2章 画面の向こう側…②

 当時の私は、彼と”付き合ってやっている”感覚だった。見下しもいいところかもしれないが、彼はその程度の価値しか当時はない人間だった。付き合っていくうちに、少しずつ彼は垢抜けて、なんとか私の横を歩いてもいいくらいにはなった。


「……いやさ、就職決まったら、結婚しないか?」

「は?」

「ごめん。気が早いよね」


 彼は田舎出身で、親は早く結婚するようにとうるさい人のようだった。そして初めての恋愛相手を、結婚相手に選んでしまうくらいに、彼はウブだった。


「……さあ」


 私は答えを保留にした。単位も危ないことになっているし、内定だってこのご時世、簡単にとれるわけじゃない。彼はなんだかんだで人と最低限のコミュニケーションはとれる人間だったし、案外すんなりと大手の証券会社に就職が決まった。……妥協だと思っていたけれど、そこそこ金の卵だったのかもしれないと、あとから思った。

 だから、つなぎ止めることにした。焦っていたのかもしれない。このまま、大学生という価値を失ってしまう自分。このままだとフリーターになってしまう自分。もう、若くもない自分。……自分の理想の王子様は現れなかったけれど、理想の農民程度の男をキープできるのだ。別に今の時代、嫌になって×がついたって構わないだろう。一度結婚を保留しておいた手前、プライドもあるので、コンドームに穴を開けて無理やり妊娠した。私があなたと結婚したいんじゃない。子供ができてしまったから、結婚したいのだ。とそういう体を狙った。

 妊娠を知った時、彼はとても嬉しそうな顔をした。あとから聞いた話だけれど、彼の家は父親の弟夫婦と同居していて、昔から子供の面倒を見ていたからか、子供のことが好きなのだという。


「ああいう、暖かい家庭を築けたらいいなって」


 彼は、そういうものを信じている人だった。

 私と違う世界で、生まれ育った人だった。

 結婚の挨拶で彼の実家へ行った。穏やかそうなご両親と、彼の姉がいた。お姉さんの足元をぴょんぴょんと駆け回る三つ編みの女の子がいた。彼女の娘だという。柔らかな日の入る木造の大きな家。息子に早いところ結婚しろという親なんて、きっと録でもない田舎の親だろうと思い込んでいたけれど、実際のところそんな強く言われていたわけではないという。

 むしろ私の親の方がよっぽど害悪であった。女らしくなることを嫌がる母親。胸が大きくなっても、相応の下着を買ってもらえなくて、中に着た体操着で胸が擦れて潰れてしまった。成長するにつれて顔が油っぽくなって、洗顔料が欲しいとねだったら、そんなことするな色気つきやがって!と叫ぶ母親。ニキビができても、顔がぶくぶくに腫れても、病院にさえつれて行ってもらえなくて、生理が来てもナプキン一つすらあの人は出してくれなかった。それどころか、家庭ゴミにそれのゴミを捨てると怒鳴り散らかすので、私は毎回持ち歩いて、学校の汚物入れに捨てざるをえなかった。

 最初から、私の方が下だったのだ。生まれも、生活も……人間性も、何もかも。


「不束者ですが、よろしくお願いいたします」


 私は、手に入れたこの地位を、失うわけにはいかなかった。


 そんな私を嘲笑うかのように、お腹の中の赤ちゃんは出産予定日の一ヶ月前に私のお腹で亡くなっていた。



「十分佳苗ちゃんは頑張ってくれたよ……ごめんね」

「……」


 辛かった。最初は打算のために孕んだ子供だったけれど、ずっと腹の中にいたのだ。生きていたのだ。私とは別の鼓動を持っていたのだ。それなのに、私はまるで殺人を犯したようなものじゃないか。

 旦那の親族に私を責めるような人は誰もいなかった。けれど、私の親は相変わらずだった。


「そんなふしだなら生活をしているから母と認められなかったんだろう!?」


 ヒステリックな母の声は私の鼓膜を破壊するかのようで、私の心にヒビを入れるようだった。あれ以降、実家とは連絡をとっていない。


「次は健康に生まれてくるよ、きっと。自分は、君との子を作りたいんだ」


 彼はそう言ってくれた。けれど私はそれを拒み続けた。もう怖かった。妊娠していることはまるで、前のあの子を殺したことをずっと胸に刻みつけて生きていけと言われているようなものだった。私は拒んだ。ずっと、彼と体を重ねることも、全てを拒んだ。



「別れよう」


 それから二年後、唐突に離婚届を渡された。慰謝料は払う、結婚してからの貯金は全部私に渡す。全てが好条件だった。


「……そこまでして、私と別れたいの?他に女でも作った?」

「君こそ、自分と一切しなくなったじゃないか。それを言いたいのはこちらの方だよ」

「なんで私がそんな疑いかけられなきゃいけないのよ!」


 そう叫んだ声は、酷く母に似ていた。



 あの人は告げた。


「なんどもなんどもなだめて、また次の子を作ろうって言ったんです。けれどあの調子なのだから、何のために婚姻関係を続けているのかすらわからない。……産みたくないなら、そう言ってくれればよかった」


 産みたくないわけじゃないのだ。私はもう孕むのが怖いのだ。

 ……でも、こうなるように仕向けたのは私だった。こうしていれば、向こうから別れようと言ってくれると予感していた。それにかけて私は、このような行動にでたのだ。


「どうかお幸せに」


 最後に聞いた彼の声も、変わらず穏やかなものだった。



 別れてから、周りの奴らは口を揃えていうようになった。


「確かに出会った時はさえない感じだったのに、いい旦那さんだったじゃない。もったいない」

「あんな若くてしっかりとした人いないでしょ?もしかしておじさんのほうがよくなっちゃった?」


 そんな声、聞きたくなかった。だけど、私が彼女たちの立場だったら、同じようなことを言っていただろうと思うと何も言い返せなかった。




 ちゃぷん、ちゃぷん。

 入浴剤の柑橘の香りがふんわりと浴室を充満していく。


 あれから私はずっと独り身だった。もうどうでもよくなり、仕事ばかりに精を出すようになったらどんどんと昇進していき、ついには会社内初の30代女性幹部!なんて囃し立てられて、公私の公に関しては順風満帆。それに×がついていることを知っているからか、会社の中で取り立てて早く結婚しろなんて言われることもない。失敗した人間に、他人は酷く優しい。いや、優しいのではなくきっと触れたくないのだろう。

 彼のSNSを見つけたのは半年前だ。マッチングアプリで出会った駒沢大の同い年の男のアカウントを遡って行ったら、元旦那のアカウントが見つかった。なんだ、隠キャのようにして、昔からの友人との付き合いがあったのね。最初から、見下していたのは私だけだったのだ。不相応で、不釣り合いなのは私の方だったのだ。


「……これ、なにか写ってる」


 昨日は風呂にこうやってゆっくり浸かる元気もなく寝てしまったので、どうやら投稿を見逃していたらしい。

 花火をしている今の奥さんとの間に生まれた子供の後ろに、ぼんやりと人影が写っている。真っ白い、10歳くらいの、男の子。

 心霊写真だ。

 けれど、下に続くコメントには、一切その子に触れている人はいない。拡大しても、スクリーンショットをとっても、いるというのにだれも言及していない。


『お子さん随分とおおきくなりましたね』

『花火ですか?楽しそうですね』

『こんど飲みに行かない?飲みが難しかったら一緒に子供連れてバーベキューでもしようよ』


 そんな知り合いたちからの言葉が延々と羅列されている。


「見えてないの?」


 こんなにもはっきりと見えているのに。ちょっとつり目で、目つきが悪くて、少しずんぐりとしていて……。



「ぎゃあ!」


 私に似ている。そう思った瞬間だった。

 その写真の子供は、私の方を見ていました。私の方をみて、にんまりと笑っていました。写真が動いたのです。


 次に目を画面に向けると、その子供は消えていました。日付は24時をちょうど回っていました。


 ちゃぷんっ




20XX年 4月29日

『昨日、夢に男の子が出てきたんです。顔が……元嫁にそっくりでした』

『あいつは元気しているだろうか。自分からみたら円満離婚だったので、少し気がかりです』

『そういえば、昨日は元嫁との間に生まれてくる予定だったこの出産予定日からちょうど十年です。そろそろ線香でもあげに来いって意味なんでしょうかね』



20XX年 8月10日

『久々に、水子供養に行ったんです。前の奥さんとの間の子。春ごろにきっと彼女との子供だろうなって子が夢に出たのに、随分と遅くなってしまいました。どうしても元嫁の家のほうのお墓って行きにくいじゃないですか』

『そしたら、前の奥さんが亡くなってたんですよ。墓石に、知った名前が刻まれていて。しかも、そう。あの子が出てきたその次の日に亡くなっていました』

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