第1話 噂
酒場につくと、いつもの女中、アンが笑顔で駆け寄ってきた。
「少し待っててね!今日金曜日だから人多くて!でも、今ひと段落して、席片付けたら呼ぶからそこで少し待ってて!」
待つための席に腰掛け、体を伸ばして自分の労を労った。することもなく足を組んだりしながらぼーっと足元を眺めていた。
ぼーっとしている時ほど、周りの声は聞こえてくるもので、例に漏れずレヴも周りの声に耳を傾けていた。
親戚の娘の結婚の話だとか、明日の闘技場の賭けの話だとか、どうでもいい情報ばかりが耳を通り過ぎる。まあ、元々何か期待して聞き耳を立てている訳でもないので、待つ暇つぶしには丁度よかった。
「そういえば、最近ノワちゃん見かけないね。タイミング悪いんかなあ。」
ノワ、というのはこの酒場の一番人気の女中だ。自分も何度か会ったことはある。凛とした目に通った鼻筋。肩甲骨の下くらいまである長くきれいな黒髪を、後ろでまとめている。アンいわく、その髪型はハーフアップというのだそうだ。確かに誰の目から見ても綺麗だった。しかし、相手が綺麗過ぎると引け目を感じてしまうレヴは、アンに紹介されるくらいで、まともに話してはいなかった。話してみると温和な様子だが、見た目が少し鋭いオーラを放っていることも、レヴが自ら声をかけづらい要因だった。
その女中が最近は出勤していないという噂は、段々とアンに話しかける内容が少なくなっていたレヴにはいい話題であった。
「最近ノワさん出勤してないの?」
特に驚いた様子もなくアンは返事をした。
「1ヶ月ぐらい前からシフト変えたみたい。元々日勤と夜勤で、そこまで一緒になってなかったから、詳しいことはよく分かんないけど。」
女中というのは他人に無頓着だな、とレヴは心の中で思った。確かに、いちいち酒場に来た客の話に一喜一憂していては務まらなさそうな仕事ではある。
アンもとても愛嬌がよく、人気の高い女中だが、今の話振りから、やはり他人に対して無頓着であるように思えた。あるいは、女中を目の前にして別の女中の話をしたことで、多少なりとも素っ気ない返事になったのかもしれない。
今度は先ほど聞き耳を立てていたテーブルの席の男性2人組が、こちらに聞き耳を立てているのを感じとった。
やはり女中のシフト事情の話が聞けるとなると、人気の子であれば聞き耳も立てられるようだ。その段になってようやく、アンがノワに気をつかって曖昧な答えをしていたことに気がついた。アンとは幼馴染でもあったことから、プライベートでもご飯に行く仲であったレヴは、女中という仕事は人気になりすぎるとストーカー紛いな輩が出てくる、とアンが嘆いていたのを思い出した。
つくづく気をつかう仕事だな、とレヴは小さな苦笑いを浮かべ、残り少なくなったビールを飲み干した。
元々酒が強くないレヴは、一杯目にビールを頼み、後は女性が好みそうなカクテルを頼んで酒場での時を過ごしていた。
思いの外ビールを飲み干すのが早く、あまり心地よくない酔いがレヴの体に回ってきたのを感じた。
カクテルの二杯目を頼もうか、自分の体に問いかけているレヴを尻目に、先程のテーブルの二人組が席をたった。時計をみると11時を回っていた。
レヴの酒場通いは、何も帰路で気のみ気のまま行くわけではない。借りているアパートに一度帰り、夕飯も風呂も済ませてから行くのだ。何せ動物の皮を扱った仕事であるから、その独特の匂いを消しておきたい気持ちが強かったのだろう。
そんなことができるのも、この酒場が歩いて数分も経たずに着くところであるからだった。
11時ともなると、酒場には静けさが生まれてくる。常連客も去ってきた頃合いに、レヴは入り、暇になってきたアンとグダグダとくだらない話をするのが日課となっていた。
隣のテーブルの客がいなくなり、店にいよいよ静けさが出てきた頃合いで、アンが言葉を発した。
「さっきの話じゃないけど、この前の月曜日に昼間フォッシュ通りでノワさん見たよ。あっちは忙しなさそうでこっちに気づいてなかったんだけど」
レヴの予想通り、女中の個人情報としてシフトの話題などは出せなかったことが、今の発言でわかった。信頼関係のあるレヴだからこそ、この話もしたのだろう。
なんだかんだで良いやつだな、とレヴが関係のないことを考えていると、少し興味深い話を続けた。
「なんか、政治家の街頭演説?ってのを真剣な様子で見てたなあ。私よく分かんないんだよね。」
政治活動に熱心、というのはある種の嫌悪感をもたれる。仕事はもちろん、酒場の席でも政治的主張をする者は、少なからず敬遠される。女中はそんなこと百も承知だろうから、ノワさんも見識をひろげる為に聞いていたのだろう、とその時は心の中で納得した。
それからしばらく他愛もない話をアンと続け、悪い方の酔いが全身に充満してきたことを感じ、ゆったりと席を立ち会計を済ませた。
酒場から自宅アパートまでの短い帰路に、また今日も取り立てた事もない日を過ごしてしまった、と軽いノスタルジーを感じながら歩を進めた。
ぐっすりと眠りにつくだけで、その日の酒場での話のほとんどが頭の中から消え去り、ノワさんの話もまた、記憶の片隅へと追いやられていった。
レター @kokorimo
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