5章 道路の向こう側
ロードサイド店舗が多く立ち並ぶ、片側三車線の国道。上には高速道路が走り、信号機はほとんど長い間青信号を示す。ほとんど人が渡らない横断歩道の歩行者用信号の足元、そこにはいつも花が添えられている。
10年前、ここで妊婦さんが車に轢かれて亡くなったという。
ほとんど毎日、ここの道路を通る。このまま真っ直ぐ走っていくと、職場の営業所があるためだ。
開店した時は話題になっていた大きなホームセンター。元々紳士服屋が入っていた空きテナントに入ったリサイクルショップ。広い駐車場の真ん中にぽつんと存在する眼鏡屋に、昔は中学生がたむろっていた、今では看板の電球が切れているゲームセンター。見慣れた道路を真っ直ぐと進んでいくと、毎日のように歩行者用信号機の足元に花が見える。
今日は黄色か、何の花だろうな。
「随分ともどりが遅かったじゃないか」
「さーせん。事故渋滞にハマったんですよ」
「ったく……まあ、どうでもいいけどよ。さっさと帰れよ、電気代の無駄だ」
「いーっす」
大型家電の配送業。引越しシーズンの今は忙しくてありゃしない。今日一人でも設置できるような小型の家電ばかりだったから、一人で回ったものの、この時期は適当に雇ったまともに意思疎通もできなければ学習能力も何もないようなバイトと回されることもあってストレスが一向にたまるばかりだ。あいつらは配線のことも、配管のことも全く覚えるつもりがない。先週アース線のことを2回教えたやつはいい加減覚えただろうか。……覚えてなかったら、一緒についてやったのにお前は教えてなかったのかと、なじられるのは俺だというのに。
工業高校で覚えた電気の知識の表面だけをなぞるような仕事。給料は現場仕事かつ基本給+出来高ということもあり、同じ年齢の高卒よりは多少見栄えするものの、同じことを永遠に繰り返すだけだ。このままでいいのだろうか。続けていたところでありつける先は、事務所にいる先輩のおっさんだ。足を悪くして現場に行けなくなって、仕事の配分をするようになるだけだ。かといって、転職したところで今の自分にあるスキルでどこにありつけるのか。先はただの大型トラックの夜間ドライバーだろう。収入は増えても、一体じゃあ運転できなくなったら自分は何になるのだろうか。何で食っていけるのだろうか。考えれば考えるほど先は真っ暗だった。渋滞に嵌った夜の国道よりも、停滞して、周りばかりが眩しかった。
「あそこの花、一体何なんですか」
「あー……事故があったんだよ」
「献花ってやつですか」
トラックの隣に座る大学生の大人しいバイトが突如口を開く。今日はピンク色の花が置かれていた。
「……誰がやってるんでしょうね」
「さあ」
「毎日、花だってただじゃないでしょう」
それはそうだ。スーパーでたまに見かけることはあるが、あのくらいのしっかりとした花束なら、500円くらいしてもおかしくはないだろう。それを毎日毎日、俺の昼食代と同じくらいかかっていてもおかしくない。それに、誰が置いているのかすら、一度も見たことはない。
「自己満足でしょう。死んだ人間が、花束を見てどうするっていうんですか」
「冷えなぁ、お前」
「だって事実でしょう」
メガネの奥の瞳が、さもそれが真実だと言いたいように輝いている。……大学なんかに通って俺なんかよりもよっぽど賢いだろうに、どうにもそういう人情のようなものへの感情がどこか欠落して見えた。いや、そんなものを信じて、いい人ぶって自己を保っているのは俺なのかもしれないが。
「少なくとも、おれは……事故死したからって毎日花をたむけられても困ります。生きてる人間は自分のために生きるべきだ」
「それが生きがいかもしれないだろ」
「……」
分が悪いと感じたのか、そいつはそれ以降仕事の話しかしなかった。
けれど、そいつは他のバイトとは違って、随分と物覚えが良かった。さすが現役大学生……いや他のバイトも大学生が多いはずなのだが、この差は何なんだろうなと思う。遊びながら金を稼ぎたいやつか、真面目に働いて金を稼ぎたいやつかの違いだろうか。……自分は、真面目に働いていると言えるのだろうか。冷えたやつだな、と思ったけれど悪いやつじゃないんだよなとその日、回りながら思った。
「足立さんはさ、なんでこんな仕事してるの」
「なんだよ」
「だって、あなたは多分この仕事をしていていい人じゃないから」
「……なんだよ」
「ちゃんと考えて仕事をしてる。ここの人って良くも悪くもバカが多いじゃない。自分のことしか見えてないような」
彼の言わんとしていることは何となくわかる。時たま、会社の人間たちと会話をしていると、あいつらの見えている世界と自分の見えている世界が全く違うものなのだと痛感させられる。人間の瞳は、見たいものしか映していない。
「仕事は別に嫌いではないんだよ……ただ、な……」
別に会社の奴らが嫌いなわけでもない、仕事内容に不満があるわけでもない。そこそこの仕事で、そこそこの収入。ただただ自分のお先が真っ暗なことに嫌気が差すだけだ。将来のことなんて考えずに、少しずつ上がっていく額面の数字だけ追っていればいいものを。
「余計なことを考えているだけだよ、俺は」
思考停止が悪だというのは、思考を停止できない自分を肯定したいからだろう。
流されることが悪だというのは、流されない自分に存在意義を見出したいだけだろう。
結局俺の考えていること、というのも、一種の見下しなのだ。
「お前は俺のようにはなんなよ。せっかく賢いんだから」
「……」
コンビニで酒を買った拍子でそのまま開けてしまい、徒歩で家に帰ることになってしまった。国道沿いの歩道は広くて歩きやすいものの、自転車に注意しないとぶつかってしまう。それに、並ぶ店舗の一つ一つが巨大すぎて、前に進んでいる気がしない。少しずつ自宅に近づいているはずなのだが、どんどんと気が遠くなるのはアルコールのせいだろうか。車に乗る仕事をしていると、どうしてもアルコールを飲む頻度は下がってしまう。若い頃より飲めなくなったものだ。
いつもの花束が添えられている横断歩道が見えてくる。そこには珍しく渡るのを待っている人影があった。……その背格好に見覚えがあった。
「あいつ、この辺に住んで……」
思えば、こいつがどこに住んでいるのかすら聞いたことがなかった。まあそうだ、特段仲がいいわけでもないし、向こうは確実に数年後にはいなくなっている大学生バイトだ。住所なんてお互い知らない方がいい、そこまで干渉するほどの仲でもない。ただ、今日の自分は気分がいい。もう少し歩いた先のコンビニで焼き鳥でも奢ってやろう、と声をかけた時のことだった。歩行者用信号は赤を示したまま、車は時速70キロを超えてバンバン走っている。そこに一歩、踏み出したように見えた。
「危ない!」
心臓が飛び出るかと思った。何とか片手を掴んで、道路に体が投げ出される少し前に間に合った。車のクラクションの音が鳴り、ブレーキの赤いランプが通り過ぎていく。
「なにしてんだよお前!?」
「……なんで、いるんですか」
「仕事帰りだよ悪いか!!」
「……」
そいつは今にも泣きそうな顔をしていた。こんなガキみたいな顔するやつなんだとその時初めて思った。でも考えてみろよ、こいつは18そこらのガキだ。
「なんで、あんなことした?」
「……」
コンビニで缶コーヒーと、おにぎりを買って渡してやる。深夜のイートインコーナーに人はいなかった。長距離ドライバーはみんな、自分のトラックの中で寝る。
「もう、花を手向けることに嫌気がさしたんです」
「……」
「あそこに花を供えていたのは、おれです」
まさか、そんなと思った。こんなガキが?少なくとも俺がこの職場で働き始めた六年前からはほとんど毎日、あそこに供えられている。その時こいつはいくつだ?12とかだろう。
「何のために」
「うちの父親が……妊婦さんを轢き殺したんです」
彼曰く、夜の出来事だったと。彼の父は長距離ドライバーであったと。さっきのように、車の方が青信号でスピードを出して流れていて……飛び出してきた妊婦さんは自殺だったらしい、と。
「死にたかった妊婦さんのことは正直どうだって良いんです。だって死にたかったんでしょうし……でもお腹の中の赤ちゃんはどうですか?生まれてきて幸せになるか、不幸になるか、そんなことすらわからないまま殺されたんです。うちの親に」
「だからって……それはその子のお母さんが」
「人間はいつから個人なんでしょうね」
「……」
「お腹の中にいたら、どうしようもないんですか」
「さぁ」
「事故の後……事故って言って良いんですかね、自殺なのに。まあその後、世論はまあその妊婦さんへの同情一色でしたよ……でもその人は死にたくて死んだんだからどうしようもないじゃないですか。お腹の子はどうなんですかって」
彼の言いたいことがわからないわけではないのだ。だけれども、言ってしまえばそれこそが「どうしようもない」じゃないか。世の中は、いろんなどうしようもないことが積み重なってできていて、どうにかできるのはほんの一握りの人間だけだというのに。
「罪滅ぼしか」
「罪って言っても、親のやったことなんでおれは関係ないんですけどね……ただ、何かしておかないと辛かった。自分がのうのうと生きているのが許せなくなったんです」
「……あの時、花の話をしたのは、辞めたかったからか?」
「……」
「辞めて良いと言われたかったのか」
「なんであんた、そこで生きがいなんて的確なこと言っちゃうかなぁ」
観念したような、図星を言い当てられて困ったような顔をしていた。わかるよ、本音を言い当てられた時の悔しさと言ったらありゃしない。
「……楽しみだったんだ」
「え」
「あの変わり映えしない道路の中でさ、あそこに添えられている花だけは毎日変わって……俺にとってもある意味生きがいだったんだよ、あれは」
たまに大型商業施設に入るテナントこそ変われど、あの通りは毎日同じような景色を俺に見せつけてくる。停滞した俺の人生のような、ただただ設備が潮風に当たって錆びて朽ちていくだけのあの景色。あの花だけは違った。白、ピンク、黄色、黄緑。毎日違う花が咲いていた。俺にとってそれだけが「今日は昨日と違う日だ」と認識させてくれるものだった。
「ロマンチストなんですね……ガテン系なのに」
「悪かったな」
「ああ、でも良かったです。おれの自己満足で、楽しんでくれている人がいたならば」
全てを諦めたような顔をして、彼は笑っていた。
「もう、花添えるの辞めたのか」
「あなたのためだけに毎日花を買えるほど、おれは裕福じゃないですよ」
この間の出来事以降、皮肉を返してくるくらいには彼は俺に心を開くようになっていた。俺としてもこいつと一緒に仕事だとやりやすい。ちゃんと内容を覚えてくれるから、一緒に組んでいて楽なのだ。
「珍しいですね、ここで信号変わるなんて」
「そりゃ〜めったにここ赤にならねえからな……あの子、渡らねえのか」
くだんの場所でブレーキを掛ける。停止線の少し手前で綺麗に止まることができた。しかし信号待ちをしていた少女は一行に渡る様子を見せない。それどころか、こちらをずっと見ていた。
その子の手には、色とりどりの花束があった。
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