夢の通い路

@ns_ky_20151225

一、夕焼け小焼け

 きょうから五時半か、と『夕焼け小焼け』を聞きながら洗濯物をたたむ。昼寝をしたので頭はすっきりしている。夕日の名残が雲の底を染めているのが見え、下の広場から子供たちのバイバイが聞こえてきた。階段を三階までかけ上がる娘を想像する。

「ただいま」

「お帰りなさい。ちゃんと手洗って、うがいも」

「おやつは?」

「なにいってるの。すぐご飯なのに」

 洗面所に行く娘は不満げだった。その背に声をかける。

「それまでに宿題やっときなさいよ。飴一個ならいいから」

「はーい」

「のばさない」

 自分の部屋からかばんを持ってきて、リビングのテーブルに勉強道具をひろげる。右頬がまるくふくらんでいた。こっちを見て口を開けずに目だけで笑う。たしかに飴一個といったが大玉のどんぐり飴とは。そういう要領よさはだれに似たのかとあきれる。

「姿勢ちゃんとして。あれ、そんな髪留め持ってたっけ?」

 字の練習をしているうちに丸まった背をぽんとたたくと赤い髪留めが目に入った。

「前に買ってくれたやつだよ」

「そう?」

 地味目のピンクじゃなかったか。記憶を順にたどってみる。八歳のお誕生日が近いし、成績もよかったから開店したばかりのお店に寄ったんだった。たしか買ってすぐつけたところを撮ったはず、とスマートフォンを見てみた。

 赤かった。どうやら記憶違いだったようだ。もう年なのだろうか。子供の持ち物をかんちがいするなんて。

 娘の様子をちらちら見ながら夕飯のしたくをし、夫にも献立を送る。ひとりでいてもできるだけ家とおなじものを食べたいという。今夜はハンバーグ。たぶん似たようなのを買って帰るのだろう。

 窓の外はもう真っ暗だった。舌はスープの味をたしかめ、目は意識せず遠くの高速道路を走るライトを追いかけていた。いつの間にかその光が筋となってぼやけ、視野いっぱいに広がる。


 頭を起こす。目のすみでちらちらする影を追って外を見ると洗濯物がはためいていた。三時過ぎ。二十分ほどうとうとしていたようだ。あくびをしながらコーヒーを淹れる。すこし考えたがクッキーを添えた。かわりに砂糖とクリームは使わない。

 コーヒーを飲みながら夕飯の献立を考える。ハンバーグにしよう。ある材料だけで作れ、買物に行かなくていい。それと、娘が返ってくる前に風呂を掃除しておこう。

 分量のひき肉を冷蔵室に移してから風呂の掃除を始めた。思ったより手間がかかった。カビが根を張ってしまったようだ。こするだけでは取れなかったのでラップで漂白剤の湿布をした。塩素くさい。くしゃみが出る。時間をおいて熱湯で流すが完全には取れなかった。しかたない。これからこまめに掃除しよう。

 娘と友達の声が棟と棟の間の広場から聞こえてきた。きょうは近くで遊んでいるのだなと思う。窓から見下ろしてみると鬼ごっこをしていた。鬼は花の冠をかぶっている。かぶるというより置かれているだけなので走りだすとしょっちゅう落とすが、落とすと目を覆ってしゃがみ、その間にほかの子たちは逃げ隠れる。うまいこと考えたものだと感心する。広場の範囲だけだと鬼が圧倒的に有利になるのでそうしたのだろう。

 娘がまた鬼になった。不思議なことに娘は花冠を落とさない。ほかの子よりうまく走っているわけではない。頭のてっぺんでゆれている。なのに落ちない。

 そのうちに種がわかった。ずるだ。窓の下を通って行ったとき、髪留めに冠をはさんでいるのが見えた。ちょっと前に開店したばかりの店で買ってあげたものだ。緑の茎がピンクのプラスチックの下を通っている。

 しかし、いつまでもばれないわけがない。まったく落とさないの不思議がった友達に見つかり、怒られ、謝っているのが聞こえてきた。どうなることか、喧嘩にならなければいいがと心配したが、笑いになったのでほっとした。まったく、ああいう要領の良さはだれに似たのだろう。

 見物を切り上げ、べつの用事を二、三かたづけると『夕焼け小焼け』が聞こえてきた。きょうから五時半か。下からバイバイが聞こえてくる。

「ただいま」

「お帰りなさい。ちゃんと手洗って、うがいも」

「おやつは?」

「なにいってるの。すぐご飯なのに。もうすぐ八つなんだからいわれなくても」

 髪にくっついている草のかけらを取りながら続けていう。

「それまでに宿題やっときなさいよ。飴一個ならいいから」

「はーい」

「のばさない」

 勉強道具をひろげる娘を見ながら献立を夫に送った。おなじ献立を食べたいからといっていたが、考えるのが面倒だからじゃないかと思っていた。夫ができるのは目玉焼きくらいなので買って帰るのだろう。

「一個っていったでしょう」

「だって、二個入りなんだもん」

「ご飯のこしたらだめなんだからね」

「きょうハンバーグでしょ。ぜんぶ食べるよ」

 その言葉通りきれいに食べた。まったく子供の食欲というのはどうなっているのだろう。ご飯もおかずも吸い込まれるようになくなってしまった。片づけを手伝わせ、食器は大まかに脂を落として食洗機に入れる。洗浄が始まり、冷たく均質な表示ランプの緑と赤が筋を引くようにぼやけてきた。


「ただいま」

 遅めの昼の後、うとうとしかけていたら娘が帰ってきた。

「ちょっと待って、拭いてから」

 タオルをもって玄関に急ぐ。思ったとおり雨具からしずくを垂らしていた。嵐みたいな大雨だ。いくら近くても迎えに行った方が良かったかなと済まなく思った。

「いったん外出て」

 娘にタオルを渡し、通路で雨具を脱がせて振った。ランドセルの中まではしみていない。

「大変だったね」

「ここは雷落ちないよね」

「だいじょうぶだよ」

 白い花のついた緑の髪留めをはずして髪を拭く、花がついている割には地味な印象だった。

 また光った。娘の肩が震える。子供のころ、光ってから音が鳴るまでの間隔を数えて雷までの距離を概算する方法を教わったが、実際の場面で役に立ったためしはなかった。雷は行儀よくひとつずつ落ちるものじゃない。どの光と音が結びつくのかなんてわからない。

「はい、もう上がっていいよ。おかえり」

 髪留めを返すと鏡の前に行ってつけ直した。テストがいい点だったので開店したばかりの店で買ってあげたものだ。はじめてつけたところは撮ってある。スマートフォンを見てみた。

 赤い髪留めだった。かんちがいしていたようだ。

「はい、お知らせ。おやつ食べていい?」

 学校からのプリントを出しながらいう。

「いいよ。食べ過ぎなかったら。今夜はハンバーグと野菜スープ。それと宿題ちゃんとやっときなさいよ」

 続いて教科書とノートを出した。チョコレートをひとかけら置いている。ハンバーグと聞いておやつはすくなめにするのだろう。もうすぐ八歳だが、こういう要領も成長というのか、ただの欲目だろうか。

「献立送るんでしょ、やらせて」

 それに、なんでもやりたがる。夫はひとりでいてもできるだけ家とおなじものを食べたいという。毎日伝えていたが、きょうは娘がした。ひらがなと誤変換だらけ。わかるだろうか。

 それでもそのまま送信ボタンを押した。それからお知らせのプリントに目を通す。メールやサイトの通知ですでにわかってはいるが、教育の意味でプリントも配布している。きちんと保護者に伝える、という習慣をつけさせたいのだそうだ。

 雷はおさまったが、雨は夕食まで勢いを失わずに降り続いた。警報の通知はうるさいので切ってしまった。周囲のようすからして避難まではいかないと判断したからで、後片付けを終えるころにはその通り勢いが弱まってきた。もうただの雨だ。

 夫からはハンバーグの画像が返ってきた。買って帰らず自分で作ったのは感心だがおそろしく形と色が悪い。ちょっとした工作や機械いじりしてくれる時はそんなに不器用じゃないのに料理だけはなぜだめなんだろう。

「なに、これ」

「はじめはだれでもこんなもの。つくり続けたらじょうずになるよ」

 娘にはそういっておく。自分ですること自体はいいことなのでそこは否定したくない。

 風呂の準備ができた通知音が鳴った。先に入るようにうながす。

 温度をたしかめると、画面の文字が緑の筋を引いて伸びだした。


 それは夢だとわかる夢だった。月に一回ていど見る。色とにおいもある。場所はたいてい家の中で、今回もそうだった。リビングの椅子に腰かけている。コーヒーの香りがする。

「ただいま」

「おかえり」

 帰ってきた娘は制服を着ていた。この夢では高校生だった。仏壇に手を合わせる。外出と帰宅時に必ずそうする。縁起でもないが、遺影は夫。夢に出てくるものすべてがなにかの象徴だとしたら、これはなにを表しているのだろうか。

「夕飯は?」

 着替えてきてスマートフォンをいじりながらいう。

「ハンバーグ」

 ポテトチップスをかじっている。手を出すと分けてくれた。

「そろそろテストでしょ。帰り早くなるの?」

「来週から。部活休みになる」

 手首からテーピングが覗いている。

「帰ったんだから取りなさいよ」

「まだちょっと痛いから」

「医者行った方がいいんじゃない」

「それほどじゃない」

 うなずいておくが、嘘が下手だなと思う。たぶんおまじないだ。巻き方が本当のとちがう。そこは昔と変わらない。どんなタイプの子だろうか。夫のような人だろうか。

「ねえ、お母さん」

 じっと見ている。こちらの目のずっと奥をしらべようとしている感じだった。

「なに? お小遣いはだめよ」

「そういうんじゃなくて」

「もうだいじょうぶよ。あの夢は見なくなったから」

 これはなんだろう。娘の口を借りて自己分析しようとしていると思うがはっきりとはわからない。夢だとわかっていても嫌な問いかけだった。

「あの夢って、あたしが小学生で、お父さんは単身赴任。で、髪留めがどうしたこうした、とか、そういうの、もう見なくなったってことだよね」

 たしかめるようにいう。この夢の娘はあいまいな答えを嫌う。自分の投影なのかもしれない。

「見ないよ。そもそも夢を見なくなった。最近はぐっすりだから」

「ふうん。あたしびっくりしたんだから。急に変な夢の話ばかりするようになって」

「悪かった。心配かけた。けど、話したくなるような妙な夢なのよ。でもおしまい。もうしないから」

 娘はうなずくと音を立ててポテトチップをかじった。着信音がしたので横を向いてスマートフォンをいじりだす。指が目まぐるしく動いている。感心するほどに速い。

 あれこれと家事を片付けているうちに六時。『夕焼け小焼け』が聞こえてきた。夕食のしたくは娘にも手伝わせる。

「じゃ、スープ作っといて」

 ならぶと背の高さはほとんど変わらない。夫の血を引いているのだからもっと高くなるだろう。

「具は?」

「まかせる。野菜大目で。あした買い物行くから使い切っちゃて。のこったら朝にするから」

 台所でのふるまいも大人になった。手つきも、段取りもいちいち口を出さなくていい。欲目かもしれないがもともと要領のいい子だった。失敗はするけれど繰り返さない。味見をする姿を見ながら、夫にも見てほしかったなと思ったが、すぐにこれは夢だと考えなおした。

 夢でさえ完璧な幸せはない。スープとハンバーグの香りが混じって漂うのに夫はいない。夢は明晰だがあやつれない。自分の発した言葉ですら自分のものではない。映画の観客でしかないのがもどかしい。


 夢だとわかる夢を見たときはいつもだが、なぜか起きるのに手間取る。そういう時は娘のことを考える。起こして着替えさせて朝を食べさせて学校へ送り出さなきゃ。

 そしてその通りにする。

「ぱっぱと起きちゃいなさい。ふとんでぐずぐずしてちゃだめ」

「おはよ」

 眠そうな声だった。

「おはよう。スープはあったまってるから。トーストは自分で焼くんでしょ?」

 朝の手順がいつも通り進んでいく。天気予報は曇のち雨。降るのは夜からとのことだったがランドセルに折り畳み傘を入れた。

「降らないと思うけど、入れとくよ」

 水音のしている洗面所の方に声をかける。

「うん。わかった」

 歯を磨きながらのもごもごした返事に微笑む。

 その時、目のすみで動くものが見えた。台所の方だ。そちらを向くとパジャマにエプロンをつけた夢の娘のうしろ姿が見えた。体が固まり、声も出せない。スープを味見している。温めなおしながら朝向けに味を調えているのだろう。塩とこしょうで濃いめにするつもりらしい。それは今朝やった。そこに牛乳をひとさじ加えている。そんなのは教えていない。

 洗面所でうがいをする音がした。台所の娘が振り返ろうとする。その顔が見えるか見えないかの瞬間、姿が消えた。

「髪留めは?」

 固まった体が動くようになると、まだ口のまわりが濡れている娘が立っていた。拭いてやりながら鏡台にあったのを渡す。

「それじゃない。ピンクの」

「え、知らないよ。どこに置いたの?」

 声も出るようになった。ピンクのは娘のベッド脇に置いてあった。

「二つも持ってたっけ?」

「ピンクはお父さん。じゃ、いってきまーす」

「はい、いってらっしゃい。気をつけて」

 ひとりになると急に部屋が広くなったように感じる。ふと思い立って鍋のスープを味見した。今朝自分がした味付けになっている。そう思った瞬間、塩っけだけではない丸みに気づいた。これは牛乳だ。もう一度底からかき混ぜた。こんどは濃いめの味だった。若い人が好みそうな濃さだった。自分好みの塩加減にしてから濃すぎると思いなおして牛乳でやり直そうとしたのだ。

 夢の娘のスープ。流そうとしたができなかった。食べ物だ。もったいない。昼に食べてしまった。

 洗い物をすませるとたしかめないといけないことを思いついた。しかしなんだか不安だ。不安だがやらねばならない。夢の娘を見たのなら、まさかと思うが。

 夫に献立を伝えた。今夜は焼き鯖と大根の煮物。すぐに返事がきてほっとした。そしてほっとした自分がおかしくなった。なにかおかしいけれどどう変なのか言葉にできない。

 返事を読んだついでにアドレスのリストをたしかめた。おかしいついでだ。でも、夢の娘のアドレスはなかった。当然といえば当然だ。

 すると、通知が降りてきた。『アドレスを同期しました』

 同期?

 考える間もなく、リストに娘の愛称と電話番号、メールアドレスが表示された。@のうしろに家族で契約している業者名がついている。通話やメールの履歴もならんでいる。内容は大したものではなかった。これから帰る、とか、ちょっと遅れる、ていどのものだ。SNSのほうもたしかめたが同様に二言三言の履歴がならんでいた。さかのぼってみたが、半年以上前はなかった。定期的に整理しているのだが、夢の娘の記録もそうなっていた。

 洗濯機から通知音がした。天気が良いので外に干す。いつもしていることをしていると落ち着いてきた。怖くはなかったけれど迷っていた。ゆれるシャツを見て決断した。でも声を聞く勇気までは出なかった。

『帰りににんじん太目一本ときゅうり二本お願い』 SNSで送った。

『了解』 十分後、返ってきた。親指を立てた絵文字付き。


 夢と現実にはそれほど厳密なちがいはないのかもしれない。


「ただいま」

「おかえりなさい」

 雨は降らなかった。ランドセルから折り畳み傘と給食袋を出してそれぞれかたづけている。大急ぎで、赤い髪留めがゆれるくらいのいきおいで。そうやっていいつけどおりにしている時のつぎの言葉は予想がついた。

「遊びに行ってくる。いいでしょ」

「どこ? いいけど、夕方の放送聞こえたら帰るのよ」

「川の公園。みぃちゃんたちと。行ってきます」

 あわただしいことだと笑う。そろそろお茶にしようか。ほんとうにお茶だけで、と二の腕をつまむ。


「あたしも飲む」

 茶葉を出しているとうしろから声がした。そして、それと同時に自分が自分の観客になったのがわかった。いつになくはっきりした夢だった。テレビを買い換えたときのようだった。

「きょうはお茶だけ。それでいい?」

 テーピングはしていなかった。もうおまじないは不要になったのか。結果はどっちなんだろう。

「よくない。あたしはクッキー食べる」

「そりゃ勝手だけど、わたしとおなじ体質なんだから用心しなさいよ」

「部活やってるもん。おなかすくの」

 湯を沸かしながらふと横を見るとにんじんときゅうりが置いてあった。あざやかな野菜の色が目に心地よい。

 香りを漂わせながらティーポットを運んでいると、映画で見た振り香炉を思い出した。自分はなにかの信者ではないけれど、なんとなく宗教的な清々しさを感じた。

「ありがと」

 娘はもうクッキー缶を開けていた。バターの重い香りがする。鼻から太ることってあるのだろうか。

「あのね」とクッキーを一枚食べてからいう。「つぎの試合で部活やめようと思うんだ」

「後悔しない?」

「するかも。でも、あたしには両方は無理だし、入試を優先する。それと、志望を一ランク上げたい」

「できるの?」

「やるよ」

「わかった。じゃ、きちんと、みんなに迷惑かけないように。きれいに辞めるのよ」

 うなずいてクッキーをかじる娘を見る。なんとか涙はこらえた。その瞬間、自分をとりもどしていたのを理解した。涙をがまんしたのは自分自身の意志だった。

「もうひとつ話がある。いい?」

 こちらの目の奥をのぞきこんで聞いてきた。

「いいよ。大切な話なんでしょ。聞くよ」

 またうなずくとテーブルの下からクッキー缶を出してきた。こっちはさびだらけだった。蓋を取ってひっくり返す。


 テーブルに髪留めが散らばった。赤、ピンク、白い花。


「いつから気づいてたの」

 娘はけげんな顔をした。それから悲しそうに頭を振った。

「お母さん、かんちがいしてる。それとも、わざとわかってないふりしてるの」

「夢のくせに」

「それは正しい。これは夢。おそろしくはっきりしてるけど。でもそのいい方だとやっぱりわかってないんだ」

「わかってる」

「じゃあ、けりつけようよ。いつまでもとはいかないよ」

「いいじゃない。いまのままで」

 そう答えると娘はテーブルをとんとんとたたきだす。いらだつといつもそうする。でも決めた。変えるつもりはない。

「夢と現実。まざりあっててもいいじゃない。どっちかを選ばなきゃ、なんてだれが決めたのよ。変えないよ。ずっとこのまま。だれも気にしない」

 とんとん、とんとん。

「聞いてるの? いまがいい。変えませんからね」

「じゃあ、あたしはずっとあの子で小学生のまま。髪留めがくるくる変わる子。おなじような毎日。そんなのって……」

「だから? これは夢なんでしょ。わたしの」

 とんとん、とんとん。

「現実よ。あたしは高校生。お父さんは病気で……。夢に侵略されてるけど現実なんだから」

「どっちもわたしのよ。とんとんやめなさい」

 とんとん、とんとん。

「夢はだれのものでもないよ。現実だって」

「じゃあ、これは? だれが見てる夢で、だれが生きてる現実なの?」

「だから、だれでもない。これは夢そのものなの。同時に現実そのものでもある。お母さんはここで生きていくって決めてるし、よそへ行く気はないんでしょ」

「よそがあるの?」

「星の数ほど」

 音が止んだ。


『夕焼け小焼け』が聞こえてきた。もうすぐ娘が帰ってくる。夕飯の準備がある。にんじんときゅうりが窓からななめに差しこんだ夕日に照らされていた。お茶の後片付けをする。テーブルの上からは髪留めもさびたクッキー缶もなくなっていた。もうひとつの缶は棚の奥にしまった。もうこんな時間だ。さすがにバターたっぷりのクッキーはだめ。


「ただいま」

「お帰りなさい。ちゃんと手洗って、うがいも」

「おやつは?」

「なにいってるの。すぐご飯なのに」

 赤い髪留めがゆれる。


 すてきな平穏。これがわたしの夢だったし、現実として手に入れた。これこそが宇宙だ。


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