第3話 死相の出た男

 がたっと几帳がわずかに揺れる。

 見上げるように視線を恐る恐る動かす。


「そなたは……」


 初季はそこに立っていた人物に目を奪われ、思わず凝視してしまった。



 青白く精気のない顔、こけた頬、目の下に彫り込まれたかのようなクマ、今にも倒れそうな病人だ。その背中にのしかかるように張り付いた黒い塊がとても重たそうである。


 基本的に霊魂は白く見えるのだが、怨念が強すぎたり穢れを持っているものは黒く見える。


 背中にのしかかり、この男の精気を奪っている。

 そんな光景を目の当たりにして初季は目を剥いた。


「すまない……驚かせたか」


 そりゃ、驚くわ。


 こんな墓場から来ました、みたいな人間がいきなり現れたら誰でも驚く。


「だ、大丈夫ですか……?」


 今にも倒れそうな男に初季は訊ねる。


 男は黒い袍を身に纏い、冠むりを被っている。黒色の袍は高官しか身に着けることが許されないものだ。宴に参加していたどこかの公達だろう。


 邸で寝てろ。


「あぁ、気分が優れなくてな」


 こんな禍々しい物を背負ってれば気分も悪くなるだろう。


「今日はいつもより調子が良かったのだが」


 いつもより……? これで……?


 普段はもっと気分が悪いということだろうか。こんな状態がこれ以上続けばこの人死ぬんじゃないかと思う。


 まじまじと男の顔を見つめる。


 これが死相ってやつか……。


「そんなに見つめないでくれないか。勘違いしてしまう」


 貴公子さながらの笑みを口元に浮かべて男は言った。


 やばい……虫の息だ。


 青白い顔で微笑まれても不気味だ。


 こんな死にかけの男に万が一もないだろう。


 警戒心を解き、几帳の陰から身を乗り出す。


「あの、少し横になって下さい」


 初季は立ち上がり自分が座っていた畳の上を勧めた。


「いや、遠慮しておく。他の部屋を探す」


 声からも疲労が滲み出ている。


「でも……」


 貴方、死にますよ、多分。などと言うわけにもいかない。

 初季の疲労など可愛いものだ。


 私が宴に出ればこの部屋は空くのだから使えば良い、そう思った。宴に出るのが少々早まるだけだ。


 そう提案しようとした時、複数の足音が廂を移動しているのに気付く。歩くのが早いので裾を引きながら歩く女房達ではない。


「おい、どの部屋だ?」

「この辺りにいるのは確かなんだが」


 足音と共に潜むような声の会話が近づいてくる。誰かを探しているようだ。


「転んで怪我おしたから動けないらしいぞ」

「こんな美味しい機会ないな」


 その言葉が初季の背筋を凍てつかせた。


 男達が探しているのは自分だ。しかも、その目的は楽しいものではない。

 次第に迫る足音に身体が震え、凍りついたように動けなくなる。恐怖で心臓がバクバクと跳ねる。


 どうしよう……!


複数の足音が下卑た声と共に部屋のすぐそこまで来ていた。


「邪魔するぞ」


 青白い顔をした男が几帳を越え、初季を引き摺るように几帳の陰に隠した。

 廂から御簾を捲られても几帳があるので初季の姿は見えない。


「っん……」


 抱え込むように腕を回されてそのまま口を塞がれる。


「大丈夫だ」


 耳元でなだめるように囁かれる。耳に触れた息で肩が小さく跳ねた。

 初季は祈るような気持でぎゅっと男の腕を掴む。


 ばさっと乱暴に御簾がめくれ上がる。


「誰だ」


 顔面蒼白でありながら、芯があり通る声で男は言った。


「なっ……」

「なんで……!」


 諌めるような声音に御簾の中に入ってきた男達は狼狽える。


「用がないなら出て行け」


 冷厳な声が室内に響く。冷たい空気で冷えた床が更に冷えたように思えた。


「申し訳ありませんでした……!」


 一人が言うと男達は逃げるように部屋を出て行く。

 一刻も早くこの場から消えたいというように足音は品なくバタバタと遠くなる。


「行ったか」


 足音が聞こえなくなった頃に初季は腕から解放された。

 へなへなと全身から力が抜けていく。


「あ……ありがとうございました」


 助かった……。


 初季は心底安堵し、深々と頭を下げた。


「よい。それよりも人を呼ぶ」


 男はそう言って立ち上がろうとしたがそのままよろけて体勢を崩す。


「だ、大丈夫ですか?」


 初季を抱き留め、体勢を保つ。男の重みがずっしりと初季にかかってくる。


 重い……。


「すまない」


 身体を離そうとするものの、力が入らないようだ。

 先程の威厳ある声音とは打って変わってその声はあまりにも弱弱しい。


 それもこれも、こいつのせいか。


 初季は男の背中にくっつく黒い塊を睨み付ける。黒い塊がにっと不気味に笑ったように見えた。


 あっちに行け。


 初季は埃を払うように男の背中に触れる。すると黒い塊は形を乱して靄のようになり、少しずつ消えていく。何度か繰り返すと黒い靄は完全に消失して男の背から降りた。


「大丈夫ですか?」


 ぽんぽんと子供をあやすように背中に触れる。


「何だか先程より身体が軽い」


 身体がゆっくりと離れる。


「気分の良い」


 傍から見たらとても気分の良さそうな顔ではない。


「さっさと帰って寝た方が良い」


 宴なんかに参加しないで身体を休めるべきだ。



 そろそろ私も行かないとマズいな。


 初季が立ち上がろうとした時、男が動いた。

 男の指が顎にかかり、蒼白な顔が間近に迫る。突然のことで初季の動きは思考回路ごと停止した。


「私に何をした?」


 息がかかりそうなほど近くに顔があり、一瞬、息を詰まらせる。


「……何も」


 お前の背中に乗っていた黒い塊を追い払ったんだよ、とは言えない。


 他人には見えない物の説明をしても理解されないのは経験済みだ。

 頭がおかしい、気味が悪いと後ろ指を指されることになるので無駄なことはしない。


「そうか」


 顎にかかった指が離れ、二人の距離が開く。

 身体が離れても男の視線が注がれたまま離れない。居心地が悪く、初季は床の一点を見つめていた。


「誰かに届けさせるつもりだったのだが、調度良い」


 口を開いた男がすっと何かを差し出す。


「あ」


 目の前に差し出されたのは初季が転んだ際、置き去りにした扇だった。


「女がやたらと男に顔を見せるな」


 勝手に入ってきて何言ってんだコイツ。


 そのおかげで助かったので何も言わないでおくのが利口だ。

 貴族の女は気安く男に顔を見せてはならないのが常識だ。しかし、五節の舞で一時とはいえ、舞姫は顔を晒したのだ。宴に参加している者にはもう面が割れているのだからあまり意味もない。


「ありがとうございます」


 初季が扇を受け取ると男は背を向けて廂の方へ足を踏みだした。


「冬姫」

「?」

「美しい舞だっだ」


 その一言を去り際に残して出て行った。


「美しい……? あれが?」


 私の舞が美しく見えたのなら末期だ。憑き物は落ちても死相は消えないな、きっと。

 そんな風に思いながらほどなくしてやって来た女房達に連れられて宴に向かった。


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