第10話

 頭痛は、発生時と同じように唐突に止んだ。後を引くような鈍痛もなく、ぱったりと終わったのだ。


「な……」


 何だったんだ、今のは? ようやく冷静さを取り戻した僕は、原因の究明に取り掛かろうと立ち上がった。


 眼下には、ベッドに腰かけ、俯いた姿勢で両手を顔に当てているリナの姿がある。

 ああ、泣かせてしまったのか。だが、僕に謝る気はなかったし、ましてや嘘をついてリナにぬか喜びを味わわせるつもりもなかった。

 それは、あまりに不誠実だからだ。この身分不明瞭な少女に対して。


 それはさておき、頭痛の原因究明だ。

 と言っても、ここはただの病院の個室ではない。準軍事施設の医療棟の内部なのだ。外部から電波的な攻撃を受けたとは考えづらい。

 

 また、非常警報も作動していない。これだけで僕はお手上げ状態だ。

 そこは専門の警備員においおい尋ねるとして、何か他に異常はないだろうか?


 僕は周囲のものに触れないよう、慎重にその場で一回転した。そして、見つけた。


「ん? これは……」


 きらり、と日光が反射したことで発見できた。ガラス片だ。

 つと視線を上に遣ると、リナが使っていたグラスが割れている。ベッドわきの小型のテーブルの上に載っていたものだ。

 あたりには、オレンジジュースが飛散していた。


 まさか、銃撃? 僕は慌てて身を隠そうとしたが、すぐに止めた。

 さっきの電波攻撃説より、ますますあり得ない。この病室のガラスは、対戦車ライフル弾をも防ぎきるという代物だ。

 そんなガラスにはひび一つ入っていない。それなのにグラスだけが破壊された。


「一体何が起こったんだ……?」

「ねえ恵介お兄ちゃん、あたし、やっぱりお母さんには会えないのかな? 学校に行っていい子にすれば、きっと会えると思ったんだけど……」


 僕は咄嗟に笑みを取り繕った。


「そうだね、リナ。大丈夫、さくらお姉ちゃんが今手続きを――」


 そう言いかけた時、今度こそ警報が鳴り響いた。


《至急至急! 本組織所属の研究員を乗せた車両が、科捜研に向かう途中にレーダーから消失! 原因は不明! 研究員は、先日洋館で保護された少女の生体データを搬送中だった模様! 非番の兵士は直ちに戦闘態勢に――》

「何だって!?」


 生体データを搬送中って、それはさくらさんのことじゃないか!


「たっ、大変だ!」

「どうしたの、恵介お兄ちゃん?」

「リナ、一人でいられるか?」

「えっ?」

「お兄ちゃんは急用ができてしまったんだ。すぐに人を呼ぶから、リナ、君はここにいるように。いいね?」


 何事か分からずにいてくれたお陰だろう。あるいは僕の気迫に押されたのか。いずれにせよ、リナは暴れたり、喚き出したりすることもなく、ぽかんとした顔で僕を見返していた。


「秀介がじき戻ってくる。大丈夫だよ」


 そう言ってリナの頭に、ぽん、と手を載せてから、僕は病室を抜け出し、兵士たちに合流した。


         ※


 どうも今日は冷静さに欠く一日であるらしい。

 さくらさんが行方不明だからといって、それがゾンビ絡みだったり、香藤玲子絡みだったりするという確証はない。

 それなのに、非戦闘員であるはずの僕が、どうして兵士たちと一緒に幌付きトラックに乗っているのか。


「諸橋博士、情報は全て中継車に回します。もしゾンビに関する事案でしたら、オブザーバーとして助言をいただきたい。よろしいですか?」

「はっ、はい」


 隊長の指示に、素直に頷く。僕は自分の役割を与えられ、僅かにほっとした。

 

 しかし、飽くまでもほっとしたのは『僅かに』だ。何よりも、さくらさんの身の安全が確保されなければ。


 事前に受けていた報告によると、車は予定のコースから大きく逸れて、人里離れた森林に入ったらしい。

 そこに舗装された道路はなかったが、数十年前に住宅地建設案が持ち上がっており、車は重機を搬送するための道路から森林に入ったようだ。そして、レーダーから消えた。


 仮にゾンビがいたとして、敵の目的は何だ? 主力部隊が警視庁と合同任務にあたっている時機を狙った陽動、不意討ちだろうか?

 では、さくらさんを狙った目的は? それこそ僕たち研究班の戦力を割き、あわよくば自分の研究に協力させるための誘拐?


《こちら先遣、目標車両を発見。これより調査任務にあたる》

「隊長車、了解」


 運転席から無線での遣り取りが聞こえてくる。


「博士、我々も一旦停車します。中継用の装甲車が来ていますので、そちらに」

「分かりました」

「よし、全員降車!」


 おう、という気合いのこもった声に合わせ、兵士たちは素早く降車・展開して警戒態勢に入った。僕も促されるようにして、装甲車へと乗り移る。

 

 厳つい外見にはいつも気圧されてしまうが、荷台の指揮通信室に乗ってしまえばこちらのものだ。少なくとも、この車内にいる限りゾンビに殺傷されることはない。

 逆に、僕が皆の安全を確保しなければ。自分の知識と、多数のモニターを動員して。


 このモニター群は、兵士たちのボディカメラの映像を映している。そこに何らかのゾンビ、あるいはそれに類する存在の痕跡がないかどうかを確かめるのが、今回の僕の任務だ。


《こちら先遣、目標車両を捜索中。血痕を確認》


 どきり、という嫌な響きが、肋骨を跳ね上げた。

 血痕? 死傷者がいるということか? まさか、さくらさんが……?


《遺体、及び遺留物なし》

《血痕が車両から森林部へと入っている。これより追跡にあたる》

「あっ、あのっ! もしかしたら、敵の目的は、笹原さくら研究員を誘拐することかもしれません! そのためのミスリードかも……」

《これが敵のトラップだと仰るのですか、諸橋博士?》

「その可能性は捨てきれません」

《いずれにせよ、流血を伴った何者かがこの先に立ち入ったことは事実です。我々はそちらを追います》


 すると隊長は部下を呼びつけ、別動隊を組織した。

 秀介たちの小隊がいない、少人数での捜索任務だ。ここでさらに人員を削るのが、吉と出るか凶と出るか。


 僕はオブザーバーであり、隊長の指示に反する命令を出せる立場ではない。

 とにかく、僕はたくさんのモニターから得られる情報を高速で整理し、現場の兵士たちの安全に繋げていくしかない。


 小隊を二つに分けての捜索が始まってから、約十分が経過した。


《くっ! こちら先遣、異臭を察知!》

「ッ!」


 なるほど、隊長の方が当たりだったか。


「上下左右を警戒してください! できるだけ単独行動は避けて、身の安全を確保してください!」

《了解!》


 ゾンビの姿が捕捉されたのは、それから間もなくだった。

 木々の間で、誰かの遺体に食らいついている。


「あ、ああっ……」


 さくらさんが、ゾンビの餌食に? 僕は冗談ではなく、その場でぶるり、と全身を震わせ、椅子から跳ね上がった。


《目標捕捉! 前方の三名は射撃用意! 後方の二名は周辺索敵を怠るな!》


 かちゃり、と金属の擦れ合う音がする。

 しかし、その銃口が火を噴くタイミングは大きく狂うことになった。突如響いた、女性の声によって。


《お待ちなさいな、兵隊さんたち》

《んっ? 誰だ! こちらは陸上自衛隊だ、武器があるぞ! 姿を見せろ! さもなくば強硬手段に出る!》

《それはまた早急ねえ。短気は損気よ、少しはお話しませんと》


 すると、大木の陰からのっそりと、もう一体のゾンビが現れた。

 このくらいで驚きはしない。だが、そのゾンビの行動には、今までの僕たちの常識を覆す力があった。


《私の実験体でも、このくらいの知性はつけられるようになったのよ》


 ゾンビは、さくらさんを肩に抱えるようにして立っていたのだ。はっとしたが、さくらさんが重傷を負っているようには見えない。


 先ほどの遺体は運転手のものだったということか。いずれにせよ、許すつもりはない。

 隊長はゾンビに銃口を向け、さくらさんの解放を迫った。しかし、ゾンビは横を向き、さくらさんを完全に盾として利用している。


 人質を取った? ゾンビが?

 俄かに信じがたいことではあるが、今までもゾンビに食欲以外の知性が見られたことは皆無ではない。

 その研究を、香藤は一歩進めようとしている? ということは、この声は香藤のものだということか。


 しかし、隊長の実戦経験の方が一枚上手だった。

 自動小銃にセーフティをかけて地面に置き、後ずさる。と見せかけて、拳銃を抜いてゾンビの両膝を撃ったのだ。


 ぐらり、と体勢を崩すゾンビ。同時に、運転手の遺体を食らっていたゾンビは、たちまち蜂の巣にされる。


 隊長は拳銃を放棄し、プロテクターを装備した肘を突き出す格好でさくらさんの救出に向かった。

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