三章 緩慢な毒6



 木立をぬけると、視界がひらけた。色とりどりの美しい花。

 そのまんなかにグローリアがいて、歌っている。

 天上の歌。神々の愛でる乙女。


 グローリア——

 おまえはなぜ、それほどまでに美しい。

 おまえを愛してはならないという法が、どこにある?


 ややハスキーなアルトの声。

 花々は彼女の声に耳を傾け、唱和している。たくさんの鳥や小動物が、彼女をかこんで輪になっていた。

 あの朝焼けのなかで、シリウスの心を打った、厳かな美。


 見とれていると、グローリアのほうが気づいて、シリウスをふりかえった。


「あら、いたの」


《シリウスだ》

《わーい。シリウス。いっしょにグローリアの歌を聞こうよ》

《ね、グローリア。もっと歌って》


「歌はおしまい。怖い人が来たから」

《シリウスは怖くないよ》

《そうだよ。怖くないよ》


 ごねるアナウサギを抱きあげ、その鼻先に、グローリアはキスをする。


「また今度ね」

《約束だよ》

《またね》


 動物たちは不承不承、去っていく。


「何? ぼんやりして。わたしが動物と仲よしだと、そんなに不思議?」

「……まあ、予想外ではあった」

「わたしだって、すべての生き物を狂わせるわけじゃないの。体の大きさが違いすぎると、あの力は働かないみたいね」

「そうだ。ここに来るまでに十人以上の兵士が——」


 なんとか怒りを呼びさまそうとするのだが、グローリアがさえぎる。


「わたし、あれをしないと生きていけないのよ」


 意表をつかれて怒りを忘れた。


「そう。あなたが光を食べて生きているように、わたしはつながることで、男から精気をわけてもらってるの」


 これまでにも妙な感じがすることはあった。この変わった髪色。彼女の危機に都合よく現れる助け。さきほどは動物とも話していた。シリウスには微弱すぎて感知できない植物の言葉も、彼女は読みとっているようだ。


「おまえ、人ではないのか?」


 グローリアの緑色の瞳の表面に、くるりと金色の光沢が走る。


「不死鳥」

「なるほど。フェニックスか」

「あなたが天馬と人の子であるように、わたしは不死鳥と人間のあいだに生まれた。ハーフゴッドよ。わたしにも、あなたのように神の血が流れているの。なのに、どう? あなたは神聖でちりひとつにも汚れず、わたしはこの世でもっとも卑しい女のように、出会う男すべてに抱かれるわ」


 やっと理解できた。彼女のあの強烈な魔力は、カリスマの変質したものだ。


「わたしは、あなたみたいに光を吸収することができない。そのくせ、人の食物も受けつけない。生きていくためには、こうするしかないの」


 同情を禁じえない。


 神々が地上にいたころは、人とのあいだの混血もよくあった。

 しかし、そのあいだに生まれる子が、健康であることはめずらしかった。土台、神の存在はこの世の理から外れている。両者の混血児はほとんどが死産。生まれてきても、多くは奇形だったという。


(神の血は人を焼く)


 シリウスのような例は、きわめて少ない。


「わたしはできそこないなのよ。奇形でないだけ運がよかったのかもしれないけど。あなたみたいに腕力が強いわけでもない。風を起こしたり、念力で物を動かせるわけでもない。あるのは生き物に感応する力と、翼だけ」


 翼。それさえあれば、シリウスは天馬だった。


「時空感を翔ぶ力。飛翔する神として、もっとも重要な能力だ」

「そんなものあっても役に立たない。わたしは時間を見定める時間軸がないもの。わたしが翔べば、無限の時の流れのなかで迷子になってしまう」

「私と反対だな。私には時間軸はあるが、翼がない」


 グローリアは疲れたような声でつぶやく。


「わたしは翼なんていらなかった。神の血なんていらなかった。ただの人間の女でありたかった」


 かわいそうなグローリア。

 この世でもっとも高貴な血を持ちながら、この世でもっともみじめな生きかたをしなければならない。


(もう……嘘はつけない)


 初めて会ったときから、心惹かれていた。愛してはいけないと思いつつ、すでにシリウスは愛していた。

 何度も機会がありながら、彼女を殺すことができないほんとの理由は、それなのだ。


 今、禁じられた扉をあけよう。

 シリウスはグローリアを抱きしめた。唇をかさね、彼女の優しい応えを味わった。


「私と行こう。グローリア」


 瞳をのぞきこんだとたん、グローリアは動きを止めた。金縛りをかけたのだ。彼女を腕に抱き、シリウスは歩きだした。

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