第8話 雪平
目開ければ見慣れない男の顔が間近にあった。
誰だこいつ。
初季は視界から男の顔を消そうと手で思いっ切り振り払った。
ばしっと鈍い音が立つ。叩いた手も地味に痛い。
「……何をする」
夢じゃないのか……。
「んっ……」
ゆっくり身体を起こしてしょぼしょぼする目元を擦った。
「眠い……」
「眠いのか?」
その言葉に小さく頷く。頷いてから思った。
誰だこいつ。ここどこだ。
黒色の袍を纏い扇を弄んでいる。
初季は流鏑馬に出た時の恰好のまま布団に寝かされていた。頭が痛いのは髪を結い上げたまま眠ったせいだろう。
少し乱れた髪が顔に流れる。
「まだ寝ているか?」
だいぶ時間は経っているが、と男は言った。
「今はどれぐらいですか?」
「戌の刻だな」
「あぁ、戌の刻ね……え?」
ん? 私、今まで寝てた? どうして?
昼間は流鏑馬に出て、それで暴れ馬を止めて、バカでかい犬が現れて……。
初季は順を追って頭の中を整理しようと思考を巡らす。
「犬!犬は? 私の他にも倒れていた人がいて!」
「落ち着け」
何故かは分からないが、犬が姿を消し、安心して初季は気を失ったのだ。
自分は地面に倒れ込み、青い空を仰いだのは覚えている。しかしそれ以降の記憶はない。
「あの死相が出た、今にもあっち側から迎えが来そうな生ける屍みたいな人!」
「……」
扇を弄ぶ手が止まり、片眉がつり上がる。
「まさか、得体の知らない物を見た精神的な衝撃でぽっくり……」
あり得る。
初季はがっくりと肩を落とした。
「馬から降りた時は生きてたのに」
なんてこった。死にそうな人間を死の淵へと突き落としてしまったらしい。
赤の他人であっても最後を看取るのがこんなにも気分の悪いものだとは思わなかった。
いや、看取ったのは私だけど、私のせいじゃない。
助けようと思ったのに、結局助けてあげられなかったなんて……。
「……私だ」
今にも泣き出しそうな初季を見ながら男が口を開いた。
「へ?」
初季が首を傾げると男は眉間に深くしわを寄せる。
「死相の出た、今にもあちら側から迎えが来そうな生ける屍のような男は私だと言っている」
「……」
不機嫌そうな表情の男の顔をまじまじと見つめる。
凛々しい眉、切れ長の目、すっと通った鼻梁、形の良い唇には赤みがあり、肌も白いが健康的で病人とは程遠い。
「えー?」
「何が、えー? だ」
にわかに信じ難い。
首を傾げる初季に男が眉を顰める。
「だって……こんな美丈夫だったかな?」
「っ……」
初季の言葉に男は息を詰まらせる。
端整な顔立ちに優雅な仕草、纏う空気にさえ品があるように思う。
確かに顔色や目のクマにばかり目が行ってしまい、顔をまじまじと見たわけではないのだが。
「元が酷過ぎて別人にしか見えない」
「元がこれだ!」
初季は無意識に男を褒め上げて一気に突き落とした。
「そうですか。まぁ、良かったですね。死相が消えて」
「……」
にこにこと笑みを浮かべる初季に男は何も言えなくなってしまった。
「失礼致します」
聞き馴染んだ声が御簾の向こうから聞こえてくる。
「和泉か、入れ」
失礼致します、と御簾をくぐり入って来たのは兄である和泉だ。
「今、目を覚ましたところだ」
男と視線を交え、小さく頷いた和泉が初季の側に寄る。
「気分はどうだ? 辛くはないか?」
「平気だよ。それよりも、迷惑かけてごめん」
「気にするな。元はお前を巻き込んだ俺が悪いんだ」
申し訳なさそうにする和泉に初季は無言で首を横に振る。
そんな事言ったら、贈られた文を読みもせずに放置した私が悪いのでこれ以上は言わないでおく。
「ねぇ、兄上。私と一緒に倒れていた人がいるはずなんだけど、どこにいるか知らない?」
「まだ言うか」
「いや、だって信じられなくて」
信じられないと言う初季に男は不機嫌に唇を一文字に結ぶ。
「何故信じない」
「だって元が酷く……」
「元がこれだと言っているだろう!」
「だってまるで別人」
二人の会話を聞きながら和泉は唇をわなわなと震わせた。
主に初季に対してだ。
恐らく、初季は目の前にいる男が死相の出ていた男と同一人物であることは勿論、兵部卿の宮、つまりは親王であるということも分かっていない。
親王だと知っていてこんな口の利き方ができるようなら、初季はかなりの大物だ。
「こら、口の利き方を改めろ。この方は兵部卿の宮、雪平様だぞ」
和泉の諌める言葉に初季は耳を疑った。
「は? 兵部卿の宮? この人が?」
初季の言葉に和泉にしては珍しく、重々しい雰囲気を出して頷いた。
「嘘でしょ」
「今の宮様と元の宮様の区別がつかないのは無理もないが」
「重ねて言うが元がこの顔だ」
強調して言うので弄るのはこれくらいにしておく。
「普通は看ていてくれた人間が知らない者であれば名前ぐらいは聞くものだろう」
雪平は呆れ顔で息をつく。
「もう二度と会わないだろうからいいかなって。お礼だけ言って帰るつもりでした」
「正直に言い過ぎだ。言うならもっと遠まわしにしろ」
「……はぁ」
繰り広げられる兄弟の会話に雪平は肩が外れそうなほど脱力した。
「改めまして、宮様」
布団から出て姿勢を正した初季を見て雪平は目を丸くした。
「千家雅近が第三子、千歳と申します。知らなかったとはいえ、宮様に働いた無礼の数々、どうかお許し下さい」
居住まいを正し、深々と頭を下げる。
「宮様、私からもお願い申し上げます。弟の無礼をお許し下さい」
和泉も一緒に頭を下げる。
その様子を見た雪平はおかしな事にとても戸惑う。
「……どうしたんだ、急に。不気味な」
親王に対してこの振る舞いが普通だ。しかし、雪平はこの短い時間で二人の恭しい態度が不気味だと思う程度には二人に毒されていた。
何か良くない事が起こりそうな気がするのは何故だ……?
「よい、頭を上げろ。普通で良い」
二人に頭を下げられるのは居心地が悪い、そう思った。
「よし、来た」
「こんなに深く頭下げたの久し振りだったな」
肩が凝ったと言わんばかりに首やら肩を回す二人を見て、もう少しひれ伏せさせておけば良かったと後悔した。
「ところで兵部卿の宮、もう話の方は?」
和泉は改まって雪平に向き直る。
「話?」
現れた巨大犬の話だろうか、と考えていると雪平が口を開く。
「千歳、そなたに頼みがある」
「お断りします」
「せめて話聞けよ」
内容の聞かずに言い放った初季を和泉は窘められる。
「嫌な予感しかしない」
内容は全く分からないし、想像もできないが決して楽しいことではない。
きっと私にとって都合の悪い話だ。
初季は警戒するように雪平の言葉を待った。
「そなたに私を護って欲しい」
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