第23話

 短い悲鳴と、転倒する音が連続する。警備員はその場で落着。

 対処すべき問題はいくつもあるが、僕はひとまず警備員の下へ匍匐前進で近づいた。首筋に手を当てる。よかった、脈はある。


 周囲を見渡してみると、彼以外に倒れている警備員は三人。すぐに彼らが呼吸しているのが分かり、僕はほっと胸を撫で下ろした。

 ここに死者はいない。つまり、リナは誰も殺してはいない。


 だが本当に問題なのは、リナの態度だった。


「け、恵介お兄ちゃん……! 一体何をするの? もう少しでお母さんに会えたかもしれないのに!」


 リナは僕に、今まで見たことのない形相で迫ってきた。転倒した際に付いたのか、頬が泥で汚れている。しかしそんなことはお構いなしに、目の端をつり上げ、顔を真っ赤にして僕に向かってくる。


「お母さんは一週間後に帰ってくる! さっきちゃんと言っただろう?」

「で、でも……」


 待ちきれなかった、とでも言うのか。


「リナ、お前の寂しい気持ちは分かる。だけど、だからといって人を傷つけていいなんてことにはならない!」

「お兄ちゃんたちはゾンビをたくさん殺してきたんでしょう? それなのにそんなことを言えるの?」

「奴らは怪物だ、人間じゃない! 僕やリナとは違うんだよ!」


 その時、はっとした。

 科捜研がデータ不足と結論を出した以上、リナが何者なのかは未だに不明のままだ。

 人間とも怪物ともつかない、中途半端な立場のリナ。そんな彼女に向かって、一体何が言えるというのだろう?


 僕は思い出していた。化学薬品工場の跡地での戦闘を。あそこには、ゾンビになりかけの子供たちが入ったカプセルがたくさんあって、結局爆破処理された。

 あれは、あまりにも残酷な行為だったのではないだろうか……?


 僕を強引に現実に引き戻したのは、リナの言葉だった。


「偉そうなこと言わないで! お兄ちゃんたちだって、散々生き物を殺してきたくせに!」


 直後、パンッ、と弾けるような音が響き渡った。同時に、僕の右のこめかみから汗とは異なる液体が流れ出る。


 リナの顔の角度や僕の右手、それに額の右側に走る鋭い痛み。

 僕は右手でリナの左頬を引っ叩いたらしい。そして、これはリナの力かどうかは分からないが、僕の右側頭部から微かな出血が起こったようだ。


 いや、待てよ。いくらリナが癇癪を起こしたからと言って、僕に暴力的な念動力を行使するだろうか? キスまでしてくれたのに?


 僕は再び掲げていた右手を下ろし、姿勢を正したリナと目を合わせた。


「いいかいリナ、今僕に叩かれて、痛かっただろう?」

「……うん」

「人間は痛みを感じるんだ。身体だけじゃない、心もだ」

「……」

「リナ、君を叩いたことは謝る。でも、リナだってここにいる警備員の人たちを傷つけ、怖い思いをさせた。分かるだろう?」

「……」

「今、ここで直接謝るのは難しい。リナが謎の力を使える、ってことは隠しておかないといけないし、だからこそ今はここを離れなくちゃいけないからね」

「で、でも……」

「お母さんなら、必ずリナに会いに来てくれる。だから今は我慢してくれ。お兄ちゃんたちとさくらお姉ちゃんは、皆リナのことを大切に想ってるから」

「うん……うん! ごめん、なさい……!」


 危うく僕は後ろ向きに転倒するところだった。リナがタックルを仕掛けるような勢いで、僕に抱き着いてきたからだ。

 ぐずぐずと鼻を鳴らす少女の背中を、僕はそっと抱きしめた。


         ※


 僕たちが素早く路地裏から出ると、ちょうど秀介やさくらさんと鉢合わせすることになった。

 

「兄貴! リナ!」

「あっ、秀介お兄ちゃん!」

「リナ、大丈夫……ってうわっ!」


 リナは、今度は秀介に抱き着いた。そのまま押し倒される秀介。


「リナ、ちょっと待て! ここじゃあ人目につきすぎるから……」

「馬鹿! 見られなきゃそれでいいのか、秀介!」

「兄貴、わざわざ俺に怒鳴らなくたって――」


 そんな馬鹿騒ぎをそばで見ていたさくらさんが、はっと息を飲んだ。


「恵介さん、血が!」

「え? ああ、これは、その……さっき転んだんです」

「そうなんですか?」


 うむ。嘘はついていない。


「取り敢えず止血はしておきましょう。これで」

「あっ、そんな! さくらさんのハンカチを汚すわけにはいきませんよ! 僕のがあります。でも傷が見えないな……」

「気にしないでください。私だって、ハンカチくらいたくさん持ってますから」


 結局、さくらさんのハンカチ(のうちの一枚)を犠牲に、僕は止血と消毒の処置を施された。流石さくらさん。


 右手でこめかみを押さえながら、左手首の腕時計に目を落とす。

 

「午後三時……」


 リナが警備員を気絶させてしまった件があるし、そろそろ撤収した方がいいだろう。


「秀介、そろそろ帰らないか? ほら、さっき話しただろ?」

「ああ、そうだな。リナ、もう十分遊んだか?」

「うん」


 いつになく素直に同意する秀介と、大人しく頷くリナ。秀介とさくらさんも、リナが何かを引き起こしたことは察している様子だ。


「じゃあ、帰るか」


 そうぽつりと呟いた秀介に従い、僕たちは自分たちの荷物を背負い直した。


         ※


 帰りの車内は、行く時に負けず劣らず沈鬱なものとなった。

 各々の座席は、運転席に秀介、助手席にリナ、後部座席に僕とさくらさんというもの。これまた、行く時と変わらない。


 しかし、というべきか、やはり、というべきか、誰も言葉を発しようとはしない。

僕がリナを引っ叩いたことは秀介もさくらさんも知っている。誰も僕を責めようとはしなかったが、僕とリナに気を遣ってか、そのことを話題にしようとはしなかった。


 そうなると、やはり誰も口を利こうとはしなくなってしまう。単にネタがないだけでなく、一種の不穏な空気に包み込まれていたからだ。


 僕が衝動的に、しかもリナに対して暴力を振るう。そんなこと、秀介もさくらさんも、僕自身だって想像できなかったことだ。


 結局、次に言葉を発したのは、ETCの料金案内だった。


 西日が容赦なく、高速道路上の車列に熱を投げかける。秀介が冷房を操作する音が、妙に大きく聞こえた。


 だからこそだろう、僕は腕時計が警戒音を発した時、跳び上がらんばかりに驚いた。福谷からの緊急連絡受信装置も兼ねた装置だ。


「はい、こちら諸橋恵介」

《こちら福谷、やっと繋がったな! 今すぐ高速を降りろ!》

「な、何ですって?」

《香藤玲子の罠だ! このままでは殺される! 後方から接近中の大型トラックに押し潰されるぞ!》

「後方から……?」


 その言葉を聞いていたのだろう、サイドミラーを覗き込んだ秀介が叫んだ。


「兄貴! 福谷さんの言う通りだ、右後方から大型トラックが接近中!」

「なんだって?」

《さっき、対人型異生物作戦部にも匿名の連絡を入れておいた。間もなくお前たちを援護するヘリが現着するはずだ。それまで――》


 そこで通信はノイズだらけになって、間もなくぷっつりと切れてしまった。

 福谷のことだ、彼が危険な目に遭ったわけではあるまい。そんなドジを踏む人間ではないことは、僕だって承知している。


 ということは、猛スピードで接近中のトラックに通信妨害機能でも備わっているのか。


「皆、何かに掴まれ!」


 秀介が叫ぶ。

 同時に車は勢いよく右に蛇行し、トラックの体当たりを回避した。悲鳴を上げるさくらさんの肩を抱くようにして、僕は歯を食いしばった。


 ギリギリギリギリ、と耳をつんざくような音がする。高速道路の壁面に、トラックが擦れているのだろう。

 

 トラックはその図体には見合わない、機敏な走行テクを披露した。

 一般車両を極力回避しつつ、いざ隙間が空いた時に横合いから突撃してくる。かと思えば、わざと一般車両に体当たりし、僕たちの車の方へ弾き飛ばしてくる。


「うおっ!」


 秀介ほどの運転技術がなかったら、僕たちは今頃ミンチにされていたかもしれない。

 その時、僕はある疑問を抱いた。どうして敵のトラックは、あんな大きなコンテナを積載しているのか? 小回りが利けば、その分僕たちの車だけを狙いやすいだろうに。


 その答えが明らかになる前に、事態は一変した。見慣れた黒色のヘリが、勢いよく上空を通過していったのだ。


「皆、味方だ! 支援ヘリが来たぞ!」


 秀介が歓喜の声を上げる。まだ助けられたわけではないが、彼が喜ぶのも無理はない。こういった事態に備えて、兵士の中には極めて優れた狙撃手がいる。

 トラックの運転席を撃ち抜かれれば、トラックは横転し、僕たちは当面の危機から逃れられる。


 それが甘い考えであることを思い知らされたのは、実際にトラックが横転し、コンテナが勢いよく道路上に叩きつけられた時だった。

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