第6話 嫌な予感
「あれはそなたの弟か、和泉」
初季が弓を構えた頃、和泉は背中越しに声をかけられた。
声は聞き馴染んだ人物のもので、何故ここにいるのかと、和泉は狼狽えた。
狼狽えたのは和泉だけでなく、他の者達も馬に跨る人物を見て不安な表情を浮かべている。
「えぇ、そうですが……。もしや参加なさるおつもりですか?」
和泉は馬に跨る人物を仰ぎ見る。
精気のない青白い顔、目の下に薄らと見えるクマ、手綱を握るのさえ危なげで今にも落馬するんじゃないかと周囲を心配させている。
「兵部卿の宮……」
死にかけの病人のような顔色をした人物は薄らと笑みを浮かべ、大丈夫だと周囲に告げた。
こちらもいつ落馬しても大丈夫なように手配しておかなければならない。
「参加は前から決まっていたのだ。今日はいつもより気分も良い」
いつもより……? その状態で……?
周囲から心の声が聞こえてくるようだ。
「医者から参加を止められていたでしょう。寝ていて下さい」
「良いではないか。この宴は私の快気祝いも兼ねているのだから」
いや、あんた全然快気できてねぇから。
ここ数年、兵部卿の宮である雪平は体調を崩して床に伏していることが多かった。
容姿端麗、頭脳明晰、文武両道で雪平を東宮にと推す声も多かったが病気がちになったのを理由に東宮の座からは遠のき、今では無理のない範囲で兵部卿の仕事をしている。
しかし頻繁に体調を崩し、今のように死相の出た顔で公務に出ようとするので周囲に止められてしまい、まともに仕事ができていなかった。
そんな雪平は新年の舞が行われた以来、体調が良い日が続き、みるみるうちに回復していった。帝を始め、皆が喜んでいたのだが再び床に臥す生活に戻ってしまった。
この宴も本当は雪平が回復したことを知らしめるために催す予定で、流鏑馬の出場は快気を示すのに調度良かった。
「その様子では落馬しかねません。どうかお止めになって下さい」
快気を祝う宴が葬儀になりかねない。
「お前の弟、良い腕をしているな」
こんな会話をしながらも和泉は初季を視線で追っている。
調度最後の的に矢が突き刺さるところだ。
「凄いな。師は誰だ?」
最後の的を射抜くと今日一番の歓声が沸き起こる。これで賭けには買った。
しかし安心してもいられない。すぐに初季の元へと駆けつけたいがそういう訳にはいかなくなってしまった。
この男を馬から降ろさなければ心配で初季の元へは行けない。
既に走り終えた者達が向こう側に集まっているのが遠目でも分かる。
何も問題が起こっていない事を切に願う。
「最初は私が。ですが、教え方が分かりにくいと言われて別の師に丸投げしました」
「別の師?」
「私の父です」
「なるほど。雅近殿も弓の名手だったな」
「私は父に似ていませんがあいつは顔から才能まで生き写しのように似ているといわれていますから」
もともと好奇心旺盛で活発な質だった初季だが身体がそれほど丈夫ではなかた。床に伏していることも多く、高い熱を頻繁に出しては医者を呼んだ。その度に死んでしまうのではないかとみんなが心配をしたものだ。
日の当たらない部屋に閉じ籠っていては身体に悪いからと散歩に連れ出したりするのは和泉の役目だった。
ある日、和泉がとある公達の宴の余興で弓を披露することになった。恥をかくまいと邸で練習していると、初季が自分もやりたいと言い出した。母も女房達も最初は反対していた。身体を動かすのは初季にとっても良いことだし、集中力を養うのにも調度良いからと説得して弓矢を始めた。
父親である千家雅近は歴代随一と呼ばれる陰陽師であり、弓の名手でもある。父親の顔と才能を多く受け継いだ初季は弓の才もしっかりと遺伝していた。
持ち前の才能と好きな事にはのめり込む性格が合わさり、みるみるうちに上達していった。和泉より上達した後は父親に指導を丸投げした。女が弓矢などと小言を言われるかとも思ったが自分によく似た娘は可愛いらしくあっさりと承諾してくれた。
男親が娘に甘いというのは本当のようである。
「親子で素晴らしい腕と才だ。もちろんそなたもな」
「ありがとうございます。まぁ、弓矢ではあいつには敵いません」
「ということは」
「貴方も敵いません」
「厳しいな」
例え雪平の方が優れていたとしても、この絶不調ではノリノリの初季に敵うはずがないのだ。
「それにしても目立ち過ぎだ……釘刺しておくべきだったか」
未だに鳴りやまぬ歓声に和泉は不安になった。
「全て的に当てるとは。これでは私が目立てぬ」
ここからでは分からないが全矢が的の中心に近い場所へ当たっているはずだ。
「目立とうなんて思わないで下さい。むしろ、的を無視して走るだけでも十分です」
この状態では疾走するのですら危険だ。本音を言うと俺が先導して馬を歩かせるのが一番安全なのだが。
「ふむ、先程から馬に落ち着きがないのだが」
「主の不調を感じ取っているんですよ、動物は鋭いそうですから」
雪平の言う通り、馬が落ち着きなく頭を振ったり時折、大きく揺れ動く。
「馬を変えましょう」
和泉はそう言って馬の準備をしようとした。
「いや、平気だ。時間もない」
「しかし……」
「次っ! ひ……兵部卿の宮、雪平様!」
二人が会話をしているうちに的の準備が整い、呼び出し係の裏返った声が響く。
兵部卿の名にざわめきが起こる。
「大丈夫だ。心配するな」
「裏から回ります」
御殿の裏手から回り、走り終えた雪平を回収すれば良い。落馬した時の事も考えてこちら側からも向こう側からも助けられるようにしなければ。
「和泉、向こう側には文久殿が鬼の形相で構えている。心配するな」
同僚の武官から声をかけられ和泉は肩の力を抜いた。
なら大丈夫だな。
何かあったらこちら側からは自分が駆けつければ良い、そう思いながら周りに落馬に備えて指示を出す。傍に池があるので池に落ちた場合の対処も然りだ。
「何もなければいいが」
祈るような気持で駈け出す雪平の背中を見つめた。
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