第2話

 木の匂い。風が吹く音。大きな黒板。黒板の日付には「くがつついたち」と書かれていて、日直の欄にはほしかわゆうなと、はづきくるみと書かれている。棚に入った教科書とランドセル。机の上に置かれた筆箱。机の横にかけられた算数セット。それと、給食着が入った給食袋。強い風が吹いてカーテンが揺らぐ。壁に飾られた半紙も風で揺らいでいる。


1ねん3くみ よしだ こう 『あめ』1ねん3くみ きはら こうすけ 『なつ』1ねん3くみ かわしま しゅんたろう 『あめ』1ねん3くみ かわはら けい 『けい』1ねん3くみ みやた けんたろう 『はな』1ねん3くみ いしまる ゆうと 『はる』1ねん3くみ こばやし けんた 『けんた』1ねん3くみ とくだ こうたろう 『なつ』1ねん3くみ やまもと はるき 『はるき』1ねん3くみ ふじい あすか 『あめ』1ねん3くみ しみず よしこ 『はる』1ねん3くみ はづき くるみ 『あめ』1ねん3くみ いずみ くみこ 『はる』1ねん3くみ たにぐち まり 『まり』1ねん3くみ ほしかわ ゆうな 『ほし』1ねん3くみ すずはら ねね 『ねね』1ねん3くみ ふじわら まさこ 『なつ』1ねん3くみ なかむら とうこ 『あめ』


風で今にも吹き飛ばされそうな半紙には見覚えのある名前が並んでいる。


「起きた?」


 声が聞こえた。私のものではない誰かの声。しかし、聞き覚えのある声。可愛らしい、と表しても誰も文句を言わないぐらいに高く、特徴的な声。今日、私に忘れられない言葉を発した声。


「安心して。誘拐とか監禁とか、そんな犯罪じゃないから。ほら、優菜ならここがどこかわかるでしょ?」


 マイクが目の前に置かれてある。それは明らかに一年生の教室の場には不格好で、異質な存在である。


「ネットラジオ?」


「そう、正解。アタシは二日連続のパーソナリティって訳。実は昨日も放送したんだけど、知ってた?」


「うん、聴いてた。この放送は毎日欠かさず聴いているから。流石に胡桃が出てくるなんて思いもしてなかったけどね」


「アタシも驚いてるよ……それはそれとして、聴いてたんだね。アタシの声。どうだった?」


 彼女は顔を斜め傾け、わかりやすく「疑問」の表情を私に投げかけた。長い髪が、ちょっとだけ揺れていた。


「十分良かったと思うよ。困惑せずにしっかりと進めていたし」


「いやいや優菜のおかげだよ。優菜がこのラジオをアタシに教えてくれたおかげで、アタシは進めることができたんだから。感謝してもしきれないよ。ありがとうね」


 彼女は唇を少し上げて、嬉しそうな顔をしながら私の目を見つめた。外は夕方で、オレンジ色の光が教室に差し込んでいる。その光が彼女の顔に当たっていて、ふと彼女のことを綺麗だと思った。現実的では無い、幻想的な光景が目の前に広がっている。ある種のノスタルジックさを感じるような、そんな風景が。


「それで、本題に入っていい?告白の件なんだけど」


 あぁ、そういえば。


 この教室の懐かしさに溺れていてすっかり忘れていた。


「優菜はアタシのこと、どう思ってる?率直に答えてほしい」


 胡桃の印象。


 真っ先に頭に思い浮かんだ言葉は「幼馴染」の三文字。その後「親友」の二文字も続けて浮かび上がる。


 どう思っているかなんて考えたこと無かった。


ただの幼馴染で、ただの親友。一番話やすいし、一番話が盛り上がる。


 マイクに口を寄せて、思いついた言葉を語り始める。


「胡桃のことは大切な幼馴染で親友だと思っているよ。これまでの私の人生に胡桃が欠けていたら、きっとつまらない人生だったんだろうなって思う。面白いし、会話を盛り上げてくれるし、誰にでも優しいし、話していると気持ちいい。私にとっての胡桃は、そんな人」


 この言葉に偽りは無い。


「ありがとう。少なくともアタシに悪い印象を抱いていないって知れただけでも嬉しかったし、いっぱい褒めてくれたからもっと嬉しかったよ」


 黒板の上に設置されているスピーカーから音楽が鳴った。帰宅を促すチャイム。夕焼け小焼け。


「からすといっしょにかえりましょ」と、懐かしい音源が教室中に響き渡る。私も胡桃も目を瞑って音に耳を澄ました。脳の中で懐かしい思い出が溢れ出す。


 胡桃と公園で遊んでいた時、この音楽を聴いて「もう帰ろうか」と手を振って別れた。放課後一緒に教室に残って宿題を進めていた。気がつけばあっという間に時間が過ぎてこの音楽が鳴り始め、帰宅準備を始めた。今の私たちの状況と少し似通っている。夕焼け色に染まった教室はあの時の記憶を思い起こさせる。帰宅途中、ちょっと寄り道したくなっていつもとは別の道を歩いた。川が流れていた。夕日に照らされてオレンジ色に輝いていた。私も胡桃もその川に見惚れていると、音楽が鳴り始めた。急いで帰宅したが、いつもより遅い帰宅時間で怒られた。


「思い出すね、色々と」


「だね。あの頃のアタシたちに戻ってみたいよね」


「どうせ戻っても碌でもない人生歩んで、今と何も変わらなさそうだけどね」


「なかなか厳しいこと言うね」


「でも実際、戻れたとしたら何したい?」


 今日のラジオのお題。少なくとも、ラジオで話す話題についてはピッタリだ。


「私は……胡桃みたいにキャラを作って友達をもっと沢山作るかな」


 相手に素の自分を晒さずに、作られたキャラクターを演じきれたらどれほど素敵なことなんだろう、とたまに夢見る。臆病で人と関わることが嫌いな私を隠して、元気で何も考えてなさそうなフリを演じれたらどれほど素敵なことなんだろう、とたまに夢見る。臆病で人と関わることが嫌いな私を隠して、元気で何も考えてなさそうなフリを演じれたらどれほど素敵なんだろうか。


「胡桃みたいに」


 一人称が『アタシ』に変わったのも中学生になってから。それまでは『私』の、普通の一般的で大人しめの少女だった。読書が好きで、大人しめの少女だった。


「……アタシは逆かな。こんなキャラクター、もう二度と演じたくない。素の自分のまま人と関わりたい。作られた虚像ではなくて、私そのものを見てほしい……そう思う」


 しかし、彼女の顔は暗かった。私の憧れる生き方をしている人の表情は暗かった。


「もうこのキャラクターが自分の精神に定着しちゃった。四年間も演じ切ってたら、逆に素の自分がわからなくなって、戸惑って、私が誰なのかわからなくなって、私が消えちゃって、新しい人格が乗っ取って、それが定着して……」


 彼女が自ら『私』と発したのは何年ぶりか。


「だから……だから、どんな私も受け入れてくれる優菜が好きなの。私もアタシも認めてくれる。唯一私の姿を見せれたから、優菜が、好き」


 涙が入り混じった声で、喉から絞り出すように彼女は、再び私に告白の言葉を投げた。



 人から好かれるのが怖かった。私以外の誰かが私に好意を持つのが怖かった。誰かが私を意識している、それが耐えられない。脳のリソースの一部を私が占めていて、誰かの人生上において私はモブでは無い一人のキャラクターとして登場することになる。背景に紛れているだけの名無しモブは主人公に好意を抱かれることは無いし、誰かの人生で重要な役割を果たすことも無い。でも、名前が付いたキャラクターは誰かの人生に出演し、役割を演じなければならない。『友達』『恋人』『家族』と、名前付きのキャラクターの役割は様々分かれている。その中でも一番重要な役割を果たすのが『恋人』で、私は誰かの恋人になるのが嫌だった。

 まあ、この考えを人に伝えることなんてできないんだけど。


「……リスナーさんからのお便り読もうか」


 重苦しい空気が教室中に充満している。私と胡桃、二人きりの空間で。


 だからこの気まずさから少しでも抜け出すためにラジオを進行した。


「うん、だね……お便りは誰が読む?」


「胡桃でいいよ。昨日も読んでくれたし」


「……ありがとう。それじゃあ一通目から読んでいくね。ええと…『昨日の放送大変良かったです。質問ですが、恋をした時の気持ちってどんな気持ちなんですか?教えていただけると嬉しいです』だって。昨日の放送聴いてくれたリスナーさんだね、ありがとう」


 やっぱりちょっと気まずくて、この気まずさから逃げるために机の下に置いてあるペットボトルを取り、水分を口の中に流し込んだ。喉の調子が少し良くなったような気がした。


「胡桃から先に聞かせてよ。私に告白してきた本人だし、恋の感情は一番知ってるでしょ?」


 意地悪を含ませた言葉を葉月に投げかける。


 単に先に私から話すのが嫌だっただけなんだけど。


「えぇ、私からか……えっと、私が優菜に恋をした時の気持ちを語ればいいの?」


「うん、それでいいよ」


 自分に恋をした人の心情を聞くなんて、私はどう聞けば良いんだ?私を頼る人の気持ちを聞いて、私は何ができるのか?


 わからないけど口には出さず、話の続きを促した。


「恋をした時ってよく『ドキドキした』なんて言われるけど……いやまあ私もドキドキしたけど、私の場合はドキドキって言うよりむしろ……期待感の方が強かったかな」


「というと?」


「将来を一緒に歩みたいなって想いが急に溢れ出したんだよ。ある日突然、急に。堤防が崩壊したって感じで」


 彼女の期待に沿えるだろうか。そんな不安が心を過ぎる。


「優菜と一緒に生きていたい、優菜と一緒に暮らしたい……優菜とデートに行きたいし、キスしたいし、えっちなこともしたい。そんなことを考えていると止まらなくなって……同性だからとか幼馴染だからとか、受け入れ難いのはわかってる。けど、でも、やっぱり私は優菜のことが好きだし、優菜への愛を貫きたいなって」


「……私なんかでいいの?」


「うん、いい。逆に優菜じゃないと駄目。優菜がいるからこそ私がいるんだから」


 なんか、苦手だなと思った。


 それは胡桃に向けてでは無い。胡桃への不満では無い。決して、無い。


 ただ、何か苦手なのだ。私を頼るその姿勢が。まるで一人の人間の人生を背負うようなものだから。私の行動次第で胡桃の人生も変わる。胡桃が私に見せていない一面があるみたいに、私もまた胡桃に見せていない一面がある。その一面があるからと言って胡桃への印象は変わらない。見せていない一面で不満を言ったところで、結局私は胡桃を気に入っているのだから。その一面を抱えたまま胡桃と生きるのは不安でしかない。


 ただそれだけ。


「私は答えたから次は優菜の番ね」


「私の番ね。私は……何を答えたらいいの?胡桃は私への想いを語ってくれたけど。私はそもそも恋の感情が芽生えたことが無いから、話すことが無いと思うんだけど」


「優菜が考える恋愛について、でいいんじゃない?」


「それもまた難しいな……」


 まあ、経験したことの無い事柄を想像と偏見で語るよりかは遥かに簡単か。


「私は……セックスしたいって考えたら恋なんじゃないかなって思ってる。友達と恋人を分け隔てているのはセックスって思ってる」


 私は胡桃を大切に思っている。今私が一番好きな人を挙げろと言われたら真っ先に胡桃が思い浮かぶぐらいには彼女のことが好きだ。だけど、セックスしたいとは思えない。


 彼女とセックスをする様子が思い浮かばない。


 だから、彼女を大切に思うこの気持ちは恋では無い。だから彼女は「大切な親友」のポジションに留まっている。


「単純だね」


「でも実際そうじゃない?胡桃も私とセックスしたいって思ってるでしょ?」


「まあそれはそうだけど……セックスだけの関係はどうなの?」


「いや、私が言いたいのはつまり……愛があった上で尚且つ交じり合いたいって欲望が溢れ出ること。身体だけの関係ってのはなんか違う」


「なるほどね。それじゃあ、優菜はまだ私とセックスはしたくないんだ」


「そう。申し訳ないけど」


「いや、別にいいの。そもそも今は私が一方的に迫っているんだから」


 ふぅ、とため息を吐く。セックスって何回言ったんだろう。


 普段は口に出せない言葉も、何故かこの場なら平気で口に出せる気がした。


「結局、胡桃はどうしたいの?私にどうしてほしいの?」


「優菜に了承してほしい。私と付き合ってほしい」


 真っ直ぐな視線を向けられる。


 その視線が怖くて、目を逸らした。


「……一つ聞きたいんだけど、優菜が私を受け入れない理由って何?」


「それは……」


 言葉に詰まる。なんていうか、思考がまとまらない。誰かに好きでいられるのが怖いから、と頭の中ではある程度言葉になっている。しかし、それを胡桃に話すのが怖い。


「もし私に駄目な点があったら改善するから、なんでも言ってほしい」


「いや、駄目って訳じゃなくて……」


「じゃあ何が理由なの?」


「ただ……怖いの」


「怖い?」


「人に好かれることが」


 言っちゃった。


 もう取り返しがつかないんだ、と心の中で呟いた。


「私って存在を誰かに思われていることが怖い。誰かに私について考えているのが怖い。その人の思考なんて読み取れるわけがないから。その人が私にどんな印象を抱いているのかわからないし」


「……私のことが嫌だったってこと?」


「そういう訳じゃない……胡桃のことはずっと大好き。それは本当……でも、胡桃が私にどんな印象を抱いているのかを知るのが怖い」


「私はずっと好きだよ?優菜のことが大好きだから」


「でも……でも、私って人間には多面性があって、もし胡桃が私の一面しか知らない状態だったらって考えると……」


「何言ってるの?優菜は優菜じゃん」


「優菜って人間の中にも他の人に見せる部分と誰にも見せない部分が存在しているんだよ。その部分を他人に曝け出せないまま、他の人に見せる部分だけ見せて人に愛されるのが怖いってこと……」


「つまり……私と一緒ってこと?」


 頭の中にクエスチョンマークが浮かび上がった。


 と同時に、思考の回転が遅くなる感じがした。もしかしたらずっと話しすぎて脳をフルに回していたのかもしれない。


「だってほら、私も他の人に見せる一面と優菜だけにしか見せない一面があるわけでしょ?本当の私はただの冴えない女の子だけど、人前に出た私は一人称が『アタシ』のイケてる女の子。たまに男子に告白されるけど、男子は『アタシ』しか見ていないから簡単に告白できるの。多分、チョロそうって思われてるから。それと同じ……じゃない?」


「……でも、私は胡桃とは違う。私はキャラを偽ってないし、いつもありのままの私を出してる。でも、そのありのままの私にも他人には見せられない一面があるの」


「なら曝け出したらいいじゃん。誰も怒らないよ、少なくともこの場では……ラジオのリスナーも怒らない。てか、もう聴いてる人も減ってると思うし。おーい、まだ聴いてる人いるー?」


「返事は返ってこないでしょ」


「そりゃそっか……それでそれで、話を戻すけど。優菜は一人の人間なんだから、そのありのままの姿を晒せばいいと思ってるよ」


「言うのは簡単だけどさ、やるのとはまた違うじゃん。それじゃあまずは胡桃が曝け出してよ。胡桃って人間の本性を」


「……うん、いいよ」


 そう言うと、彼女はおもむろに立ち上がり、スカートのホックを外した。あっという間にスカートは地面に流れ落ちて、下着が露わになる。


「いや、そういうことじゃなくて……」


「そういうことなんだよ。私にとっては」


 白色のパンツが嫌でも目に入る。目を逸らそうとしても、何故か視線はパンツに流れてしまう。


「もしかして、私を誘惑させる気?悪いけどその手には乗らないから」


 私は煩悩では無い。そんな、性的に誘惑して私を無理やり好きにさせようとしたって……そんな卑怯な手には、絶対に乗らない。


「いや、だから、これは私のありのままを見せるための行動だから。優菜に言われた通り、これは私自身……胡桃自身を曝け出す行動なの。」


 流れるようにパンツも脱いだ。流石に耐えきれなくなって手で目を覆った。


 幼馴染だから一緒にお風呂に入ったことはあるし、裸を見せ合ったこともある。でも、それでも、いくらなんても、この状況は「幼馴染だから」と言って許せるような状況では無い。


「目を覆わないで。目を開けて、手を退けて、真っ直ぐ私の方を見て」


「嫌だ、見たくない」


 懇願するように言葉を発する。


「お願いだから見てよ。これが本当の私なんだよ?」


「どうして私に見せようとするの。本当の私自身だからって、隠すべきなのに」


「優菜から言ったじゃん。曝け出したらいいのにって。」


「……言った?」


「言ったよ。リスナーのみんなは覚えてるよね?」


「そのリスナーに語りかけるやつ止めてよ。なんか恥ずかしいから」


「なんで?だってまだ私たちの会話を聴いてくれてる貴重なリスナーさんなんだよ。今回の放送なんてラジオとも言えるようなもんじゃ無いのに。それでも聴いてくれているリスナーさんのため、飽きさせないためにもたまには語りかけるのも重要じゃないの?ね、リスナーさん」


 呆れてため息を吐いた。


「あぁごめんごめん、そうだったね。話を元に戻さないと……まあ、うん……優菜が見たくないならそれで構わないよ。私は一人でやっとくから」


 胡桃はその言葉を最後に、言葉を発さなくなった。さっきまで絶えず声で溢れていた教室内が、途端に静かになる。話している時は聞こえなかった風の音が聞こえる。大きな風が窓から教室に入って、半紙を揺らしている。バサバサ、と音を立てて今にも吹き飛ばされそう。でも、紙が吹き飛ばされた音は聞こえない。


 風の音に続いて、声も聞こえ始めた。間違いなく葉月の声。声的にも、状況的にも、間違いなく彼女しかいない。


 だけどその声は言葉というよりも、生物としての本能的な声に近かった。言葉になっていない声であった。


 つまり、喘いでいた。


 彼女は興奮と快楽が混じり合ったような息を吐き出して、喘いでいた。


「はぁ……あぁ……」


 その声が聴きたくなくて、私は耳を塞いだ。目を強く閉じて、耳も塞いで。今は視覚も聴覚も一切働いていないはずなのに、彼女が私の目の前でオナニーをしている様子は容易に想像できた。


 右手で陰部を弄りながら服の中に左手を突っ込んで、乳首を弄る彼女の様子が頭にへばり付いて離れない。耳を塞いでいるはずなのに、喘ぎ声が頭に響き渡って鳴り止まない。


「ねぇ……気持ちいい……気持ちいぃよ……」


 これは私の嫌な想像なのか、それとも現実で起きていることなのか。わからないけどわかりたくもない。


「頭の中が……幸福で溢れてえ……今すぐ絶頂しちゃいそぉ……」


 こんな姿なんて見たくない。性に乱れてる彼女の姿なんて見たくない。


「やめてっ……!もうやめてよっ……!!」


 口から吐き出すようにして叫ぶ。それでも頭に響く喘ぎ声は止まる気配が無い。


 耐えきれなくて目を開けた。俯けていた顔を上げて現実世界の様子を目に入れた。


 オナニーをしたことは私だってある。頻繁にしているわけではない。気が向いた時にふとオナニーをしたくなる瞬間が来る。その衝動が来た時だけ性欲を発散させている……ただそれだけなのであって、決してすけべだとか性に乱れているとか、そういうことは無い。断じて無い。


 彼女は私の方を見ながらオナニーを繰り返していた。腰も背も浮き上がって、右手の人差し指と中指を陰部に挿れたり出したりし、クリトリスを擦り上げて快楽を味わい尽くす。その一連の流れを繰り返していた。


 クリトリスを擦る中指が目に焼き付く。その指遣いが目に焼き付いて離れない。


 きっと、彼女はすけべなんだろうなって思った。私よりも、すけべなんだろうなって。


 ……エロかった。そんな下品な言葉しか頭に浮かんでこない。でも、確かにエロかった。


 ふと、彼女の喘ぎ声に慣れている自分に気がついた。喘ぎ声に耳が慣れて、気分がちょっと高まっていた。


「ゆうながぁっ……こっちぉっ……こっちを見てるよぉっ……」


 私に自分の自慰を見られていることに気がついた胡桃は、「えへへ」と如何にも嬉しそうな顔で口角を上げた。


 脳が嫌だと発してるはずなのに、何故か視線は彼女の陰部へ行ってしまう。陰部から目を離したところで、目に映る景色は彼女の乳首か彼女の今にも絶頂に達しそうな顔しかないのだが。どの景色を切り取っても、彼女の姿が離れることは無い。


「だめえっ……もうっイッちゃいそぉっ……」


 彼女の尻と背中が上がる。快楽を上半身にまで流し込むためなのか、小さいブリッジのような姿勢で陰部に指を入れている。指の速度も次第に上がり始め、ぴちゃぴちゃと水の音も大きくなる。愛液なのかおしっこなのか、ぽたぽたと床に溢れている。見た感じだと粘着性が強そうで、どろっと膝を伝って床に垂れていた。


 私自身もまた、陰部に指を入れたい衝動に駆られた。私も一緒に快楽を味わいたい、とそう思った。右手が少しだけ動いたけど、すぐにその衝動は理性によって抑制された。


「あっ……ああぁ…っ……」


 彼女の全身が震えた。絶頂に達したのだ。オーガニズムが全身に流れ込む。ぴくぴくと震え続けた後、足と頭で支えていた身体は尻から床に落ちた。彼女はまだ興奮が収まらないのか、荒い息を出している。激しい運動を行ったの後のようにはぁ、はぁ、と肺から空気を出し入れしている。愛液の匂いが教室中に広がる。鼻で空気を吸うと、彼女の陰部から分泌された愛液の匂いが入ってきた。何とも言い難い匂いだった。ただ、官能的な匂いであったことは間違いない。匂い自体が官能的なのか、彼女の陰部から分泌されたから官能的なのかはわからない。でも、その匂いが鼻に入った途端、えっちな気分で支配された。彼女に欲情しそうになったのだ。


「……ほらぁ、これが優菜の見たかった私の本性だよ……どう?せっかくだから優菜も晒そうよ、ね?」


「……嫌、こんなの、嫌だ……」


 彼女は満足そうに私を見つめた。その顔はいつもの楽しそうな彼女の顔と何も変わらなかった。私が面白いことを言って笑う時の胡桃。漫画を読んで笑った時の胡桃。テストで良い点数が取れた時の胡桃。褒められた時の胡桃。


 そして、私にオナニーを見せた後の胡桃。


 彼女の別人格でも無い。同じなのだ。何も変わっていない。彼女は彼女のまま。胡桃は胡桃のまま。学校での胡桃も、私に見せる胡桃も、オナニーを見せた後の胡桃も。全部、同一人物。


「だから言ったでしょ、人は誰にでも隠したい一面があるって」



 飛び起きるように目が覚めた。


 目の前には私の勉強机が映っている。


 どうやら椅子に座ったまま寝落ちしていたらしい。


 勉強机の上に乗っている時計に目をやる。四時を指していた。起きるにはまだまだ早いけど、今からベッドに入って眠りにつくにはかなり微妙な時間である。今日が休みだったら昼頃に起きれば良いのだが、当たり前のように今日は学校の日である。七時に起きると考えたら、たった三時間しか寝ることができない。


 しかも、ベッドに入ったところで眠りにつけるのかすらも定かではない。脳は今でも興奮状態で、覚めきれない夢を見ているように精神が漂っている気分が続いている。そんな状態で眠りにつけるのか。


 そもそもさっきまでの夢は、本当に夢なのだろうか。私は小学校の頃の教室にいて、葉月と会話した。シチュエーションだけ見たら間違いなく夢なのだが、夢にしてはリアリティがありすぎる。教室の壁に飾られていた習字の名前も、全部小学一年生の時のクラスメイトの名前だった。何から何まで全部再現度が高かったし、胡桃は明らかに自我を持っていた。これが夢だとしたら、悪夢以外の何物でもない。


「……あっ、そうだ」


 右手で陰部に触れて確かめる。


 濡れていた。

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