第2話 助けてほしい

 屋敷で使用人として働いている少女、マリーには過去の記憶がない。いつだったかも忘れたが、ネーリスの村の周辺をウロウロしていたところを、今の領主に拾われたのだ。


 領主の男はマリーが記憶喪失だということを知ると、急に嫌らしい顔つきになり、屋敷で働くよう命令してきた。何故そんな顔になったのかマリーにはわからなかったが、領主の考えなど彼女にはどうでも良かった。屋敷に置いてもらえるなら、食事と寝る所は与えてもらえる。マリーに残っている記憶は寒さと空腹の辛さだけだった。


「外にいたのは誰だったんだ?」


 領主は戻ってきたマリーに問いかけた。


「誰かはわかりません。ただ、竪琴を持っていたので吟遊詩人かと思います」


 マリーは簡潔に答えた。


「ほう、今時珍しいな」


 領主は興味を持ったのか、僅かに目を輝かせた。


「……屋敷に招きますか?」


 マリーは少しだけ期待して領主に聞いた。


「そうだな。この村には吟遊詩人はいなかったから、恐らく旅の吟遊詩人だろう。宿に泊まっているだろうから、明日の朝にでも行ってもらおうか」


 領主の答えを聞いて、マリーは体を強ばらせた。今から行ってこい、という指示ではなかった。


「もうすぐ日が暮れるからな。日が暮れたらお楽しみが待っている。外に行かせるわけがないだろう? ん?」


 領主はぎらぎらした目をマリーに向けた。この目をした領主には逆らえない。マリーは震える足取りで領主に近づいて行った。領主はマリーを自身の膝に横向きに座らせると、彼女の髪に鼻を埋め、大きく息を吸った。それだけではなく、左手は腰に回り、右手は太股を撫で回している。


 領主はマリーを働かせるようになってから、彼女の目を見て話をしたことがほとんどない。特に彼女が女性らしく成長してきてからは、全くと言っていいほど目を見なくなった。最初こそ、使用人らしい服装を着させられていたが、いつからかマリーが初めて領主と会った時に着ていた忍び服を仕立て直したものを着るように言われた。


 それから領主の目は常にマリーの胸と腰に向けられている。

 先程の会話の間も同様で、領主はマリーの体しか見ていない。だからマリーは後悔していた。この屋敷で暮らすことを選んでしまったことを。もし自分が記憶喪失でなかったなら、この領主がこのような性癖の持ち主だということを見抜けたのかもしれない。そう思うと悔しくて堪らなくなる。


 ずっと逃げ出したいと思っていた。そんな折、窓の外に見たことのない人達を見つけた。竪琴を持った青年と、マントを羽織った青年だ。吟遊詩人かもしれないと思ったマリーは、藁にもすがる思いで彼らのことを領主に話した。音楽が好きな領主なら、きっと彼らを屋敷に招く。そうなったら私をこの領主から、いや、この村から助け出してくれるかもしれない。


     ★  ★  ★


 翌朝、クレアの包帯を巻き替えたレイトは、宿の従業員から呼び出された。話をしたい、と言っている人物がいるらしく、誰なのか尋ねると、どうやら昨日領主の屋敷で出会った少女のようだった。クレアは昨日の今日で一体何の話をしに来たのか、と怪しんでいたが、レイトはもう一度会ってみたい、と思っていたから、丁度良い、と思っていた。


 少女は宿の受け付けカウンターの所に立っていた。昨日と同じ、肩丸出しの格好なので、とても目立っている。ポニーテールにしていても腰まで届く髪、整った目鼻立ち、おまけにスタイルが良い。宿を利用する客は一度は振り返って見ていく。思わず二度見してしまうほど、彼女は美人だった。


「突然だけど、頼みたいことがある」


 少女は使用人らしからぬ口調で話しかけてきた。クレアはきょとんとしていたが、レイトは無言で彼女を見返した。あれほど目で訴えていた内容を話しにきてくれたのだろうか。


「話って……?」


 レイトは少し声を低くして問いかけた。


「お前は竪琴を演奏するのか?」

「ああ、そんなに上手くはないけどな」


 レイトが答えると少女は黙り込んだ。言いたいことは決まっているのに、迷っているふうだった。


「はあ……、あんた、名前は?」


 レイトが小さく溜め息をついて問いかけると、少女は驚きながらも「マリー」と答えてきた。


「マリー、ちょっとついて来い」


 レイトはマリーの返事を聞かずに彼女の腕を引っ張って外へ連れ出した。


「ちょっ……レイトさん!」


 クレアがぎょっとした声をあげるが、今は無視する。マリーは自分に何が起こっているのかわかっていないようで、されるがままになっている。

 レイトは彼女を宿の反対側の路地裏に連れて行くと、改めて彼女に向き直った。


「…………」


 マリーは警戒心剥き出しの目を向けてくる。


「……ここなら、誰にも聞かれないぜ」

「っ………!」


 レイトの言葉にマリーは目を見開いた。言葉だけ聞けば怪しいことこの上ないのだが、言いたいことがある彼女なら、これで気づいてくれるだろう。


「…………」


 だが、マリーは俯いてまた黙り込んでしまった。両手をぎゅっと握り締めている。

 レイトは何も言わず、彼女が喋り出すのを待った。マリーの背後にいるクレアは、はらはらした様子で見守っている。


「…………私を……」


 そうやってどれくらいの時間が流れただろうか。ようやくマリーは俯いたまま、呟くように口を開いた。


「……私を……助けて……ほしい……」


 マリーは絞り出すような声で答えた。


「……それが、本心なんだな?」


 レイトはほっとしたような気分になって聞いた。やっと聞けた。彼女の強く訴える目の理由をやっと聞くことができた。初対面の人間にあそこまでの目を向けるのだ。尋常ではない何かがあるのだろう。


「うん……」


 マリーはまだ俯いたままだったが、はっきりと頷いた。

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