第9話

「リナは立派な人間だ!」


 秀介は手拭いを放り投げた。


「だって、あんなに無邪気で純粋で……。兄貴だって見ただろう? リナがどれほど『心』を持ってるか!」


 心、か。随分と不確定要素の多い概念を引っ張り出してきたな、コイツは。僕なら絶対に議論のネタにはしない考えだ。


 直情的で直感性を信じる秀介には、確かにリナの姿は愛らしいものに見えただろう。僕にだって、リナの姿は可愛らしく映った。


 だが、ここで僕と秀介には大きな違いがある。

 心の働きというのは、体内における化学反応の繋がりによって生じるものだという、極めて理論的で科学的な考えを僕は抱いている。

 いやそもそも、その化学反応を『心』という特別な言葉に置き換えてしまうこと自体がおかしいのだ。


 間違っているのはお前の方だぞ、秀介。そう言い聞かせるのは簡単だ。納得させられるかどうかは別として。


 しかし――。自分の脳内でも、奇妙な感覚が支配的になっていることに、僕は気づいていた。そこで像を結ぶのは、リナの笑顔だ。秀介の言う通り、無邪気で純粋な。

 僕の脳内で、リナに対して好意的な考えが広がっているのは疑いようのない事実なのだ。それを口にする勇気は、今の僕にはなかったけれど。


 僕は随分情けない顔をしていたのだろう。ばしゃり、と水の塊を浴びせられた。


「けっ、兄貴のことだから、どうせわけの分からねえ理屈をこねくり回してたんだろ? この頭でっかち野郎! 兄貴なんかに教えてやった俺が馬鹿だったよ! 決意表明するのに、一番相応しいと思ってたのに!」


 そう言い捨てるや否や、秀介はざばりと立ち上がり、そのまま浴場を出て行ってしまった。

 さっきまでの楽観的な考えはどこへやらだ。僕は呆気に取られて、ぴしゃりと閉められた扉を見つめた。


「だったら別な誰かを探せよ……」


         ※


 それから間もなく、僕も風呂を上がった。熟睡できるよう、睡眠導入剤を飲む。

 そのお陰だろう、今度こそ何の夢を見ることもなく、僕は安眠を得ることができた。


 そして午後。今日もまた、秀介は出動しているはずだ。


「よくもまあこんなに動けるもんだよな……」


 僕はベッドから足を下ろし、額に手を当てながらかぶりを振った。

 僕に出動命令が下されていないところからすると、今日の任務は危険なゾンビの殲滅ではないらしい。きっと香藤玲子の手掛かりを探すという、警視庁との合同任務だろう。

 いや、逮捕権限は警視庁側にあるだろうから、彼らを護衛する任務、と言った方が正しいのか。

 

 僕だって、何もせずにはいられない。リナから得られた生体データを科捜研に届けなければ。

 ぱちん、と自分の両頬を叩いてパジャマから着替え、研究棟のラボへと向かった。


「ん?」


 ドアの前に立つと、どうやら先に誰か来ているらしい。インターフォンの呼び出しボタンを押し込む。


《はい、もしもし?》

「ああ、お邪魔してすみません」


 咄嗟に頭を下げる。実験の中断を強いてしまった恐れがあったからだ。だが、その心配はなかったらしい。


《あっ、恵介さん! 何かご用ですか?》

「さくらさん? お、おはようございます」

《ふふ、もうお昼過ぎですよ? そうかあ、きっと昨日も考え詰めで眠れなかったんですね?》

「い、いやあ、まあ、その……そう、です」


 お茶を濁しながら、僕は曖昧に頷いた。一方、さくらさんは入室を促す素振りを見せない。

 疑問に首を傾げていると、目の前のスライドドアがさっと開き、スーツ姿のさくらさんが現れた。


「あれ? どこかに行かれるんですか?」

「ええ。これを科捜研に届けようと思いまして」


 重そうなアタッシュケースを掲げて見せるさくらさん。


「これはリナの?」

「ええ、リナちゃんの生体データとサンプル、それにプレゼン用の資料です」


 僕ははっとした。リナのデータをまとめ、理論づけるには、相当な時間と労力がかかったはずだ。

 それを、僕が呑気に寝ている間にさくらさんが一手に引き受けていたのか。実際にいくつものレポート作成やプレゼンを経てきた僕には、その大変さがよく分かる。

 これ以上、彼女に負担をかけるわけにはいかない。


「僕が行きます!」

「えっ? でも恵介さんはお疲れなんじゃ……」

「いえ、さくらさんだって、昨日から寝ていないんでしょう? 僕なら大丈夫ですから」


 すると急に、さくらさんの目つきが鋭くなった。


「駄目です」

「へ?」

「あなたが科捜研に行ったり、プレゼンをしたりするのは駄目だと言ったんです、恵介さん」

「ど、どうして……」

「プレゼンの資料をまとめたのは私です。私に説明責任があります」


 そう言われてしまっては、こちらはぐうの音も出ない。だが、さくらさんはフォローも忘れなかった。


「次に同じ状況になったら、あなたにお願いしますから」

「……了解です」

「じゃあ、恵介さんはリナちゃんの遊び相手になってあげてください。秀介さんが出動で、きっと暇を持て余しているでしょうから」

「分かりました。お言葉に甘えます」

「よかった、恵介さんが納得してくれて」


 穏やかな笑みを浮かべるさくらさん。


「では、私はこれで。夕方には戻ります。車を待たせていますので」

「はい、では、お気をつけて」


 さくらさんはゆったりと深いお辞儀をして、アタッシュケースを両手で提げながら廊下を歩いて行った。


         ※


「あっ、恵介お兄ちゃん!」

「やあ、リナ」


 ぱっと顔を輝かせるリナを前に、僕はどくん、と心臓が跳ねるのを感じた。

 前回と同じ、医療棟の個室でのことだ。


 リナは完全な人間だとは言えない。恋愛対象にするのは誤りだ。

 僕は何度も自分にそう言い聞かせたが、胸の高鳴りを抑えるのはなかなか難しい。

 これが、秀介の言っていた『心』というものなのだろうか。


 だがそもそも、何を以て人間を人間と言うのか? 人間のクローンを製造するのは国際的に禁止されているが、実際にそれに似た存在が現れてしまった以上、どう扱うかは議論されねばなるまい。


「ねえ、恵介お兄ちゃん、どうしたの? 怖い顔してるよ?」

「ああ、何でもないよ。お勉強のことで、ちょっと悩んでいてね」

「お勉強? お兄ちゃんは大人なのに、まだ学校に行ってるの?」

「いや、そういう意味じゃないんだけど……」


 僕が人差し指で頬を掻いていると、リナは言葉を続けた。


「ねえねえ恵介お兄ちゃん、あたし、秀介お兄ちゃんに聞いたの! 大人が会社でお仕事をするみたいに、あたしたち子供は学校、っていうところでお勉強するんだよね?」

「ん? あ、ああ」

「あたし、学校に行きたい!」

「え?」


 正直、これには驚いた。

 確かにリナは好奇心旺盛だし、勉強も友達作りも難なくこなすだろう。しかし、その手続きをするには、戸籍などの身分を明らかにする手段が必要だ。

 だが、そのための検査は未だ実施されていない。


 僕はしゃがみ込み、リナと視線を合わせた。先ほどまでの心拍はどこへやら、僕の胸中はリナへの罪悪感でいっぱいだった。

 

「いいかい、リナ。リナのことは、今さくらお姉ちゃんが調べてくれてるんだ。それが終わるまでは、リナはまだ学校へ行くことはできないんだよ」

「えっ?」


 ことん、とリナは首を傾げた。


「だって、秀介お兄ちゃんは言ってたよ? 学校に行けば、友達がたくさんできて、とっても楽しい生活が送れるって!」

「いや、それはそうなんだが……」


 僕はリナの肩に手を載せ、再び目を合わせた。そして、はっとした。

 リナの両目に、溢れんばかりの涙が浮かんでいたからだ。


「酷い……酷いよ、こんなの、酷すぎるよ……!」

「リ、リナ?」

「だってあたし、お母さんに会った記憶もない! 誰もあたしのことを知らない! あたしだって、他の人のことが分からない!」

「落ち着くんだ、リナ。お前にはお兄ちゃんたちがついて――」

「あたしはお母さんに会いたいんだよ‼」


 リナは絶叫した。まさに、その瞬間だった。

 気圧された僕の頭に激痛が走った。それこそ、雷に打たれたかのように。


「ぐっ! うあああっ!!」


 当然、疲労や寝不足で頭痛に見舞われることはある。それでも、目の前の現象から思考が引き剥がされないように、頭を動かすことはできたはずだ。

 しかし、今回の頭痛は段違いだった。脳の中身が沸騰させられ、逆に外側からは氷柱を刺し込まれていくような、そんなちぐはぐな感覚。


 何が起こっているのか、それを考える僅かな余裕すら与えられなかった。

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