一章 運命のおとずれ7

 *



 青貝の森をぬけると、雑多な木がまばらに生える荒地があった。


 そこに穴のあいたボロ布をつるしたテントや、切りだしたままの木を組みたてた小屋とも呼べないあばら家が乱立していた。


 シリウスが想像していたより、ずっと多い。人の足でふみかためられた細い道には汚物がぶちまけられ、家畜の匂い、あかじみた人間の体臭と入りまじり、とんでもない悪臭がたちこめていた。


 ふんいきもいる。十年前に一掃したときより、ここに集まる人間の精神が深く荒廃しているようだ。


《これが人間の住むところかね。ツノネズミの住処のほうが、よっぽど快適だよ》


 獣のハルベルトがへきえきするのもムリないことだ。

 匂いもだが、そこに暮らす人々のようすが見る者を滅入らせた。疲労しきって老婆のように見える女。やせほそった餓死寸前の子ども。傷跡が無言で苛酷な過去を物語る老人。誰も彼も身につけているのは、服というよりその残骸だ。


 とつぜん、声がした。


「いいから出しやがれ!」

「やめて! それを持っていかれたら、ほんとに死ぬしかないんだよォ!」


 娼婦とおぼしい女から、男が銀の腕輪をとりあげようとしている。男は悪い草でも吸っているのか、目つきがふつうではない。


「死ぬだぁ? 死にたきゃ勝手に死ねよ。おまえなんか、あいつにくらべたら、なんだってんだよ? かせぎにもならない女、どうでもいいんだよ!」

「人でなしィー!」


 シリウスは二人のあいだに割って入った。シリウスがかるく男の手をねじあげると、男は泡をふいた。手首の骨が折れたのだ。


「すまん。力が入りすぎた。しかし、おまえが弱い者をいじめるからだぞ。腹が立って力のかげんを忘れてしまった」

「ひいいッ」


 白目をむいて悲鳴をあげる男を、地面になげだす。


「昨日、城から兵士が来ただろう? 彼らの居場所を知らないか?」


 男は折れた手をもう片方の手でにぎりしめながら、集落の中心をながめた。


「むこうに行けば会えるのだな? ありがとう」


 シリウスが礼を述べたときには、男は失神していた。


《シリウス。どうも、きなくさいぞ。なんだか……変だ。この匂い。ムズムズする》


 グローリアが近くにいる。


 シリウスは急いだ。

 村の中心をめざしていくと、しだいに人の数は増えた。男たちだ。一杯のスープを求めて際限なく集まる飢饉ききんの救済所の大群のように、あらゆる方角から男たちが現れる。


 誰もが一点をめざしていた。

 青ざめた亡者のごとき顔色。歩くのもやっとのおぼつかない足どり。しかし、目だけは熱病みたいにギラギラ輝かせて。


 異様だ。

 この男たちの想念が、村の空気をこれほどまでによどませているのだ。

 燃えあがる思念の渦に、シリウスは吐き気をもよおした。


「すてないでくれー!」


 先頭あたりで男の叫び声がした。

 シリウスは亡者の行列を押しのけて走る。


「お願いだ。まだ……まだやれる。頼む! グローリア!」


 こんなことではないかと思っていた。


 魔窟まくつの中心の皮張りテントから、今しも一人の男がつまみだされる。

 見ていられなかった。

 よだれをたらしてすすり泣いているのは、城門部隊の若き兵士、カルサスだ。なんという変わりようだろうか。一夜で、まるで別人だ。やつれ、芥子けしの汁でも飲んだのか恥も外聞もなく泣き叫んでいる。装備品の剣や鎧もなくしていた。男たちになげすてられ、立ちあがることもできず、むなしく指で土をかく。


「カルサス。しっかりしろ」


 抱きおこしても、ぼんやり口をあけ、シリウスにさえ気がつかない。何を言ってもムダだ。彼はもう正気ではない。


(グローリアの魔力にやられたか)


 やはり今朝、殺しておくべきだった。

 いや、それではすでに遅い。おそらく、昨日、グローリアをめぐって流浪民のあいだで争いが起きた。偵察に来た一隊も、グローリアを見て狂った。殺しあいにくわわり大部分は死んだが、生き残った者もこのありさま……というわけだ。


 テントを守る男たちが、シリウスを見とがめてつめよってくる。


「おまえ、なんだ? こいつの知りあいか?」


 シリウスは無言で剣をぬいた。


「てめえ! グローリアをうばいに来やがったな!」


 シリウスはうばいに来たわけではない。殺すために来たのだ。


 男たちがとびかかってくる。

 が、シリウスが剣を一閃すると、剣風によって次々に倒れた。誰もシリウスの敵ではない。


「グローリア!」


 テントの入口を乱暴にめくる。花の香りがした。お香をたいているのだ。ロウソクの光が黄色くゆれる。


「遅かったのね」


 毛皮の上に、グローリアはうつぶせによこたわっていた。ぬぎすてられた絹の衣。頑丈な脚つきの大皿がいくつもならび、金貨や銀貨、銅貨、指輪や宝石があふれている。


(いったい、これだけの大金を得るまでに、どれだけの数の男と……)


 そう思うと、胸がきしんだ。


 グローリアは全裸だ。えりまきだけはしているが。

 華奢な背中。つまさきまで続く優美な曲線。真っ白い肌が芳香を放っている。

 汗にまみれて汚れきっているはずなのに、彼女は朝焼けのなかで見たときより、今このときのほうが美しい。

 それが、シリウスには悲しかった。


「おれが必ず来ると知っていたような口ぶりだな」

「知ってたわ。だって、あなたは男ですもの」


 顔をあげて、グローリアはシリウスを見る。

 黒髪にふちどられた完璧な美貌。これまで、この世に存在したすべての人間のなかで、もっとも麗美とすら思える。


 しかし、半身を起こした彼女を見て、シリウスは絶句した。

 彼女は……女ではなかった。その胸にゆたかな乳房がない。なめらかで、やわらかな肉づきだが、その胸はたいらかだ。足のあいだには少年の印がある。


「そんな顔しないで。あなたを迎えるところは、ちゃんと女よ」


 シリウスの前に両足をひらいてみせる。彼女は少年ですらなかった。男でも、女でもあるものだ。金で売って汚しているとは思えない、初々しい薔薇色……。


「すごくいいときには、ここも女になるのよ。あなたがそこまで、わたしを天国に行かせてくれる?」


 彼女が胸に両手をのせたとき、シリウスは気づいた。

 彼女はえりまきなんてしていない。金色のえりまきに見えたのは、彼女の髪だ。肩の下まではまっすぐな黒髪。その下から急に巻毛のブロンドになっている。


「きさま……チェンジャーか!」


 シリウスが切りつけると、グローリアは信じられない顔をした。目をみひらくグローリアの上に、まっすぐ太刀をふりおろす。


 だが——


 一瞬の数分の一という速さの剣を、何かが。それがなんなのか気づいたときには、もう剣は止めようがなかった。


「ハル——!」


 次の瞬間には、シリウスの足元に血まみれのハルベルトが倒れていた。


(殺してしまった。この手で、ハルベルトを……)


 子犬のときから知っていた。ずっと友達だった。戦闘のときには、いつもかたわらにあって——


「わたしの力、獣にもきくの」


 グローリアの声が、どこか遠い。

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