2章 画面の向こう側…①

 ちゃぷん、ちゃぷん。

 風呂桶に張った湯の表面がゆらゆらと揺れている。新しく引っ越した浅築の1Kのマンションは、以前住んでいた築30年のぼろアパートとは違って、水まわりがとても綺麗だった。木目調のタイル、薄青がかった棚。私の望んでいた生活にほんの少しだけ似ていた。

 水道代とガス代がもったいないからと、立派な湯船にお湯を1/3ほどだけ張って、半身すら浸かれない状態で1時間以上ボケっとする。それが私の生活に与えられた唯一の至福の時間だった。

 風呂のふたに置いていた、数ヶ月前まで使っていたスマートフォンに手を伸ばす。いくら防水機能がついているとはいえ、新しく買った端末を湯船で使う気にはなれなかった。おかげで前の端末はすっかり風呂場専用機だ。

 SNSを開く。自分だとバレないように、適当に拾ったアイコンと、一番最初に表示される意味のない文字列をそのまま名前として使用している鍵アカウント。きっと、詳しい人が見たらスパムか何かだと思われるのだろうが、このアカウントはそういうのを知らないような相手を見るためだけに使っている。そう、元旦那だ。

 私と一緒にいた頃は、SNSなんて全く興味がなさそうだった。大学のコンパ、流行りのゲームをずっと一人で黙々とやり続けている、暗そうな男。友人との付き合いで無理やり呼ばれたため、私はあまり乗り気ではなく、なにかと理由をつけては一人で店外に出てタバコをふかしていた。いつの間にか席を外していた彼と、煙をすうタイミングが重なった。


「……吸うんですね」

「あんまり男の人って、タバコ吸う女の人好きじゃないですよね」


 私からしたら、飲みの場所で延々とスマホゲーをしているような暗い男が、ヤニを愛好していることの方がよっぽど不思議だった。そういう人たちって、お金というお金をゲームに溶かす物だと思っていたから。


「自分は、人が吸ってるとか、吸ってないとかあんま気にしないんで」


 彼は人に興味がなかった。だからあの場所で延々とゲームをしていられたのだ。彼も知り合いとの付き合いで呼ばれたらしい。


「彼女いないっていうと、こういう場所に連れてこられるんですよ。でも飲みのお金ばっかり嵩むだけで、別に彼女なんてできないし」

「ああ〜そうかもしれませんね」


 かくいう私も似たようなものだった。よく、理想が高いと言われる。MARCH以上で、私より身長が高くて、しっかりとしていそうな男。インターネット上ではごろごろと転がっているその学歴は、実際に出会おうと思ってもなかなかいなかった。かと言って、出会い系サイトのような、低俗な物を使ってやるほど、私はモジョではなかったし、落ちぶれてもいなかった。


「ねえ、大学どこって言ってたっけ」

「駒沢」


 私の理想には一歩届かなかった。けれど、彼氏がいない物同士と毎晩のように飲みに誘ってくるあいつらから逃げる言い訳にはちょうどいいと思った。


「ねえ、私たち、悪魔除けの契約をしない?」



 彼も飲み会に誘われ続ける生活にうんざりとしていたようで、私たちの仮面恋人ごっこが始まった。仮面夫婦未満の、お互いいい人が見つかったらそれで終わりにする関係のつもりだった。私はこんな暗くて男らしさもなくて、それでいて学歴もたいしたことない、将来に期待できない男にかけてやるほど落ちぶれてはいなかった。


「彼氏できたから、もう飲みはしばらくいいや」

「ええ?いつの間に?」

「どんな人どんな人?」

「えっと……立教大の3年の、ちょっとさえない感じの人」


 実際はそんなんじゃない。駒沢のまさに全然さえない人だ。


「ええ〜さえない男とか、佳苗一番嫌いじゃん」

「まあ、そうなんだけど……とりあえず鍛えてみようかなって。向こうからアタックされちゃったから〜かわいいなぁ、みたいな?」

「ああ〜母性本能が勝っちゃったか。てか立教でさえない感じってやばくない?」

「まあ、すこしさえないだけだから」


 ああ、彼氏ができた、というとこんな風になるのか。いろいろ質問責めされて、相手のスペックを測られる。私だってそういうことをすることがあるから否定することはできないが、それとしてものすごく不快で負担だった。人間、そこまで自分のことを客観的に見れてはいない、という教訓がまさにここで発揮されているのである。


「そのうち紹介するよ」

「やった〜楽しみ」


 紹介するまでの間、絶対に本当に立教のちゃんとした男を捕まえてやる、と思った。あんな男、紹介できるわけがなかった。




 最初はそう、そんな感じで付き合い始めた。後から考えると、駒沢の隠キャなんてそれだけでかなり条件としては外れも外れだった。対象にすらなっていなかった。けれど、あの日声をかけたのは私の方からだった。


 画面に映る彼は、いまやすっかり垢抜けて、真面目で誠実そうな微笑みを今の奥さんとお子さんに向けている。どうやら、奥さんは第二子を妊娠しているらしい。……4つも下の、綺麗なお姉さん。経産婦にしては、細くてわかそうな印象を受ける。……どうせ真面目に育児してないんじゃないの、実家に預けて、遊び呆けてるんじゃないの。そう毒を吐きたくなるが、元旦那のSNSには家族仲睦まじい写真が永遠に並んでいる。フォロワー数は600を超えている。これはきっとただの知り合いだけじゃなく、彼ら家族を見たいと思っている人々も含まれているだろう。だって、あの人600人も知り合いがいるわけないじゃない。あんなにさえなくて、あんなに暗かったのに。誰のおかげで今のあんたがあると思ってるの?




 ちゃんとした男を捕まえるまでのキープのつもりだった。けれど、存外彼は少し面白い一面があった。昔の……私たちが子供の頃に流行ったような少女漫画が好きだった。彼の家に遊びに行った時に、のれんに隠されている本棚を見つけ、ああAVか何かがあるのだろうな、と思ってそこを無理やり開けたら、並んでいたのは懐かしいタイトルだった。


「キモいと思った……?」

「……まあ、でも随分と懐かしいもの持ってるね」

「姉さんの影響で、昔からこういうのが好きでさ」

「借りてもいい?」

「え、いいけど」

「じゃあ借りる」


 久々に見た、キラキラとした少女漫画の表紙。可愛らしいイラスト、小学生が読むにはちょっと刺激が強いんじゃないかと思うような、恋愛の物語。そうだ、私はこんな、キラキラとした恋愛がしたかったのだ。

 今の状態はなんだ。暗い、少女漫画趣味の男。まともな男すら捕まえられない惨めな私。はやくここから出して!こんな地獄から!だって現実はもっとキラキラして!



「少女漫画のキラキラとした絵と世界観が、好きだったんだ」

「へえ」

「世の中、そんなもんじゃなかったけどね」


 本当だよ。あんたのせいで、私の人生は灰色だ。


「あんたさ、ちゃんと髪とかセットしたら?」

「……?」

「メガネかけてるけど、そんな視力悪いの」

「……0.3くらい」

「そんなもんならコンタクトでいいじゃん」


 私の横を、こんな暗い男に歩かせるわけにはいかなかった。せめて、もう少しはっきりしていそうな雰囲気で歩いて欲しかった。


「コンタクトって……目に悪いんじゃ」

「目に悪かったらこんなに大勢がつけてるわけないでしょ。私なんて0.07も見えてないし、乱視だってあるんだから。人よりすごく金かかるの」

「美人な人って、やっぱりそれ相応の努力ってしてるんだね」

「……」


 こんな自然に美人だなんて言われたことなかった。スッピンは物凄い目つきの悪いブス。昔から可愛くもないのに態度がでかいと、トイレにたかる女子たちに噂されて暮らしてきた。目つきが悪いのはメガネの度数があってないから、親に食べることを強制されて、ぶくぶくと太って。それでいじめられたから、親に反抗して、ダイエットをして、コンタクトに変えて、化粧を勉強した。おかげで人並みの見た目にはなれたけれど、せいぜい平均よりまともかもしれないケバい女が出来上がった。化粧が濃い女に、男は寄ってこなかったけれど、かと言って今更薄化粧するような自信もなかった。


「本当に美人だと思ってる」

「……」

「私、美人でも」

「かわいいよ。少女漫画みたいにまつ毛が長くて、キリッとしてて」

「……」


 呆れ半分、拍子抜け半分だった。こいつはそこまで少女漫画脳なのか。このアイライナーとマスカラで作り上げた虚像の私の瞳を、綺麗だというのか。


(少女漫画みたい、ね……)


 けれど、不思議と悪い気はしなかった。

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