3章 繰返しの向こう側

「私、これから死ぬんです」

「……そんなこと、言わないでくださいよ」

「いいえ、死ぬんでしょう?あなたたちが一番よくわかっているくせに」


 そうやって、彼女は夕陽の柔らかな光を浴びて微笑む。日の色に照らされてごまかされているけれど、彼女の顔色はだいぶ悪い。

 そう、彼女はもう余命幾ばくもない。



「私、これから死ぬんです」

「ええ」


 彼女は、夕方の問診のたびに私にそう繰り返す。


「……いつもベットの上で過ごすばかりの人生でした……いつか終わればいいのにと思っていたけれど、いざ終わりが近づくと寂しいものですね」

「みなさん、きっとそう思って……最後まで一生懸命生きているんですよ」

「死ぬのって怖いんでしょうか?」

「さあ」


 少なくとも、私は怖い。病院なんかで働いていると、いやでも恐ろしいような目に合うことがある。けれど、私からしたら。


「私は……医療ミスで誰かを殺してしまうことの方が、怖いですね」

「……そうですか。看護師さんも大変ですね」

「注射一本、間違えたら殺してしまうかもしれませんから」


 たいていの患者は、自分たちがどれだけの医者と看護師が張り詰めて緊張しながら医療行為を施しているか全く知らない。こちらは間違って殺さないかビクビクしているというのに、向こうはやってもらって当たり前だと思っている。こちらもこれでお金をもらっているのだから、わがままはいえない。



「私、これから死ぬんです」

「……」

「赤ちゃんをね、産みたかったの」

「ああ……」


 彼女は、10年前に子供を流産している。不妊治療の上の待望の妊娠。そして一瞬で崩れ去る希望。


「私が病気で死んでも、私の赤ちゃんが生きていてくれれば私は死んでもいいなって思えたの」

「……そうですか」


 私にはその感覚がよくわからなかった。親子とはいえ所詮他人だ。別の命だ。それに、お母さんが自分が生まれた代わりに死んだなんて聞かされたら子供はどう思うだろう。生まれた時からそんな十字架を背負わされて、かわいそうに。

 そもそも、こんな体でよく子供なんて産もうと思ったものだ。生まれた時からヤングケアラー確定。頭の弱い両親のもとで生まれた子供はかわいそうだ。よくよく考えずに孕んだ親のせいで、大変迷惑を被って生活しなきゃいけないのだが。育児を免許制にしろ、と思ってしまう気持ちもあるけれど、免許制にしたところで違反する奴はたくさん出てくる。自動車免許も、それどころか医師免許も、みんな簡単に剥奪されていくような行為を行ってしまうのだから、免許なんてあまり意味を持たない。それどころか、免許を持てなかった持たなかった人の中に才能が埋もれていることもある。

 ……少なくともうちの親は、父親が教師で母親が産婦人科の医師なんて子育てに向いてそうな人たちなのに、娘を育てるのには失敗した。


「あなたは、そう思わないって顔をしてるね」

「……思いませんよ。お母さんがいないなんて、かわいそうです」

「生まれた時から片親だとね、そんなこと思わないものよ」

「そうですか」

「それに、うちの母親はすっごい自分勝手な人だったから。私のことを娘だと思ってくれていたのかすらわからない」

「……」


 彼女は、10歳の時に児童養護施設に預けられたらしい。母親に捨てられたのだ。

 そして、17の時に病気が発覚して、それ以来入退院を繰り返している。

 長く籍を入れていた旦那さんがいたものの、数年前に捨てられたらしい。

 本人はもう、意識もだいぶ朦朧としているのか、旦那とはまだ婚姻関係が続いていると思っている。


「……ほんと、かわいそうな人」




「私、これから死ぬんです」

「もうやめませんか」


 言ったところで無駄だ。痛みを和らげる薬でもう認知能力がおバカになってしまっているのだから。


「……あなたは、幸せでしたか」

「?」

「あなたを見ていると、惨めになるんです」


 私よりもよっぽど大変な目にあって、大切な人たちをたくさん失って、まるで悲劇のヒロインかのようにそこで微笑まないで欲しい。中途半端な悲劇のヒロインの私は、あなたをみているとものすごく惨めになるのだ。両親がいる状態で育った。お金も特に苦労しなかった。母親のあとを継ぐように昔から勉強ばかりさせられていた。けれど医学部受験に失敗して結局看護学校に行った。親は心底残念そうな顔をしながら、それでもいいと言った。惨めだ、惨めだ。その優しさは、まるで私を期待外れと切り捨てているようで。それでも、私の苦しみなんてきっとこの人の10分の1にも満たない。


「ふふ……」

「なんですか?」


 その微笑みが癪に触った。


「あなた、まだ自分の命に意味があると思っているのね?」


 その言葉は、私に向けて言っているようで、そうではなかった。




「ねえ、ママ」

「どうしたの?」

「ママはどうしてはやくこっちにきてくれないの?」

「ごめんね、ママはまだ生きてるから」


 すりすりと私の膝に頭を擦り付けてくる。重さと温かさを伴った命。


「……うそ」

「嘘じゃないよ」

「うそ!」


 そういうと、可愛い可愛い私の子供は火がついたように泣き出してしまった。


「お母さんは!お母さんは!自分が可愛くて私を生まなかったんでしょう!?自分の命の方が大事だから!私を殺したんだ!私を殺したんだ!」

「違うの、ねえ聞いて?」


 そんなこと、ない。そんなこと絶対にない。できることなら、今動いている私の心臓だって、肺だって、脳味噌だってあげたくて仕方ないのに。


「お母さんの嘘つき!お母さんは自分のことが大事だったんでしょう?お母さんは私じゃなくて自分のことを選んだんだ!」

「ごめんね、ごめんね。あなたは何も悪くない。産んであげられなくてごめんね……ごめん……」


 別に、母親に捨てられたのだって構わなかった。別に、病気になったのだって仕方ないと思えた。別に、旦那が知らないうちに私の元から離れて行ったのも、もうどうでもよかった。それでも、あなたの命だけは諦めたくなかったのに。どうして、ねえ、どうしてそんなこと言うの、お母さんの可愛い娘。どうして?どうしてそんなこと言うの?


「お母さん自分の命に意味があると思っているの?」

「……」

「だから、そんなことができるんだね」

「ちが……」

「意味がないってわかってるならさ、さっさと私のもとへきてよ!!!」


 ないよ。わたしのいのちにも、わたしのじんせいにも、いみなんてもの、なにもない。




 あの時の、花房さんの微笑みが忘れられなかった。私の命の意味なんて、あなたに測られたくないと思った。

 翌日、彼女は病院の駐車場で、血塗れになって見つかった。飛び降り自殺だった。



 ここから飛び降りたのだろうなという場所から、彼女の死体を見下ろしていた。綺麗な死体だな、とふと思った。


「……ねえ、あんたもさ、私のママのことあれこれ勝手におもったでしょ?」


 ふわり、と体が浮いた。体の上としたが真っ逆さまになって、さっきまで私が見下ろしていた場所から小さな……花房さんにそっくりな女の子が見つめて、そっくりな笑顔で微笑んでいた。

 急激に私の頭と地面の距離が近くなる。ゴオオ、と風を切る音が耳元で鳴る。


「私、これから死ぬんです」


 その声は、誰のものだったか。

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