1章 筆運びの向こう側…②
「上手だね」
「……!?」
明日は休日だからと、久々に夜更かしをしながら絵を描いていた。流石にあの頃よりはある程度上達したものの、独学には限界があるのか、結局才能がなかったのか、満足に描けずにちょうど破り捨てようとした瞬間だった。
見たことがない子供が立っていた。くりくりとした瞳が、可愛らしい、小学校中学年くらいの男の子だった。
「……ゆう、れい……」
「幽霊じゃないよ、おれ、ゆうだよ」
「……?」
ゆう、というのはきっと彼の名前だろうか。確かに足元を見たけれどしっかりと二本足で立っているし、影もある。じゃあこの子はなんだ、ベランダも開けていないのにどこから入ってきたのだ。夢かと思い頬をつねるが、痛いだけで目は覚めない。
「ゆう、くんはどこから……きたの」
「ずっといたよ。姉ちゃんのそば」
「……」
そばにいた?ますます幽霊か何かではないか。
「きみは、だれ」
「わすれちゃったの?姉ちゃん」
ひた、とこちらに一歩彼が踏み寄ってくる。すると、まるで走馬灯のように昔のことが蘇ってきた。
『ねえ、赤ちゃんの名前どうするの?』
『男の子だったらゆうと、女の子だったらゆうな……だから今はゆうちゃんってよぼっか?』
『ゆうちゃんだったら、ゆうかとお揃いだね!』
弟がお腹の中にいた頃、たしかそんな名前で呼んでいたのだ。俗にいうマタニティネームというやつだ。
「……ゆう、と?」
「そうだよ、ねえちゃん」
そういうと、彼は満面の笑みを浮かべて、私に抱きついてきた。……その体は、温かかった。
「ねえちゃん、さっきの絵捨てちゃうならおれにちょうだい」
「やだよ、下手くそだもん」
いくら姉になる可能性が一時期あったとはいえ、以降の私はただの一人っ子だ。いきなり目の前に小さな子供が現れても、どう対処したらいいのか分からない。ただ、きっとこの子はあの壺から出てきたのだろう。……騙されていたと思っていたけれど、あれにも効力があったのか。途端にあれを憎んでいた10年間が恥ずかしくなってくる。
「へたじゃないよ。だって姉ちゃんが絵を描くとさ、みんな見にきてたじゃん」
「あれは昔の話。今の私は下手くそだよ」
「うー……」
「私は寝るからさ、あんたは母さんのところにでもいきなよ。きっと母さんよろこぶよ」
彼に一番会いたかったのは、きっと他でもない母だ。ずっとずっと産んであげられなかったことを後悔して、あんな物を買って、毎日毎日祈っていたような人なのだ。
「やーだ。おねえちゃんがいい」
「ねえ、くっつかないでよ!もう」
いくら小さな子供とはいえ、男の子に抱きつかれるのは抵抗がある。兄弟なのだから男女を意識するようなものでもないのだろうけれど、流石に気まずいものは気まずい。そしてきっと向こうはそんなこと知りもしない。
「姉ちゃんはもう寝るから」
「一緒に寝よ?」
「あーもー好きにして」
私が横になると、モゾモゾとゆうとが入ってきた。やっぱり体温があったかくて、なんだか本当に生きているみたいだった。もしかして、私は長い夢でも見ていたのかもしれない。明日から母が壺に祈りを捧げていることなんてなくて、父さんと母さんは昔みたいに仲が良くて、ゆうとは私にべったりで。そんな日々が続いて、あの絵画教室なんて、きっと悪い夢かなにかで。
「ねえ、なんでねえちゃんはおれに対して祈ってくれなかったの?」
あの夥しい模様をした壺から手が伸びてくる。伸びて、伸びて、私の首を絞めつけてくる。
無理やり顔を壺に引き入れられる。中にあったものは
私と、母と、父の、骨だった。
「……っ!」
随分と気持ちの悪い夢だった。背中にジトジトとした汗が張り付いている。目線を落とすと、すやすやとゆうとが寝ていた。
「寝ても、覚めても、夢か…。」
もはや、どれが夢だというのかわからなくなってきた。
最初から、彼が普通に産まれてきてくれれば、私は幸せになれたのだろうか。
昔みたいに母さんが夕食を作ってくれて、家族みんなで食卓を囲むような生活ができたのだろうか。
お前さえ、お前さえ、普通に生きてくれていれば。
「ねえ……ちゃ……」
「……」
手を上げようとした。ここでこんな夢終わらせてしまおうと思った。けれど、そんな風に私のことを呼んで、甘えられたらそんなひどいことできるわけがなかった。私もきっと望んでいたのだ。この甘い夢を。いいや、私がきっと一番望んでいた。
布団からのそり、と起き上がる。彼をベッドに寝かしたまま、私は何事もなかったかのようにいつもの休日を過ごし始めた。
「ねえちゃ!これ!おれ!?」
「そうだよ」
「やった〜!」
一通り家事をこなして、自分の部屋に戻ってくると、お望みのものを描き始めた。なるべく動くなよと思いながら寝ている姿をスケッチしていたのだが、どうやら目が覚めてしまったらしい。まあ、ある程度は描けたからいいか。
「おれねーあの絵がすきなの」
「あの絵?」
「えっとね」
そのまま彼は私の部屋のもう使わなくなった物を入れているケースの中を漁り始めた。小学生の頃に描いた、クレヨン画のスケッチブックを開くと一枚の絵を見せてきた。
「これこれ!」
「……描いた覚え、もうないんだけど」
「そんなぁ。大好きだからどこにしまってたかもちゃんと覚えてたんだよ?」
それは、家族四人が揃った、ものっすごく下手くそな絵だった。
小学生女児が描く絵に特有なキラキラの目、前髪が3本しかなくて、手と足はぬいぐるみのような形をしていて。
「下手じゃん」
「でもねぇ、嬉しかったの。ねえちゃんがおれのこと描いてくれたのが」
「そう……」
「姉ちゃんさ、やっぱり絵描きなよ」
「……」
元はと言えば、お前のせいで描く気をなくしたんだぞ。お前が産まれてこなかったから、母親があんなものにすがるようになったから。
「あんたさ、母さんの元に行かなくていいの」
「……」
「なんで、ずっと私の側から離れないの」
これは夢だ。だから私視点で進む。だからきっと彼は私から離れないのだろうけれど、夢でもいいから母さんが元に戻る瞬間が見たかった。だってあなたはあそこから出てきたんでしょう?
「……違うよ」
「?」
「おれね、ここからでてきたの」
そう言って、今開いている絵を指差した。
「……」
『ここで美術を学べば、あなたもいつか死者に思いを届けられるようになるわ!天国とここを繋ぐには私のようにならないといけないけれど、思いを届けるなら絵画でも……』
「やめてよ!」
「ねえちゃ」
「絵で死んだ人に想いが伝わるわけないでしょ!?死んだ人が蘇るわけじゃないでしょ!?そういうのやめてよ、私はそんなことのために絵を描いてるんじゃないの!私は」
私は……どうして、絵を描くのが、好きなんだっけ。
「絵の中だけでも、幸せになりたかった?」
「……」
「幸せな夢を、絵の中だけでも見ていたかった?」
「……そう、かも……わかんない、けど」
絵を描いている間は、現実のことなんて忘れられたのに。私の友達相手にヒステリックに叫ぶ母親のことも、毎日毎日何もせず拝んでばっかりの母親のことも、きっと愛想を尽かしているけれど私がいるから別れられないであろう父親のことも、全部全部忘れられたのだ。
「……もう、もう、いい加減にしてよ。そんなもののために、私は描いてるんじゃないのにさ」
「ごめんね」
「ほんと、さいあく」
「ごめん」
別にゆうとが悪いわけじゃなかった。悪いわけじゃなかった。ただ、もう私の心は、彼を責めることでしか保てなかった。
「……」
「おれたちは、もう生きてないからさ、もうすぐおしまいなの」
「そう」
「こうやって、帰ってきている間はね、一つだけ願い事を叶えさせてもらえるんだって」
「……」
「ねえちゃんが、もう一度絵に、向き合えますようにって……おれは願うから」
「……なんで」
「おれ、ねえちゃんの絵がすきだから」
「志望校、やっぱりそっちにするんだ」
「うん」
「……大丈夫?誰にも遠慮してない?」
「お父さんあのさ、多分遠慮って言葉は違うと思うんだよ。いろんな人の話を聞いて、影響されちゃっただけ。……まあ、そんなもんなんじゃないかな」
「そっか」
やっぱりあの1日は白昼夢のような物だったらしく、あれから彼が出てくることはなかった。相変わらず、母はよく分からない壺に祈り続けている。どうやら、あの人のもとに彼は現れてくれなかったらしい。
「人を騙すためじゃなく、本当に人に求められる作品を描けるようになるよ」
あの子だって、私を呪うために生まれてこなかったわけじゃないのだ。むしろ、私の呪いを解いてくれた。
だから、やれることまではやってみてもいいんじゃないか。ほんの少しだけ、前を向こうと思った。それだけだ。
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