一章 運命のおとずれ3
*
どこからか歌が聞こえる。
遠く、かすかに手琴の音。
夜明けも近い花街は、さすがに寝静まっていたが、ひっそりと愛をささやきかわす者が、まだ残っているらしい。
シリウスが娼館をたずねたのはひさしぶりだ。そう。二十年ぶり。以前に見た女たちは一人もいなくなっていた。ほんとに人間は儚い。きっと今から二十年後に彼がおとずれたときは、今夜の女もいないのだろう。
それでなくても、空の王の残した爪跡は濃い。五百年前、光の神々が退治はしてくれたものの、大地は腐り、水はかび、今でも人々をその毒気でおびやかす。人間は遠いいにしえより、今のほうがずっと短命だという。
こんな夜は、つねより孤独が深かった。ひとときの快楽の余韻より、異質な自分の存在を強く感じずにはいられない。
シリウスは冷たい夜風を切り、あの場所へ急いだ。城壁でかこまれたこのウラボロスの街で、もっとも高い場所。
かつて、この国を守っていた天馬の神々の神殿があった。最後の神が旅立ってからというもの、放置され、廃墟と化した神殿跡の崖の上。
以前、そこには大勢の巫女や神官がいたというが、今ではまったく当時の面影はない。
ウラボロス最後の神の名は、ホーリームーン。
(別におれは未練があるわけじゃない。おれはこの国が好きだ。この国の人々が好きだ。ここが、おれの終生の地)
でも、こんなふうに感傷的になることも、たまにはある。見えないへだたりを人間たちとのあいだに感じると。
そんなとき、シリウスは崖の上から一望できる湖を見ることが好きだった。そこへ行けば、なんとなく心がやすらぐ。
それに、そろそろ夜明けだ。彼の食事の時間でもある。
シリウスが崖に急ぐと、そこには先客がいた。
一瞬、神々の誰かが帰ってきたのかと思った。翼を持つ神はすべて、この世から去ったというのに。ペガサス、フェニックス、ハイドラ、セイレーン……邪悪を滅ぼし、あるべき場所へ帰った。彼らの故郷へ。
しかし、その人はまるで神のように、朝焼けのなか、神々しい。ほっそりと華奢な姿態の少女。薄いドレスのすそをひるがえし、崖の上で踊っていた。
シリウスは息をのみ、目をうばわれた。
尋常な美しさじゃない。容姿もむろんだが、人間なら、一歩ふみはずしただけで死んでしまう断崖の端で、こんなふうに自由に踊ることなんてできない。
彼女の所作にはなんのためらいも感じられなかった。まるで鳥が空を飛ぶのがあたりまえのように、魚が水中を泳ぐように、流れるごとく美しい仕草。肩にかけた金色のえりまきが、彼女の動きにあわせてゆれる。
シリウスが見とれていると、少女が急に悲鳴をあげた。シリウスの存在をやっと知ったのだ。ステップを乱し、あやうく絶壁から落ちそうになる。
シリウスは初めて、彼女が人だと気づいた。あわててかけより、抱きとめる。
「危ない。こんなところで踊るなんて、ムチャもいいところだ」
「ムチャじゃないわ。あなたがおどろかせたから」
「すまない。ケガはないか?」
彼女は笑いながら崖下をのぞく。
「ここから落ちたら死ぬでしょうけど、あなたがひきとめてくれたもの」
絹のような純白の肌。金の光沢のあるつややかな黒髪。澄んだ
容姿はたしかに、この上なく美しい。だが、赤い唇で微笑まれると、なぜだろうか。下腹がチリチリする。
朝日のなかで踊っていた彼女は、現世に降臨した最後の神だった。でも今、シリウスの腕のなかにある彼女は、ひどく血なまぐさい毒の花だ。
まだ十六、七。
華やかで女らしい美貌は、どこから見ても少女なのに、彼女が小首をかしげるだけで、指さきを口元に運ぶだけで……何をしても低俗なくらいの色気が匂い立つ。
男を惹きつけてやまないメスのオーラを、胸苦しいほど強烈に全身から発散している。
(この女は危険だ)
この女に誘われれば、どんな男も抗えない。いや、誘われなくても、たぶん、その姿を見るだけで。赤ん坊と死の床にある病人以外は誰も逆らえない。
シリウスが彼女を離し、あとずさると、彼女は不思議そうな顔をした。
「どうしたの?」
「……おまえの名は?」
「グローリア」
少し、ホーリーネームくさい。やはり最初に思ったとおり、神の一種なのだろうか?
「ホーリーネームか?」
「このわたしが?」
彼女は声をあげて笑った。その屈託のない笑顔は少年のようにも見えた。
こんな人間は初めてだ。神のようにも、魔性の女のようにも、爽やかな少年のようにも見える。
「おまえは何者だ?」
「わたしのことが知りたければ、城門の外へ来て。待ってる」
「城門の外?」
この腐った大地で、まともに人間の暮らしていける土地は少ない。多くの都市は城壁を築き、汚染と魔族と盗賊などからの盾にしている。
その外に住むのは、都市から
「流浪民なのか? しかし、それならどうやって、この場所へ……」
「そんなこと、どうだっていいじゃない」
グローリアは両手を伸ばして、シリウスのほうへ歩みよってくる。
「夜まで待てないなら、ここでもいいのよ?」
グローリアは自分がそうすれば、男はみんな堕ちるのだと知りつくしている。安っぽい媚態に、シリウスは嫌気がさした。彼女に見た神性を彼女自身に穢された気がした。
「よせ。吐き気がする」
グローリアは美しいおもてを不機嫌にしかめる。そういう表情にさえ、エロティックな要素がからむ。男に抱かれているときも、そんな顔をするのだろうか。
(やはり危険だ。今この場にいたのがおれでなければ、どうなっていたか。彼女は男を狂わす。もし町なかに彼女が現れたら……)
この女は殺すべきだ。人心を
シリウスがそう考えたとき、その思考を読んだかのように、グローリアは崖の先端へ走った。
「ここから飛びおりたら死ねる」
「なんのまねだ?」
「おまえのせいだから」
勝手にしたらいいという言葉が、なかなか口から出てこない。
グローリアは泣いていた。どうしてシリウスのひとことが、ここまで彼女を激昂させたのかわからない。
「わたしは醜い。吐き気がするほど」
「グローリア?」
グローリアはまた踊りだした。今度のステップはさっきよりずっと激しい。思わず、シリウスは彼女を抱きしめていた。
「よせ」
「じゃあ、キスをして」
「それだけのために、命がけでおれを責めることはないだろう?」
「キスは?」
シリウスは戸惑いを隠せなかった。
早く殺してしまわなければ。そう思うのに、なぜか、体は勝手に動いて、彼女のやわらかな唇を唇でおおっていた。かるくふれあっただけなのに、毒でも塗られたように、情欲が全身をかけめぐる。
ありえない。シリウスの周期はふつうの人間よりずっと長い。娼館で三夜すごしたばかりなのに……。
「約束よ。待ってるから」
グローリアは崖下の森へ続く方向へかけさっていった。途中で城壁にふさがれて、下へは通じていないのだが、シリウスが追ったときには、もう姿がなかった。
(危険な……だが、鮮烈な女)
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