一章 運命のおとずれ6



 シリウスは頼もしい相棒を得て、さらに外へむかった。


 そこは螺鈿らでんの森だ。貝の内側のように輝く青い葉と、真珠の光沢の樹皮を持つ青貝の木。この木は神々の降臨した時代に大発生し、自然に繁殖したという。空の王が汚染した大地の毒を吸い、分解してくれる。


 ウラボロスの周囲の森は、むろんバリケードとして、ペガサスの神々が植樹したものだ。ウラボロスを北にある塩の砂漠の毒風から守ってくれる。


 だが、そのぶん、毒素が凝縮され、人間にとっては危険な木でもある。枝葉にふれるだけでも皮膚がただれるが、薄桃色の宝石のような果実は猛毒の結晶だ。一口でもかじれば、みるまに人は悶え死ぬ。ばかりか、もっと悪い事態を招くことも……。


 美しく危険な森を、シリウスはハルベルトと歩いた。


《ところで、シリウス。君は結婚しないのかね? ワンダが心配していたよ。せっかくの君の血を一代で絶やすのは、もったいないじゃないか》


 シリウスは目を閉じた。

 遠い昔の残像。ゆれる多くの炎。血走った目の人々。崖のふちに追いつめられる女。


「私の血は相手を不幸にする」

《君のために伴侶が必要だ。ほかの人間なんてすてて、女と二人、逃げてしまえばいいじゃないか》


 ハルベルトの素直な考えかたは、とても羨ましかった。正直で、まっすぐで、よどみがない。

 だが、シリウスはそうはいかない。


(逃げる? 誰と?)


 ふと、グローリアのおもてが浮かんだ。が、すぐにふりはらった。


「私は捕まっているわけじゃない」

《そうかな。君を縛る鎖が、私には見えるがね》


 話すうちに、問題の場所に到着した。まだ血の匂いがする。それに強い思念の残像が見えた。たしかに大勢の人間が、ここで争ったようだ。


「人が死んだな」


 かなり激しい抗争だったようだ。一人や二人ではなく、相当数が死んでいる。戦場に残る死の念が場に焼きついて、シリウスを幻惑する。



 ——殺せ。もっと殺しあうがいい。



 誰かの耳につく笑い声。

 これは、誰の念だろう。

 もつれあう人影が見える。

 黒いかたまりがおおいかぶさって……。



 ——やめて。怖いよ。助けて誰か。兄さま! 父上!



《シリウス!》


 かみつくようなハルベルトの声で、我に返った。


《今、誰かの念につれていかれそうになったぞ!》

「ああ……すまない。助かった」


 強烈な思念だった。まだ頭がガンガンする。なまじ感応力などあると苦労する。

 とはいえ、こんなことは今までなかった。いかに強力な念波でも、誰がシリウスの精神力をこえられるというのか。ただの人間に。


「憎んでいた。あらゆる人間という人間を。自分さえも滅ぼしかねないほど。あれほど強く、人が人を憎めるのか?」

《さてね。私は君のように人の心が読めるわけではないからね》


 心をガードしても、その念はタチの悪い病魔のように、どこからともなく体内へ忍びこんでこようとする。シリウスは急いでその場を離れた。すると、まもなく、前方の木のかげに人の気配を感じた。


「誰だ? そこにいるのは?」


 相手はすくみあがっている。ムリもない。見えるはずのない位置だ。視界をさえぎる樹木を透かしてみると、二十歳前後の青年が腰をぬかしていた。


「街の民ではないな。見ない顔だ」


 シリウスが声をかけると、ますますうろたえ、逃げだそうとする。が、腰をぬかしているので思うに任せない。


「安心しろ。危害はくわえない。ここにいるハルベルトも見ためは凶暴そうかもしれないが——」

《なんだって? この優雅な私が?》


 青年は悲鳴をあげた。竜犬の声は、シリウス以外には、ただの獣のうなり声だ。


「ば、化け物!」

《失敬な。この私が化け物? 成敗してくれる》


 あわてて、シリウスは親友を止めた。


「まあ待て、ハル。彼は竜犬を見たことがないのだろう。今では竜犬をかかえている王国は少ない」


 近隣諸国ではウラボロスにいる二十頭あまりが最後だ。年々、その数は減少している。竜犬の竜犬たるゆえんである鱗を持つ子犬が減っている。体躯も小さくなり、ふつうの犬と変わらなくなっていた。竜犬もまた神世の名残だから。


 シリウスは這って逃げようとする青年のもとへ跳躍し、その肩に手をかけた。

 悲鳴をあげて、青年は立ちあがる。


「な、何しやがった! 今、ビリッて……」

「立てるようになったろう?」

「あ、ほんとだ」

「名は?」

「……ルービン」


 黒髪はほったらかしだが、水色の瞳には生き生きとした力がある。


「あんたは?」

「私は近衛隊の非常任隊長だ」

「えっ? 近衛隊? 頼む。おれも兵隊にしてくれ。ウラボロスには山ほど食い物があるって聞いた。ほら、追い剥ぎだって、人さらいだって、こいつでお陀仏だぜ!」と、ナイフをぬく。


 人を殺したことを屈託なく自慢する青年を見て、あやうくシリウスは涙をこぼすところだった。彼が人を殺したからではない。そうしなければ生きられない時代だからだ。


《君は変なとこ、感傷的だね》

「そうかな?」

《そうさ》


 ハルベルトと会話するシリウスを、ルービンはいぶかしげに見ている。


「あんた、こいつの言ってることがわかってるみたいだね。なんか、人間……じゃないみたいだ」


 人でもなく、神でもなく、おれはいったい、なんなのだろう?


「まあいい。城で人手を求めていないか探しておこう。私は、シリウス」


 聞いたとたん、ルービンが放心した。


「あんたが……? おとぎ話だと思ってた……」


 ルービンの水色の瞳から涙があふれてくる。心の汚れをすべて洗いながそうとするかのように。


 やめてくれ。おれはできそこないの半端者だ。ただムダに長い生を送るだけ。


「シリウス。嬉しいよ。あんたがほんとにいてくれて」

「二日後に城門で会おう。それまで生きのびるんだぞ」

「ああ」


 ルービンのくもりのない視線から逃れるように、シリウスは立ち去った。

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