作者目線で言うところの行間には込めた思いや味わいがあって、詳しく語らずとも共感なり欲しいところである。
ではあるけれども、真意が伝わっているのかどうかは読み手それぞれに解釈の仕方、違いがあって然るべきであり、かくも曖昧なものである。
しかしながら、究極を言ってしまえばそれでよいのだ。
その辺りの差異を受け楽しむことができるのもまた、他でもない作者ならではの喜びなのだから。
というように私は解釈をしてみました。
すべてがすべて、伝わる必要はないのかなと思います!
作者からの返信
コメントありがとうございます。
そしてExcellentな解釈です。
私は常々「作家は考えさせる葦でなければならない」と主張しています。考える葦では足りないのです。
考えさせる間(ま)、それが行間。
よく「国語の問題に正解は無い」なんて言いますけれど、どう受けとってもいい。どう考えてもいい。自分の考えを意識し始めた瞬間から正解なんです。答えを探し始めた瞬間から。
逆に言えば、考えさせられない問題(物語)を書いてしまった作家は「不正解」ですね。
これが「作家は考えさせる葦でなければならない」ということなのです、はい。
いやぁ、書くって楽しいですね。その楽しさを知っている私たちは幸せだなぁ。
なんというか、文章を書くことによって、書かれない部分をも感じ取らせなくてはならない、みたいなものですかね。特に短編書くときに、必要性をひしひし感じるテクニックだと、私は思っています。いや短編難しいです。本当は長編でも使いこなさなきゃいけないのですが。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
どこでどうすれば良い、という明確な指針がありませんからね。作者の感覚頼りです。難しいからこそ違いが出て楽しいとも言えますが、頭は悩ませますよね。