくても中が窮屈だった。それでもなんとかがまんできそうなのをひとつ見つけた。黒ごまのような点々がついている。あ、と思った。これは黒と白だった。
腕と足を使って中のごみをかきだした。見た目より多い。砂粒やさんごのかけら。なにかわからないやわらかいかたまり。それらにも色はついていなかった。
かきだしているうちに自分の体を自分で動かせるようになっていた。まるで起きている時のようだった。
きれいになったので足からねじこんでいった。貝に合わせて文字通りねじるようにひねる。自分の体がこんなにやわらかいとは思わなかった。するすると奥へ入っていける。
そして心地よかった。貝の内側は冷たくも硬くもなかった。小学生のころ、ピアノにかけてあった黒い布にくるまって遊んでいてしかられたことがあるが、そんな感触だった。
全身がおさまり、ヤドカリのように肩から上だけを出した。周囲の人々はなにも反応していない。こちらが見えていないわけではなさそうで、通りすぎるときはよけていったし、腰を下ろすときも適度な距離を保っていた。
自分だけ色がないのもそれほど気にならなくなってきた。貝はあまりにも快適だった。もうずっとこのままでいたい。
空を見ながら目を閉じかけたとき、ヤドカリについて正しい方向から見られるようになったのがわかった。ヤドカリはヤドカリではなかった。空間こそがヤドカリだったのだ。中身が死んでなくなり、空いた貝のその空っぽの空間そのものがヤドカリの魂なのだ。貝の中の空間でらせんにねじれる自分の体は閉じた宇宙だった。
妄想であってもかまわない。自分自身がヤドカリになった以上、もう目覚めたくはない。
色と自分の肉体と貝。ヒトが得られる最高のヤドカリを手に入れた。こんな幸せなことはない。
了
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