零れ零れて落つ桜

テラ・スタディ

零れ零れて落つ桜

 四月の下旬、大学にて、散り始めた桜並木の通りを歩いていた。否応無しに私の視界を侵食するその色は、酷く不愉快であり、私の弱さの象徴であった。早く散って、曇天を見せろと、切に願った。


 「ねえ、私が死んだら悲しい?」

私の親友、此処ではRとしよう、がそう言った。突然、その言葉は現れた。カフェテラスで次の講義まで待っているという、安息を求めるその時間に、彼女はそれを聞いてきた。

「いや」

私はそう答えた後、自分でも何故この様に言ってしまったのか、てんで見当がつかない。悲しいに決まっているのだろうが、過去の出来事を改竄する事は不可能だ。口を開け、言い改めようとしたとき、

「そう、ありがとう」

と彼女は言った。私は口を閉ざした。訂正したかったが、彼女が感謝を述べている以上、必要無いと感じた。

 何故この様な訳の分からないことを言ったのだろうかと思ったが、紅茶を飲む為のお菓子の代用品だったのかと、彼女がダージリンティーを飲み干す様を見て、勝手に納得してしまった。

 「じゃあね。また」

今日の講義が全て終わり、大学から出ようとしたその時に、Rの挨拶を聞いた。正直珍しいなと思った。彼女がそんな挨拶をするなど、全く思わなかったのだ。

「ああ、また」

私はそう返した。突然の出来事な故、私も自然な対応をするのが全力だった。今日の彼女は、些か変であったと、この時にそう思った。今その謎を解こうとしたが、どうせ明日に会うのだから、別に思考を張り巡らせる必要も無いと思った。彼女に直接訊けばよいのだ。そう思い、私は帰路についた。

 翌日、彼女は大学に来なかった。風邪か何かになったのだろうと、私は携帯で連絡したのだが、彼女は応答しなかった。少々面倒だが、Rが受けている講義の教師に聞いてみようと思った。名前も知らない女性の講師だ。その人なら知っているだろう。

 講義が終わった後、誰も講義の内容について質問が無いのを確認し、少し早歩きで、先生の元に向かった。

「あの、すいません。〜〜です。Rさんの事について、少々聞きたいことがあるんですが」

先生は一瞬訝しんだが、直ぐに口を開いてくれた。

「ああ、Rさんとよく居る。悪いけど、私も知らないのよ。彼女大学やめたんでしょう?」

その言葉を聞いた時、私は頭が真っ白になった。

「一身上の都合って何かしらね?次の講義に遅れるからもう行くわ」

貴様などもうどうでも良い。何処へでも行けと、生徒としてはあり得ない事を思ってしまった。私はRの事で頭が一杯だった。何故やめたというよりも、何故やめたことを私に言わなかったのか、恥ずかしながらそう思った。その後私は、足をふらつかせ、途中轢かれそうになったが、なんとか帰宅した。


 私はRに何度も電話した。メールもした。ありとあらゆる手段で彼女に連絡を取ろうとした。だが、彼女は一度として応えてはくれなかった。思えば私は、彼女の事を何も分かっていなかったのかもしれない。出身も知らない。家も知らない。行きつけの美容院や洋服屋など、何も記憶に残っていなかった。それでも私は手がかりを探し続けた。それはホワイトアウトした平原を歩き続ける様で、不安と恐怖で私は押し潰され、息を止めてしまうように、何度も諦めようとした。

 だが、私は何も得られずに、一年が経過していた。


 ある日のこと、太陽が照りつけるその日の午前、私の携帯が震えた。その振動は、いつもよりも大きく、まるで地震のように、何かを伝えようとして、今直ぐにでも見ろと言わんばかりに、そのように感じた。覗いてみると、それはRからの連絡だった。私は涙が出そうだったが、此処で泣いてしまえば、私が壊れてしまう、私が私でなくなってしまうと思い、堪えた。

『X病院に来て』

あったのは、たったそれだけ。いつも意味わからないほど長い文章と、私をよく腹立たせた顔文字を使っていた彼女からは考えられない文面だった。私は午後の講義など気にも留めないで、病院に向かった。

 X病院とは、東京の病院で、今私が居る場所からは途轍も無く遠い。だが、そんな事を考えず私はお金と携帯だけ持って、その病院に向かった。結局その病院に着いたのは、翌日の朝だった。来たは良いが、私はどうすれば良いか、皆目見当がつかなかった。なので私は受付の人に訊いてみることにした。順番を待っているその時分、彼女に会えるという期待と、病院にいるということから推測される、その事実によって齎される憂鬱とで、私の心は掻き混ぜられていた。

「次の方どうぞ」

私は、早いとも、遅いとも言えない速度で歩いた。やはり私は感情を持った、愚かな人間であると、この時自覚した。

「あの、私〜〜という者なのですが、Rさんは居ますか?」

平静を装ったつもりで居たが、変な質問をしてしまった。

「〜〜さんですね。お話は聞いています。面会ですね」

話は聞いていると言われた時、私はゾッとした。病院になんて連絡していないのだ。とすると、彼女が私の訪問時間を予測して行なった事になる。だが、その恐怖は一瞬で、部屋の番号と面会時間を言われた時、それを記憶するために頭を使ったのだ。

 彼女の病室までの廊下には誰もいなかった。誰か一人くらい歩いていると思ったが、伽藍としていた。長い長い廊下を経て、私と彼女を隔てる最後の扉をゆっくりと開けた。彼女を見た時、私は目を見開いた。感動なんかでは無く、驚嘆であった。彼女自身はいつもと同じ彼女であったが、周りの環境が、その空間を異様なものとしていた。多くのチューブに囲まれた彼女は、まるでそこが私の巣であると主張するように此方を向いた。

「元気そうだね」

先に言ってやった。私は視界が真っ白になり、立っているのもやっとであったが、虚勢を張らねば、きっと私は狂ってしまいそうだったからだ。

「ありがとう。そういう君は元気そうじゃないね。まぁ座りなよ。少し話そうよ」

私は用意されていた椅子に腰を掛けた。その椅子は彼女と少し距離があった。

「先ずは、久しぶりと言わせてもらう。一年も私を無視したのだから。で、お前がこんな事になっていることの説明はしてくれるのか?」

親友としては酷い言葉だ。だが、彼女は私の言動に何も言わず口を開いた。

「簡単な話だよ。私は前から病気だった。一年前のあの日を境に入院した。その後手術を行った。だけど失敗した。だから今こうなってる。どう?簡単な話でしょ?」

「つまり、余命は短いと?」

吐きそうになりながら、その言葉を振り絞った。

「ていうより、もう無いって言う方が正しいかな。相当酷いらしい」

私は医学に詳しく無い故、彼女の病気が何なのか、何で彼女は余命短いのか、全く分からなかった。だが、余命が短いという真実が目の前にあるということは、私の心を貫いた。

「そうか。で、もう直ぐ幕引きという時に、何故私を呼んだのだ?」

私は、私が一番聞きたかった疑問を彼女にぶつけた。非情と言われても仕方ない事かもしれないが、今此処で私が悲しむのは、私でなくなってしまうから、それは何としても防ぎたかった。

 彼女は黙って上を向いた。その白い天井を見つめ、何を思ったのだろうか。そして上を向きながら、彼女は口を開いた。

「単に、お別れを言いたかったのよ。一番の友人だしね」

私には、それが嘘であるとしか思えなかった。彼女は私と目線を逸らす時、嘘を言うからだ。お前が言ったように、私はお前の友人だ。それが嘘であると分かっているぞと、彼女に文句を言おうと、椅子から立とうとした時、

「来ないで!私の方に来ないで!」

そう言った。一瞬、私は絶望したが、それは間違いで、彼女からの説明を待とうと、じっとした。

「ごめんね……本当に、ごめんね。本当はこんなこと言いたく無いの。本当は悲しいの。寂しいの」

「なら…」

「でもこれ以上悲しむのは嫌なの!もうこれ以上、死ぬまでの時間に苦しみを感じる事は嫌なの!」

「私は貴方の事が、たまらなく好きだった。病気の事で不安しかなかった私を、絶望の淵にいた私を救ってくれた貴方が。だから、あの日、最後に貴方と別れる時、途轍も無く悲しかった。でも、手術が成功するまで貴方が待っていてくれるという希望があった。手術が終わって、元気になったら打ち明けよう。打ち明けて、またカフェでお話しして、一緒に講義を受けて、一緒に生きていこうと思ってた。…でも、現実に裏切られた。手術は失敗した。もうこれ以上貴方と生きていくのは無理だと悟った。ならいっそ、あの日を最後にして、私は心の平穏を保ち、死の運命を受け入れる心算だった。でも、最後に一度、一度だけでもいいから、君と話したかった」

こちらを向き、そう言った彼女の目には、雫があった。貴方と呼ばれたのは初めてだ。

「でも、間違った選択だったかも。今、もっと生きたいと思っちゃった」

どうやら私は、彼女の心に深い傷を負わせていたらしい。あの時の質問は、単なるお菓子ではなく、真剣な話だったのかと思って、私は後悔した。彼女に応えようと私が口を開こうとすると。

「いいよ、言わなくて。どうせ死ぬんだから」

そう言われ、私は口を閉じた。だが私は、せめて手だけでも握って帰ろうと、彼女に近づく為、一歩を踏み出した。

「近づいてこないで!もうこれ以上、私を染めないで!私を貴方で染めないでよ!最高の友人でいさせてよ!私を私でいさせてよ!」

彼女は私と反対の方向を向いて、そう言った。私は彼女の気持ちを尊重し、扉の前に立った。

「染めるって…君は、自分を純白な薔薇とでも言いたいのかい?」

私は彼女に背を向けて、嘲笑うように言った。

「…薔薇は嫌かな。白い薔薇って、簡単に染まっちゃうじゃない…」

「…そうか」

その言葉を最後に、私は病室を出て、病院を出て、直ぐにこの地から立ち去ろうと思った。もうこれ以上、彼女の、いや、彼女だけでなく私の心を抉るのは、たまらなくなったのだ。

 私が彼女と面会した二週間後、彼女は息を引き取ったらしい。また、葬儀も執り行ったらしいが、私は行きたくなかった。私の知っている彼女は、あの病室で見た彼女を最後にしたかったのだ。


 五月の上旬、大学にて、全ての花弁が散った桜並木の通りを歩いていた。全て散ったと思っていたが、一枚儚く残っていた。その一枚は珍しい咲き分けの花弁だった。私は講義に遅れても良いから、その花弁が落ちるその瞬間を見ようと立ち止まった。だが、予想よりも、その花弁は粘り強く、結局三十分経っても落ちなかったので、私は講義に向かった。講義が終わった後、もう一度来てみると、その花弁は無かった。

 「いつか、見れると良いな」

私はそう呟き、帰路についた。

 その桃色によって染められた、咲き分けの桜の花弁が、私の記憶から零れ落ちるのを切に願って。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

零れ零れて落つ桜 テラ・スタディ @Teratyan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ