第7話 化け犬

空気が重い。


 何かが肌を刺しているかのようにびりびりとする。

 流鏑馬を終えて安心したのも束の間、先程から嫌な気配がする。


 初季は背後に歓声と人の視線を無視して御殿とその庭を見渡す。


 御殿では御簾の中から帝を始めとする皇太子や親王、内親王、女御達が庭で行われた流鏑馬を見物している。御殿から少し離れた場所にはずらりと車が置かれ、物見戸から宴を見物している。身分の高い公達ほど御殿に近い場所に車を置くことができ、遠いほど身分が低い者が乗る車であることが分かる。


「いない……」


 以前この大内裏を訪れた時はどこにでもいた霊魂が見当たらない。流鏑馬が始まったばかりは無数の霊魂が浮遊していたのだが、姿が視えない。異常だ。



この場だけ綺麗に一掃された……とは違う気がする。何だろう……。


「逃げた……?」


 何かに怯えて逃げ出したかのような、そんな感じがする。

 結い上げた首元に氷のように冷たい風が吹き抜けた。背筋がぞくりと凍りつくような感覚を覚える。


 近くに何かがいる。それもかなり大きい何かだ。


 初季は視線を巡らせてその何かを探した。


 呼び出し係りの声が遠くに聞こえた。最後の馬が走り出し、その馬に視線が集まる。


 初季も最後の馬に視線を向け、目を剥いた。


 白い葦毛の馬に跨りこちらへ向かってくる男の背後に黒い塊が視える。

 そして男が弓を構えたかと思うと馬が暴れ出した。構えた弓矢が地面に投げ出され、辺りは騒然となる。


「おいっ!馬がっ!」

「誰かっ!お助けしろ!」


 あちこちから悲鳴のような声が上がり、帝や他の親王達も何事かと御簾から飛び出す。


 馬が背に乗る男を振り落とそうと身体を激しく動かしている。近づこうとすれば後ろ足で蹴られてただでは済まないと思われた。それゆえ助けようにも近寄るのもためらう。


「うわっ」


 男は辛うじて馬に捕まっているがそれも時間の問題だ。振り落とされ、そのまま踏まれたり蹴られたりすれば命が危ない。


 馬は聡い。動物は人よりも気配に敏感なのだ。


 初季が今いる場所には走り終えた騎手と馬達が集まっているが、どの馬を見ても落ち着きがなく、何かを警戒しているかのように思える。


 おそらくあの馬は男ではなく、男が背負っている黒い塊を振り落としたいのだ。

 この距離でも禍々しい気配を感じ取れるのだから感覚の鋭い馬は邪気の塊を背負っているような感覚だろう。


 とりあえず、馬をなだめなければ馬から降りたくとも降りられない。


「静馬」


 初季は一度は降りた愛馬に再び跨る。


「頼むよ。お前しか頼れない」


 初季は手綱を握り締め、強く引っ張る。


「ヒヒィィィィン」


 静馬の鳴き声に驚いた人達が初季から離れて、道ができる。


「行くよ」


 それに応えるように静馬は鼻を鳴らし、暴れ馬を目がけて走り出す。

 馬が地を蹴り砂埃が立ち込める。


 初季はぎりぎりの所まで近づく。


 暴れ馬はしきりに後ろ肢を高く蹴り上げて男を振り落とそうとしている。

 馬に跨った男は馬の鬣と鞍に捕まり、辛うじて体勢を保っているがいつ振り落とされてもおかしくない状況だ。


「落ち着いて!」


 暴れ馬の横に並び、意識を静馬に向けさせる。耳をクルクル動かして定まらなかった暴れ馬の瞳が静馬に向けられた。


「大丈夫。落ち着いて」


 暴れ馬は大きく荒い息を吐き、肢を蹴り上げるのを止め、落ち着きを見せ始めた。


「良い子」


 じっとこちらを見る馬に触れる。


 よし、こっちは大丈夫だ。


 馬に跨ったままぐったりと突っ伏している男を馬から降ろそうと、地面に降り立つ。


「大丈夫ですか?」

「うっ……」


 初季が声をかけると呻き声が返ってくる。


「降りれますか?」

「あぁ……」


 ゆっくりと顔を上げた男の顔は青白く、精気を根こそぎ奪われたかのように見えた。


 死人みたいだ。


 男が背中に背負っている黒い塊が蠢く。火傷をした時のように肌がじりじりする。


 こんな物がくっついていれば死相も出るはずだ。むしろ今までよく生きてたなと感心する。

 馬から降りようとする男に手を伸ばす。男が初季の手を取り、力なくそのまま馬からずり落ちてしまう。


「げっ」


 男の重さに耐えきれずに初季は後ろに倒れ込んだ。


「いった~」


 思いっ切り尻餅を着いた。

 初季の胸に倒れ込んだ男はぐったりとして動かない。


「ちょっと、大丈夫ですか?」


 え。嘘でしょ? 死んだ?


 声をかけても反応がない。

 初季は身体を起こして試しにぺちぺちと頬を叩く。すると整った眉が僅かに動いた。


「あ、生きてた」


 背中に張り付いていた黒い塊がいなくなっている。

 良かったと安堵したがそれも束の間だった。


「キイィィィィィィ」


獣の鳴き声のような音が辺りに轟く。周囲が雲がかかったかのように暗くなり、地面が震え、強い風が吹き抜け木々を大きく揺らす。つんざくような音にとっさに耳を塞いだ。


「うわあぁぁぁぁ」


突風が止むとあちこちから悲鳴のような叫び声が聞こえてくる。

ざわつき方が馬が暴れた時の比ではない。


恐怖に怯えたような声だ。


「何?」


 一体何が起こっているのか分からなかったが、初季は目の前にいる物を見て言葉を失う。


 そこにいたのは黒く禍々しい気を放った犬だった。


 叫びたくもなる。


 大きさが異常なのだ。桜の樹と同じぐらいの高さがある巨大犬である。

 そしてその巨大犬の足元に初季と男は転がっているのだ。


 ヤバい。このままだと踏まれる!


「起きて!マズイから起きて!」


 誰かが遠くから石や弓を投げるがそのまま通り抜けていく。投げられた石が地面に転がり、放たれた矢は初季の手元の地面に突き刺さった。


 危ないな! 私の手を射抜く気か!


 それを見た人達は絶句した。何しろ物理攻撃が効かないのだ。効果がないと理解していても矢の雨は止まない。


 犬の身体を通り抜けた矢が次々と地面に刺さる。


 初季は男を守るようにぎゅっと抱きしめ、身体を小さくした。

 いよいよヤバい。


 これは普通の人間では敵わない。


 お父様は?


 陰陽師である父なら何とかしてくれる、そう思った。


 今は都にいないんだったあぁぁ!


 父である雅近は田舎で病気療養中の友を見舞いに行っているため、ここにはいない。


 いないからこそ初季は男装をして流鏑馬に出場できたのだ。雅近がいたら流石に無理だった。


 なんてこった。歴代随一の陰陽師がいない時に限ってこんな珍事が起こるなんて。


「グルルルル」


 獣の唸り声が間近に聞こえ、気付くと目と鼻の犬の爪が迫っていた。

 しかし、犬の爪は空に向かって遠ざかり、距離が開いて行く。


「え……」


 どこまで遠ざかるのかと見上げていると、動きが止まる。犬の前肢が初季達の真上にある。


 ぎゃあぁぁぁ!


 離れて行った前脚が物凄い速さで近づいてくる。


 潰される!


 しかし対抗する手段がないのに加えて、生きる屍のような人間にのしかかられて動けない。


「来るな! 馬鹿!」


 地面に刺さった矢を引き抜き、無駄だと分かっていながらも犬に向かって投げつけた。


 目をぎゅっと瞑り、男と自分を庇うように小さく丸まる。


 もう駄目。終わった。


 こんなに早く人生の終止符を打つ羽目になるとは思いもしなかった。


「ギィィィィィィィ」


 獣の呻き声がひときわ大きく響き渡る。

 踏むなら早く踏んで欲しい。死ぬ時は一瞬がいい。恐怖に怯える時間も一瞬がいい。


 いや、むしろ既にあの世に来てるんじゃないか……?


 おそるおそる目を開けて様子を覗った。


 目の前にはやはり犬がいた。まだ黄泉の国ではないらしい。

 そんな風に思っていると犬の様子がおかしい事に気付いた。


 初季の投げつけた矢が白い輝きを放っている。そして次の瞬間、矢に触れた犬の前肢が消し飛んだ。


 犬はもがき苦しみ、怯えるように後退する。


「ギィィィィィィィィ」


 犬が耳の裂けるような声で泣くと地面が震え、木々が波打つような強風が吹きつけた。大きく揺れた桜の樹から落ちた花弁が桃色の雨のようだ。


 あまりの強風に目を瞑り、風が収まるのを待つ。


 風が止み、目を開けた時には既に巨大な犬の姿はどこにもなかった。


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