『正しいドミノの倒し方』読書感想文

くれは

期待と現実の「ズレ」は自分の中にもある

 本来、ドミノは倒さずに遊ぶものだということを知っている人は少ないと思う。僕もこの本を読むまで知らなかった。

 一般的にドミノと呼ばれているドミノ牌には、サイコロのような模様がある。そこで示された数を使って、並べて遊ぶもの。という説明も、この本の冒頭を読めば書いてある。

 主人公の富野とみの藤次とうじはそういったクラシカルなアナログゲームが好きで、だから「ドミノ部」という名前を見たときにも、ドミノ倒しではなくドミノを本来の形で遊ぶ部活だと思い込んで入部を決める。

 けれど「ドミノ部」というのは、普通にドミノ倒しする部活だった。主人公は自分の勘違いに気付いて入部をやめようかと思うのだけれど、言い出せず、部員になってみんなでドミノ倒しをすることになる。

 その「期待」と期待との「ズレ」は、この物語の仕掛けの一つだ。この物語では、藤次が持っていたような「期待」を、どの登場人物も持っている。

 ドミノ部の活動は、夏休みに空き教室を借りてドミノ倒しをすることだ。そのために、夏休みまでに教室を借りる手配や、ドミノ倒しの設計図を用意する。夏休みが終わったら、撮影した動画を編集する作業はあるけどほぼ解散。そんな部活だ。

 そこに今年集まったメンバーは主人公の藤次を含めて七人。高校生の男女が七人、それぞれの動機も期待もばらばらだ。純粋にドミノ倒しに浪漫を感じる人もいれば、友達に誘われてきただけの人もいる。あるいは、恋愛が目的の人もいる。

 そして、部員たちの期待はみんなどこか噛み合わずに現実と「ズレ」ている。その様々な「ズレ」が書き出されている。

 ドミノ倒しはとても根気のいる作業だ。わずかなズレがどこかで大きなズレになり、全体を狂わせる。あるいは、ほんの些細なミスが意図せずに周囲を巻き込んで倒してしまうような被害を産む。

 彼らの群像劇で浮かび上がる勝手な期待とその「ズレ」は、ドミノ倒しのそんな失敗と重なって書かれている。

 読んでいると、そんな「ズレ」は自分の中にもあるのだと思わされる。周囲の誰かに勝手な期待を押し付けてないか、噛み合わないと思ったことは自分の勝手な期待のせいじゃないか、そんなことを考えさせられた。

 ドミノ部のみんなは、最後のドミノ倒しのために黙々とドミノを並べてゆく。その中で彼らは自分の中の勝手な期待に気付き、現実との「ズレ」に気付いてゆく。そして、ドミノをズレなく並べるように、自分の中の認識の「ズレ」を改めてゆく。

 そして、この部活に参加したみんなは、最後には他の人の期待にまで気持ちを向けられるようになる。お互いのドミノの「ズレ」が修正されて、それでようやく、ドミノ倒しは成功する。

 その年、ドミノ部が選んだ図案は花火だった。丸く並べたドミノの中央にドミノ牌を落として、ドミノの花火が開いてゆく。その花ひらく瞬間は本当に何秒かしかない。並べる時間に比べたら一瞬と言っても良いと思う。

 その一瞬のために、主人公も含めてドミノ部の面々は自分たちの勝手な期待と現実との「ズレ」に向き合ってきた。まさに、正しくドミノを倒すために。

 自分も、きちんとドミノを倒せるように、自分の中の「ズレ」に向き合わないといけないのかもしれない。そう思った。



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