第10話
次の日の朝、アーノルドはメイドが起こしに来る前に目が覚めた。
そしてメイドを呼ぶベルを鳴らし身支度の用意を頼む。
まずは一杯の水を飲み、その後入浴をし、服を着替えた後に書斎へと向かう。
アーノルドが書斎のイスに座ってすぐ扉をノックする音が聞こえてくる。
「入れ」
アーノルドがそう言うとガチャっと扉が開かれた。
「失礼いたします」
執事長のクレマンが書類を持って入ってきた。
「おはようございます、アーノルド様。本日のご予定のご確認に参りました」
「この後朝食を摂ったあとに予定通りこの屋敷を見て回る。午後からはこの公爵家の敷地内を見て回ろうかと思っている。馬車を用意できるか? それと今日中に見なければならない書類はあるか?」
「は、かしこまりました。本日早急に片付けなければならない書類はございません。緊急性の高いものと低いものを整理して分けさせていただきます」
「ああ頼んだ」
そしてその後、母親であるメイローズと朝食を食べた。
(昨日の私が食べたものと同じくらいにはなっているか? 料理長もあっち側だと思っていたが、少し様子見だな)
食事が終わり、一息吐いてからアーノルドはメイローズに話しかけた。
「母上は本日はどのように過ごす予定ですか?」
「そうね。まずはこの離れの管理の引き継ぎをして午後からは東屋でティータイムをしながら本でも読もうかしら」
昨日の気落ちした感じとは違っておっとりとした感じで話していた。
それからいくつかの雑談をし、アーノルドが意を決したように表情を真剣なものに変え、姿勢を正すとそれに気付いたのかメイローズもまたアーノルドへと視線を向けた。
「母上、一つお願いがございます。今この屋敷の資金の管理は金庫番が実質管理しておりますが、何か不審な点があれば一度見逃しこちらに話を持ってきていただけないでしょうか」
本来屋敷の管理は女主人の仕事である。
したがって何かあれば責任を持つのは女主人ということになる。
つまりこの申し出は自身の仕事を放棄し、ミスをしろと言っているに等しい。
「それは私に失点を認めろということでしょうか?その意味を重々承知しているので?」
昨日のしおらしい様子とは違いある種の圧を感じさせる言葉であった。
「重々承知しております」
公爵夫人ともあろうものが他者に弱みを見せる。だが、その意味はアーノルドが考えるほど甘いものではないのである。
しかし此度の後継者争いにおいて母親達にも当然ながらそれなりの役割とルールが与えられている。
「それでその対価に私に何をしてくれるのかしら?」
「屋敷内での安寧を」
アーノルドがそう言うと刹那の間、食堂に沈黙が落ちた。
「ハァ〜、ダメね」
メイローズがため息を吐きながらそう言うとアーノルドの顔が強張った。
そしてメイローズが先ほどまでのおっとりとした口調など嘘であったかのように鋭い口調で口にする。
「私はそんなものは求めていないわ」
「では、何をお求めですか⁈」
アーノルドは僅かばかり焦りを浮かべながらそう尋ねた。
だが、その行動に対してまたしてもメイローズの視線がより険しくなる。
「それは最もやってはいけないことよ。交渉相手に何が欲しいか尋ねるなんて自分は切羽詰まってます。何でも差し上げます。と言っているようなものよ。足元を見られるわよ」
穏やかな声色なのだが、見えないような圧で抑えられているようにアーノルドの頭が下がっていく。
「す、すいませんでした」
「まぁいいわ。色々気を使ってもらったみたいだし、子どもの初めての頼みだもの。今は貸し1つってことで許してあげるわ」
メイローズは食事の終わったお皿を見ながらそう言った。
しかし、一見妥協しているような物言いだがその実、貸し1つとしか明言しておらず、いわば何でも命令権を手に入れたのと同じなのである。
この公爵家の公爵夫人ともあろうものが凡人であるはずなどなかったのだ。
そして、この程度のことならば後継者の成長を促すための措置として本来なら何の罰則もないため事実上無傷で最高の対価を手に入れたに等しいのである。
母親の役割など確認しようと思えばいくらでも執事長が教えてくれるため、これに気づけなかったアーノルドのミスである。
しかし昨日と違い公爵夫人としての毅然とした態度を早々に見せたのもメイローズがアーノルドに期待しているからであり、もし期待外れの子であると判断したのであれば自らの子であれ搾取できるだけ搾取し早々に切り捨てたことであろう。
この公爵家の人間であるということはそういうものなのである。
「ありがとうございます。これからもご指導ご鞭撻の程よろしくお願いいたします」
アーノルドは知らず知らずのうちに娼婦ということで自らの母が弱いという偶像を作り出していたことを恥じ、自らの成長のために人に頭を下げることを厭わなかった。
そしてあの問掛けで先入観を捨てろということに気づいていたにも関わらず身についていなかったことから、学ぶことと実際に出来ることが違うということを改めて認識したのである。
「次期公爵ともなろう者が簡単に頭を下げてはなりません。そして私に対しても敬語を使う必要はありません。現状貴方が絶対に敬語を使って接しなければならないのは公爵様のみです」
「……ああ、わかった」
よく出来ました、と言うかのようにメイローズは微笑んだ。
アーノルドは朝食が終わった後、クレマンが屋敷の案内人を連れてくるまで書斎で一人項垂れていた。
(昔の自分と何も変わっていないじゃないか……。主観的にしか物事を見れていない。もっと客観視して物事を見なければ……。普通に考えれば公爵夫人ともあろうものが愚昧なわけがないじゃないか。ということは、あの女も今の姿は仮初の姿ということか? ……簡単に考えていたが迂闊に手を出すべきではなくなったな。母上には感謝しなければなるまい。母上は無条件で味方だとも思っていたが、一度話し合わなければならないな)
アーノルドが心の整理と新たな覚悟を固めていると、書斎の扉がノックされた。
「入れ」
「失礼いたします」
クレマンと1人のメイドが入ってきた。
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