第14話 妹に泣かれないと気づかなかった件
「お兄ちゃん……」
杏を彼女の自宅付近まで送ってから急いで帰宅した。すると電気もつけないリビングでひざを抱えて丸くなっている弥生の姿が目に入った。
「弥生……」
「……ぐすっ」
弥生はもこもこの部屋着で両目をぬぐった。
「泣いてるの……?」
「…………」
弥生は僕を無視して顔を膝の間に埋めてしまった。
「ごめん。僕――」
「謝らないでよ!」
弥生が甲高い声で叫ぶ。
「お兄ちゃんは正しいと思ってたんでしょ! 杏さんと付き合うこと! 弥生のことをないがしろにすること! 水瀬ちゃんに冷たくすることも! 全部!」
「そんなこと――」
「そんなことないならもっと周り見てよ! お兄ちゃんが大切だと思うもの、ちゃんと大切にしてよ!」
弥生の泣きはらした目が僕を射抜く。
「ごめん。僕が間違ってたよ」
「…………」
「杏みたいなかわいい女の子と付き合えたことで調子に乗ってた」
「……わかったならいい」
「ごめんね。弥生」
「……ギュッとしてくれたら許す」
僕より一回り小さい弥生をぎゅっと抱きしめる。走って家に帰ったからだろうか。もこもこの部屋着越しにじんわりと熱を持った湿り気を感じる。
「……お兄ちゃんは杏先輩のこと好きなの?」
「…………」
僕は咄嗟に頷くことができなかった。
こんな弥生の姿なんて見たくなかった。
両親が不在にすることが多い家で協力しながら生活してきたのだ。その積み重ねた時間や兄妹という切っても切れない縁、中学二年生という年齢にも関わらず僕のような兄を慕って好いてくれる”家族愛”を――
僕は杏が好きと言う気持ちと天秤にかけることができない。
「明日から元通りにするよ」
自分の気持ちに蓋をして僕は続ける。
「朝はちゃんと起きる。最近は夜まで杏と通話してたから寝坊気味だったし。朝ごはんもちゃんと作るし、掃除もする。思い返してみたらリビングの窓もしばらく開けてないよね。空気が淀んでいる気がする。洗濯は――普段は弥生がやってくれたけど、Yシャツとかのアイロンがけは手伝うよ」
「うん」
「たまには一緒にゲームでもしよう。半年くらい前に父さんが買ってくれたパーティーゲーム、あれ二人であんまりやれてなかったし」
「うん」
「もうご飯中にスマホはいじないし、杏とは――」
「それは焦らなくていいよ」
弥生が控えめに僕の背中に手をまわす。
「弥生も――お兄ちゃんに幸せになって欲しいけど……」
「けど?」
「お兄ちゃんの好きな女の子と付き合っていいよって言いにくいや」
恥ずかしそうに言った弥生は僕の胸に顔をうずめる。
「そっか」
「お兄ちゃんはわからないかもしれないけど――お兄ちゃんが思ってるより、弥生はお兄ちゃんのこと、好きだよ?」
「ありがと」
「お兄ちゃんは弥生のこと、好き?」
「うん。好きだよ」
「……よかった」
しばらく同じ力で抱きしめ続ける。
どれくらい時間が経っただろう。どちらかともなく力を緩めた僕と弥生はお互いの顔を見つめ合って笑い合った。こうして弥生と笑えるのはいつぶりだろう。そう思ってしまうくらいにはここ最近の僕は弥生のこと、ちゃんと見ていなかった。
「今日はお風呂入ったら寝よう。明日からちゃんとするために」
「うん。そうだね。弥生、実は汗だくなんだよね」
「走ってたしね」
「汗臭くなかった?」
「弥生はいつもいい匂いするよ」
「……なんか変態っぽい」
「えっ?」
「汗臭くないって言ってくれればよかったのに」
「ご、ごめん」
「一緒にお風呂入ってくれたら許してあげる」
「流石に一緒には入れないよ」
「えー」
「えーじゃない」
しょうがないから一人で入ってくるよ。そう言い残した弥生をリビングから見送って、僕は杏にLINEをした。
《ごめん。弥生のこときちんとしたいから、しばらく話すのは学校だけにしよう》
そのLINEにはすぐに既読が付いたが、《わかった》という一言が帰ってきたのは日付が変わる直前になってからだった。
× × × × ×
翌日、久しぶりにちゃんとした朝食を作り、弥生に合格点を出してもらってから僕は登校した。杏も水瀬とも一緒ではない通学路は久しぶりで一周まわって新鮮だった。
教室に入る。久しぶりにクラスの友達と雑談をしていると「最近付き合い悪いぞ」「二年の先輩と付き合っているからだろ?」「たまには俺たちの相手もしろよ」と軽口を言われて、これもまた久しぶりだなと思ってしまった。
(杏と付き合ってからの僕はダメダメだったな)
弥生の言葉を思い出して改めて周りをしっかり見ようと思った。
だから水瀬にも謝ろうとした。
でも水瀬の席はホームルームが始まっても空っぽだった。
「葵は今日も休みだな――睦月。お前、家近かっただろ? 悪いけどプリント届けてくれるか?」
「わかりました」
そういえば水瀬を学校でしばらく見ていない。いや見ていないことに気づいていなかった。最近の僕は学校で水瀬のことを視界にいれようともしていなかった。それほど杏に夢中だった。
だから気づくのに遅れてしまった。
水瀬があんなにボロボロになっていることに。
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