1章 筆運びの向こう側…①

「母さん、もういい加減にしたら」

「佑香……」

「……はぁ、もういいや。行ってきます」


 毎朝毎朝、母は騙されて買った壺に向かって手を添える。それがきっと死産した弟への謝罪か何かだと考えているようだった。

 優しかった母は、その日からおかしくなってしまった。私が5歳のころ、第2子を妊娠した。性別が男の子だとわかるくらいまで成長したというのに、お腹の中で弟は亡くなっていた。私にとって初めてのお葬式は、弟のものだった。

 母親は以降人の話を全然聞かないようになってしまった。父の話もなにも聞かず、私のこともどうでもいいようだった。ある日、何百万もする壺が帰宅したらリビングに鎮座していた。父が汗水たらして稼いで来てくれていたお金で何をしているのと私が大声で怒ると、母に殴られた。「私の気持ちもわからないくせに!」そうヒステリックに叫ばれた。あなたも私の気持ち全然わからないじゃない、そう言い返したところでこの女はきっと耳に聞き入れない。そうわかっていたから、私はその人にその言葉を浴びせなかった。

 母曰く、あの壺は天国とこの世を結ぶものらしい。そんなものが実在するわけないだろうと言っても娘の言うことよりも、怪しい壺売りの言うことを信じるような人だ。もう何を言っても通用しない。あの壺の中には、弟の骨が入っている。骨を入れて、毎朝毎朝祈ることで、弟に言葉を伝えることができて、いつかは帰ってきてくれると母は思い込んでいる。そんなに帰ってきて欲しいなら、男を妊娠すればいいだろうに。あれから父と母がまともに話している姿もあまり見ていないので、きっともう二人の間に愛情は流れていないのだろう。父はおかしくなってしまった母から逃げるように、仕事漬けになってしまった。けれど、私の授業参観などにはこんな母親を連れて行きたくなかったので、父にだけ教えてきてもらっていた。


「お父さん、今度の三者面談いつがいい?」


 学校から渡された面談の希望日を記入する紙を父に見せる。仕事から帰ってきたばかりで疲れているところ申し訳ないが、親を交えないで進路の話をするわけにいかなかった。レンジで温めた夕飯をテーブルに並べていると、父は水曜日の全時間帯に丸をつけた。


「この日なら休める。これでいいかい?」

「うん。ごめんね」

「いいよ、佑香こそ大変だろ?勉強も家事もやってもらって、ごめんな」

「……やらないで生活させてもらっているようなクズにはなりたくないから」


 そう言うと父親は悲しそうな顔をする、この後に及んでまだ母のことを愛してでもいるのだろうか。


「好きなことしていいんだよ」

「……十分、学校は楽しいし」


 学校はよかった。壺にむかって喋りかけるような奴がいないから。たまにふざけてものと会話している生徒を見かけることはあるけれど、そっちは面白いからまだいい。母は面白いどころか気味が悪い。もういっそ、壺を自分の部屋に持ち込んで一日中引きこもって出てこないでくれとさえ思うのだけれど、なぜかこうやってリビングに置くことにあの女はこだわる。


「高校、どこにするんだい?」

「○○商業」

「……もう少し頭がいいところにもいけるだろ?」

「通える範囲で一番偏差値が高くて、就職率もいいところ」

「……別に、急いで就職しなくたって」

「いいの」


 父には悪いけれど、私はもうあの母親と一緒に暮らすのは限界に近かった。耐えられてあと3年。とっとと独り立ちして、いまだに弟のことから一歩も動けなくなっているような母親のことを見下してやりたかった。あんたには育てられた覚えは一切ないと、吐いて捨てて大人になりたかった。


「絵は、もうやらないの」

「私より上手い人なんて山ほどいるから、食べていけないよ。まだ△△高校に行けって言うの?」

「昔は、行こうと思っていただろ?」


 ああ、思っていた。昔は。昔と言っても中学校に入ったばっかりの頃だが。




 絵を描くことは物心ついた時から好きだった。幼稚園で配られたクレヨンも画用紙も、クラスの誰よりもさきに消費していた。別に上手いとかじゃなかったと思うのだが、絵を描く私の前には自然と人が集まった。「ゆうかちゃん、○○の絵描いて!」そう強請られることもたくさんあった。小学校に上がってからもそれは一緒で、長い休み時間になると、絵を描いている私の周りには人が集まってきた。私は絵がうまいのだと、その頃自分でも思うようになった。イラストレーターになりたい、漫画家になりたい、いや日本画でもいいかな。そんなことばかり考えて、そういう勉強がしたいと思っていた。

 中学に入ってからはもちろん美術部に入った。隣の小学校から進学してきた子達の中にも絵が上手い人は何人かいて、そこで私は自分が所詮井の中の蛙だったことを知った。彼女たちも私の絵を可愛いと褒めてくれるのだが、その瞳がどこか濁っていて、私は少しずつ絵を描くのが嫌になった。

 ある日、あなたはどこで絵を習ったの?と聞かれ。習ったことなんてないよ、と返すと一緒に教室に行かない?と言われた。どうやら見学だけはタダらしく、直接的には言わないけれど、私の絵をバカにしてくる奴らがどんなことをしているのかに興味がなかったわけではないので、教えて欲しいと作り笑いを浮かべて見学に行った。


 町の外れの、レンガのような外装をしたマンション。そこの一階が絵画教室だった。壁には様々な絵が飾られていて、彫刻なども展示されていた。教室の奥に入っていくと、何人か作品を作り上げている人たちがいた。ああ、これが俗に言う美術高校の予備校というやつか、と私は思った。

 ふと、背筋が冷えるような感覚がした。後ろを向いたら……見覚えのあるものがあった。


「どうしたの?」

「あれ?なに?」


 特徴的な模様。おどろおどろしい色の入りかた、ざらざらとした表面。


「ああこれ?あの世とこの世を結んでくださる、入り口なのよ」


 後ろから、ここで教えていると思われる大人に声をかけられた。


「海の力を閉じ込めて、焼いてあげるの。そうすると死んだ人に言葉を伝えられるようになるの。私はこれを作ることが許された唯一の能力者で……」


 こいつが、母親にこれを売り付けたのだ。

 こいつが、私の人生を、めちゃくちゃにしたのだ。


「……そう、なんですね」

「ここで美術を学べば、あなたもいつか死者に思いを届けられるようになるわ!天国とここを繋ぐには私のようにならないといけないけれど、思いを届けるなら絵画でも……」

「遠慮しておきます、うち、貧乏なので」


 そう言って私はあの場所から逃げ出した。


 吐きたかった。泣きたかった。けれど中からは空気しか出てこなくて、涙は目頭が熱くなるばかりで垂れてこなかった。追いかけられないように必死で走った。必死で来た道を戻って、学校に逃げ込んだ。


「ゆうちゃん!?どうしたの」


 ちょうど部活で校庭を走っていた友人に見つかって声をかけられた。尋常じゃない私の様子を見て不安になったのか、彼女は水飲み場まで私の手を引いて連れて行ってくれた。


「同じ部の、子に、連れられて……絵画教室に行ったの」

「うん。昼その話、してたよね」

「……うちの母親をめちゃくちゃにしたやつが、やってる教室だった」

「……もしかして、例の?」


 友人は私の家に足を運んだことがあった。家に招くと、普段部屋にいる母親が出てきて、壺の前で手を合わせるように促してきた。意味が分からなくて硬直している友人に対して、母はヒステリックに「手を合わせなさいよ!」と叫んで、暴れ始めた。二人で手を合わせると満足した様子で部屋に戻って「ゆっくりしてね」と母は笑みを浮かべていた。あれ以来、私は家に友達を呼んだことはない。


「うん……」

「最悪じゃん。ゆうちゃん、大丈夫?」


 明日からが憂鬱で仕方なかった。あんな奴のもとで学んでいる人間と同じ空間にいるのでも嫌だった。彼女たちがあれの話を信じているか内心バカにしているかは定かではないけれど、もう顔すら見たくなかった、それに。


「美術が、そんな汚い世界だと、思いたくなかった」


 正統派の古典美術にしろ、現代アートにしろ、サブカルチャーにしろ。私のなかでそれは感情を表現する手段で、それを人々は自分の感性でジャッジして値をつける世界だと信じていたかった。実力と、まあ人脈という名前の実力の世界。だけれど、中にはその力を利用して人を騙して金を巻き上げているような人もいるのだ。綺麗な世界じゃなかった、美しい世界じゃなかった。それに私は酷く絶望していた。ああ、作品で人をそんな風に騙すなんて、そんなことの片棒なんてぜったいに担いでやりたくなかった。

 私はその後美術部を退部した。今は映像研究部で幽霊部員をしている。けれど、絵への情熱は捨てきれなくて、家で一人で描いては怒りで頭がいっぱいになって破り捨てるを繰り返していた。

 こんなことをして何になる、こんなものを描いて何になる。下手くそが、下手くそが、あんな人を騙して、人の弱みにつけ込んで金を騙し取るようなことをするような奴らにも勝てないのになんで描く、なんでこんなことする。潰してやる、潰してやる、潰してやる。絵を描く私も、あんなことをする奴らも、全部全部全部、つぶれてなくなって仕舞えばいい。



「もう、絵は趣味だけにするの。趣味は趣味、仕事は仕事」

「……そっか」


 そう告げると父は寂しそうな顔をした。きっと自分のことを娘の夢を支えてやることすらできなかった不甲斐ない父とでも思っているのかもしれない。母がああなって以降、父は自分のことを責めるようになってしまった。


「お父さんのせいじゃないよ。もうね、絵を本気で描きたいって思えなくなっただけだから」


 そういうとごめんな、と笑われた。


「夕飯温めてくれてありがとう、おやすみ」

「うん。おやすみ」


 父もきっと、辛いだろうに。そうやって穏やかに私に微笑んでくれる。……この人が父親じゃなかったら、とうの昔に私は折れておかしくなってしまっていたかもしれない。

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