三章 緩慢な毒4
*
グローリアが一人で庭へ出たのは、シリウスが起床する少し前だ。リアックがグローリアの上で失神してしまったので、そのすきにぬけだしてきた。
早朝の中庭には人影はない。
グローリアは丈の低い植えこみの奥に寝ころんだ。
すでに精気は充分たりているが、まだリアックやホリディンを死なせるわけにはいかない。今のうちにつまみ食いしておきたかったのだ。
しばらくして、シリウスがやってきた。朝の光のなかで、白い肌も白金の髪も、全身が輝いている。
(あの崖に行くの? 聞いたことがある。多くの神は光をあびるだけで生きていられると。人の食べ物は何もいらない。きっと、彼もそうなのね)
彼は光の祝福を受け、あんなにも神々しい。
なのに、わたしはどう? 暗闇を這いずりまわり、獣のよう。
(わたしだって、こんなふうに生まれたくなかった。あなたはズルイわ。シリウス)
グローリアがうかがっていると、シリウスの前に少女がとびだした。抱きつこうとして勢いあまり、ころがっている。シリウスと何か言いあいを始めた。
グローリアは頭上の木の枝にとまる小鳥を見つける。
『いい子ね。わたしに目を貸して』
意識を小鳥にむけると、すっと魂が吸われるように、グローリアは鳥と一体になっていた。シリウスの近くへ飛んでいく。二人の会話が聞こえた。
「シリウスがウラボロスを出ていくって、ほんと?」
「誰がそんなことを言ったのですか?」
「みんな言ってるわ。お兄さまとケンカしたから、シリウスはここを出て、流浪民のところへ行くんだって」
「根も葉もない偽りです。私はどこへも行きません」
「ほんと?」
「ええ」
「でも、お兄さまとケンカしたんでしょ?」
「あれは私も悪かったのです。クリュメルはまだ子どもだ。王の責務は彼の肩には重すぎる。私がもっと気づかうべきでした」
「シリウスは悪くない。悪いのはお兄さまよ」
「たった二人の兄妹なのに、兄上のことをそんなふうに言ってはいけません。さあ、もう泣きやんで。ほら、鼻水が出ていますよ」
「いじわるっ」
シリウスが自分のハンカチをさしだし、少女の鼻をかんでやる。
あのシリウスが微笑んでいる。優しく少女を慈しむ手。グローリアには決してあたえられない、シリウスの慈愛。
(大切にしているのね)
そのとき、グローリアには、やせっぽっちでソバカスだらけの少女が、世界中のどの女より美しく見えた。純粋でけがれない。シリウスが守っているから……。
あの少女を穢してやりたい。
シリウスの神聖さをふみにじってやりたい。
(あなたもわたしのように、血の涙を流せばいい)
——きさまは犬だ。美しいメス犬だ!
ふいに過去の痛みがよみがえった。
違う。わたしはあなたを愛していた。今でもこんなに愛している。一度はわたしを闇から救いだしてくださった、お兄さま。
わたし、あなたのために、あんなに我慢した。どんなに体が冷たくなっても、寒くて凍えそうでも。あなたが、あなた以外の男にゆるすなと言ったから。
(わたし、あれをしないと生きていられないのよ?)
それでも、あなたのためなら死んでもいいと思った。あなたがくれる精気だけでは、とても生きてられないとわかっていたけど。でも……。
——もう一度、ここから出してやろう。
(お兄さま。わたし、あなたのためなら、なんだってする)
グローリアが追憶にひたっていると、いきなり体に重みを感じた。小鳥の意識を解放してみれば、若い兵士が自分の上に乗っている。グローリアに重なり、荒い息で動物みたいに咆哮をあげていた。
(これが、わたし。誰もから売女と蔑まれながら、犯されるだけの安っぽい女……)
歓喜にはほど遠い凌辱を無感動に受けていると、急に男が失神した。目の前にシリウスが立っている。
「王宮を淫売宿にするつもりか?」
怒りに満ちた目が、グローリアを見おろす。あの少女にむけていたのとは、まったく異なる視線。
「わたしが何をしていようと勝手よ」
「このウラボロスではゆるさん」
「何よ。わたしを殺す勇気もないくせに!」
すると、シリウスの平手が、グローリアの頬にとんできた。男からこんなあつかいを受けることはめずらしくない。グローリアは痛みで目頭が熱くなるのを感じた。
「やったわね……わたしを、ぶった」
「かるくなでただけだ。今のが本気なら、おまえの頭蓋骨はくだけている」
「殺したいなら殺しなさいよ」
「今、そうする」
シリウスが気絶した兵士をどかしているうちに、グローリアはリアックを呼んだ。
『リアック! 助けて。シリウスがわたしを殺すわ!』
すると、ただちにリアックはかけてきた。
シリウスが眉根をひそめる。彼はリアックの前では、グローリアを殺せない。シリウスは唇をかんで去っていった。
「心配させるな。なんだって、こんなところに——」
言いかけて、リアックは失神している兵士に気づいた。
「おまえ——」
「怒らないで。イヤだったけど、むりやり……」
「そんな見えすいた嘘、信じると思うのか?」
「あなたはヒドイわ。わたしをほかの男にあたえたくせに」
泣きまねをすると、リアックは苦虫をかみつぶしたような顔になる。
「……すまなかった」
「あなたを愛してるのよ。リアック」
「ああ。おれもだ……」
嘘つきの売女のおまえをな——と、リアックの独白が聞こえる。
二人で部屋に帰ると、リアックはすぐに出ていった。もちろん、扉には鍵をかけて。
だが、まもなく、その鍵がカチリと外から音を立てた。入ってきたのはリアックではない。別の男だ。
「うまく入りこめたのね」
ボサボサだった髪を切っている。印象をよくするためだろう。
「今日から台所で働く」
「いいじゃない。食事に毒を入れられる」
男は嫌悪の表情を見せた。水色の瞳に迷いが感じられる。
「おれは、おりる」
「なんですって?」
「おりるんだよ。もう、おまえとは組まない」
「そんなこと、できないわよね? ねえ、ルービン?」
ルービンは——グローリアが流浪民の村で見つけた若き盗賊の首領は、さしのばすグローリアの手を乱暴にふりはらう。
「イヤなんだ。おれは、シリウスを裏切りたくない」
「シリウスを……」
どうして、みんな、そうなの。みんな、みんな、シリウス……。
あなたが憎い。シリウス。
あなたのその清らかな顔に泥をぬりつけてあげる。
そして、わたしを恨めばいい。あなたが憎めば憎むほど、わたしの心は残忍な喜びにふるえるわ。
グローリアは笑った。
もれでた声は老婆のようにかすれていた。
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