第8話


         ※


 僕が汗びっしょりで夜中の廊下を歩いていると、向こうから人の気配がした。

 いや、本当に人なのか? 今見た夢があまりにもリアルだったので、思わず足が竦みそうになる。


 段々と灯っていく自動照明。その光は、廊下の反対側から迫ってくる。誰なのか尋ねられればいいのだろうが、生憎と喉が上手く機能してくれない。

 いいや、これでは駄目だ。この程度で怯えていては、秀介に笑われても仕方ない。


「あれ? 兄貴じゃん」


 僕は思わず、安堵の息を漏らした。相手はゾンビではなかった。しかも、幼い頃から見知った人物の姿をしている。秀介だ。

 僕は無意識に握り締めていた拳が開かれるのを感じた。


「兄貴、何してんだよ、こんな夜中に?」

「そっ、そういうお前こそ、何をしてたんだ?」

「見りゃ分かんだろ、筋トレと格闘訓練だよ」


 両腕を広げて見せる秀介。彼は通気性と動きやすさを兼ねたジャージを纏っていた。それでも汗だくで、額からは未だに水滴が滴っている。まるで服の上からシャワーを浴びたみたいだ。


 すると突然、秀介の目が見開かれ、にやり、と口角が引き上げられた。


「ちょうどいいや、兄貴。一緒にシャワー浴びようぜ」

「は? お前はお前で浴びればいいだろ、シャワーなんて……」

「それがさ、部屋にボディソープ忘れてきちまったんだよ。兄貴の持ってるやつ、貸してくれない?」


 ずいっと一歩、迫ってくる秀介。お前は典型的なガキ大将か。

 かといって、無下に断る気にもなれない。彼が僕を守ってくれるから、僕は研究という手段でゾンビに復讐ができるのだ。


「仕方ないな……」

「やりぃ! 二階に戻る手間が省けたぜ、ありがとよ!」


 無邪気な弟の笑顔に、正直僕も悪い気はしない。やっぱり兄弟なんだな、僕たちは。

 他の親族とは、感覚の一致度合いがまるで違う。僕が実戦部隊に所属していたら、間違いなく秀介のバディになっていただろうな。


 意気揚々と脱衣所に踏み込んでいく秀介に続いて、僕もまたゆっくりとそちらに足を向けた。


         ※


 浴場は広大だが、僕たち以外に利用者はいなかった。午前二時ともなればこんなものか。


「ほら、使えよ」

「サンキュ、兄貴」


 先に秀介にボディソープを使わせてやることにする。

 シャワーは壁際に沿って、一人分ずつスペースが仕切られている。僕は冷水に設定したシャワーを頭上から浴びながら、片腕を壁についてしゃがみ込むのを堪えた。

 隣で秀介が鼻歌を歌っているのが聞こえる。僕とは違ってご機嫌らしい。


 いや、待てよ。どうして僕は、しゃがみ込むのをわざわざ我慢しているんだ? 我慢せず、うずくまってしまえばいい。

 それでも、何故か僕はそうしない。部屋を出てくるだけでも、結構な精神力を消費したというのに。


「コイツのせい、かな……」


 僕は横目で、仕切り板の向こうにいるであろう弟の方に強い視線を投げた。

 敵視しているわけではない。ましてや蔑視などしているはずもない。


 ただ、得体のしれない感覚が僕を捉えて離さない。

 もしかしたら、コイツがこの時間まで訓練していたというのは嘘じゃないのか?

 まさか、リナの下に留まっていたのではないだろうか。

 リナと何を話した? 僕を貶めるようなことでも?


「……」

「兄貴? 兄貴ってば!」

「いてっ!」


 何事かを把握する前に、僕は頭を押さえていた。何か軽いものが、頭上から降ってきたのだ。かたん、と足元で音がする。


「あっ、ボディソープ返そうと思って呼びかけたんだけど、兄貴が応答しないからさ。自業自得だぞ!」

「シャワーの音で聞こえなかったんだ!」


 って、これこそ嘘だな。秀介の鼻歌は聞こえていたのだから。


「じゃ、俺は先に湯に浸かってるからな~」


 気楽なことこの上ない、秀介の口調。勝手にしろ、と適当に声を投げた。

 

 のろのろとシャワーを浴び終え、僕もまた湯舟へと向かう。秀介はこちらに背を向ける格好で、頭に手拭いを載せていた。

 僕もその隣に腰かけるようにして身体を沈める。


 隣といっても違和感がある。自分と秀介の間の距離が取りづらい。二人を遠ざけようという意志を持った、どろどろの不吉なものが蔓延っている感じだ。

 今までこんなことはなかったのにな……。


「なあ兄貴」

「ん、んん?」


 一瞬、反応が遅れた。いつになくぼんやりしているところに不意討ちだ。

 だが、本当の不意討ちと衝撃は、次の瞬間にやって来た。


「俺、諸橋秀介は、リナと結婚します!」

「ぶふっ!?」


 これはあまりに予想外だった。少なくとも、誰かに押されたわけでもないのに、前のめりになってしまう程度には。

 僕の頭部は湯面に没し、熱めに設定された湯水が勢いよく鼻腔に侵入してきた。何と言ったのかと尋ね返す間もない。


 勢いよくむせる僕を尻目に、秀介は言葉を続ける。


「なんかさ、最初に見た時? いや、目が合った時? こう、痺れたっつーの? 運命感じたんだよね。ああ、俺は彼女に会うために生まれてきたんだな、って!」


 秀介の言葉を聞きながらも、僕は咳き込み続けた。

 頭蓋の中で脳が揺さぶられ、心臓の鼓動が内側から肋骨を破ろうとする。


「だから、雷に打たれた時ってこんな感じなのかな、って思うわけよ! 可愛いとか惚れたとか、もうそんなレベルじゃないね。これこそ運命感じたってか」


 おいおい、運命感じた、って言ったの二回目だぞ。

 そうツッコんでやりたいのは山々だったが、僕は喉元からの排水に終始せざるを得ない状態だった。


「こら、兄貴! 弟が一世一代の決意表明をしてる間に、何やってるんだ?」

「誰のせいでこんなにむせってると思ってるんだよ……」


 どんどんと胸元を叩きながら、僕は必死に言葉を絞り出した。僕が誤嚥性肺炎にでもなったらどうするつもりだ。


「まったく、苦労するぜ! ノリの悪い兄貴を持った弟ってのはよ!」


 ノリだとかボケだとかのレベルじゃない。というか、そんな夢みたいなことを堂々と言えるコイツの神経が図太すぎる。たとえ告げる相手が実の兄だとしても。


 しかし、僕はどうしてこんなに動揺しているんだ? 自覚されることがあるとすれば、僕もまた、心のどこかでリナに好意を抱いているということなのだろうか。

 そうだ、こういう時こそ落ち着け、恵介。今は明確な敵対姿勢は示さず、冷静に相手を悟すべきだ。


「な、なあ、秀介? お前、本気なのか?」

「モチのロン!」

「でも、リナはまだ十歳……ああ、身体年齢は十二歳だけど、歳が離れてるだろう? それこそ、お前だってロリコンになってしまうじゃないか」

「なあに言ってんだよ、兄貴も歳を食ったな!」


 どういう意味だ?

 僕が首を傾げると、秀介は得意げに自分の理屈を並べ立てた。


「リナは実質十二歳なんだろ? 頭の年齢が十歳だとしても、すぐ皆に追いつくよ! だったらリナはあと六年経てば十八歳だ、法律上は結婚するのに問題ないはずだぜ?」

「た、確かに両親の同意がなくても結婚はできるだろうけど……」


 そもそも今の僕たちには、両親共に存在しないのだが。

 年齢的な問題を秀介がクリアしてしまった以上、僕は切り札を使うしかなくなった。


「秀介、お前はリナが見つかった時の状況、覚えてるな?」

「忘れもしない! ゾンビを造ってる香藤玲子の洋館の地下で、馬鹿でかい試験管に入ってるところを救出したんだろ? 俺がね!」


 まあ、実際あの試験管の開放スイッチを押し込んだのは秀介だが。しかし、それこそが一番の問題なのだ。

 秀介がばちゃばちゃと湯面を叩くのを眺めながら、僕は決定打を打ち込んだ。


「お前、リナが本物の人間だと思うか?」

「だから年齢なんて些細な問題――って、え?」


 正直、これは僕自身に対する問いかけでもあった。リナとは一体何者なのか?

 今までに分かった事実は僅かだ。が、まともな発生の過程を経ることなく生まれたということは疑いようがない。

 もっとざっくりと言えば、リナはまともな生物かどうか、それすら怪しいのだ。


「リナは人間じゃない。そう言われた時、お前は今のその想いを揺るがせにしない自信はあるか?」


 まるで湯舟が冷水になったかのように、僕たちの間に冷たいものが張り詰めた。

 ギリギリとブリキ人形のように、ゆっくりとこちらに顔を向ける秀介。その顔面はのっぺりとした能面のようになっており、一切の感情が抜け落ちていた。


 しばしの間、僕は秀介と顔を見合わせた。時間間隔は正直自信がない。だが、恐らく一、二分間はそのままだったんじゃないかと思う。

 秀介の首筋から、だんだんとその顔色が赤くなっていくまでは。

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