第12話 幼馴染のことは忘れることにした件

「壬君、あたしと付き合わない?」


 あの修羅場から一週間後。学校の中庭の目立たないベンチで一緒に昼食を食べてるときに僕は杏先輩に告白された。

 上目遣いで僕を見つめる杏先輩はとてもかわいくて、僕は水瀬の顔なんて思い出すこともなく頷いてしまった。


「うれしい」


 そう言って僕の左腕に抱き着いてくる杏先輩の胸は柔らかくて、髪からは甘くていい香りがして僕はどうにかなってしまいそうだった。

 理性で身体を押しとどめて不器用にへたくそに杏先輩を抱きしめる。杏先輩ってこんなに小さいんだと感じる間もなく抱き返される。

 どれくらいの時間抱きしめ合っていただろう。僕の力が緩んだ隙をついて杏先輩が猫のようにするりと腕の中なか抜け出す。


「壬君ってあったかいね」

「杏先輩も」

「杏」

「えっ?」

「もう先輩呼びはなしにしよう」


 だって恋人同士だし。


「杏」

「なぁに壬君」

「杏と恋人になれて嬉しいです」

「よかった。あたしもだよ?」


 どちらかともなくまたハグをする。杏の甘い香りにクラクラして、どうにかなってしまいそうだった。きっと昼休みの終わりを告げるチャイムがならなければ自分に歯止めが効かなかっただろう。


×   ×   ×   ×   ×


教室に戻る。始まった数学の授業は左耳から右耳に抜けていく。自分の席に座ってもまだ杏の熱が取れない。残っている気がする甘い香りを追い求めてしまう。

スマホが震える。杏からのLINEだった。


《これからよろしくね。彼氏くん》


 その短い言葉に舞い上がって授業中にもかかわらず他の人には見せられないような気持会悪い顔をしてしまう。あんなにかわいい杏と付き合うことになったのが本当に信じられない。有頂天とはこのことを言うのだろう。

 ふと視線を感じて顔を上げる。目の先には水瀬がいて――


「――ッ」


 驚きの表情で僕のことを見た。

 周りが見えなくなっていた僕はそういえばあの修羅場の日からロクに水瀬と話していなかったなーと思って目を逸らした。水瀬の顔に浮かぶ絶望の色なんて気づきもしなかった。

 それから間もなく水瀬からもLINEが来た。


《あの女と付き合うの?》


 一瞬、無視しようかと思ったが杏とLINEしているときに水瀬からもLINEが来たので誤って既読をつけてしまう。


《あの女って誰?》

《とぼけないで》

《己巳とかいうリストカット女よ》

《あのさ》

《先輩を呼び捨てするのもリストカット女呼ばわりするのも酷いよ》

《なにが?》

《いきなり壬のこと奪っていった女のことなんて嫌いよ》

《どんな呼び方してもいいじゃない》

《よくないよ》

《少し落ち着きなよ》

《己巳先輩と付き合うことにしたの?答えて》

《それ答えたら落ち着くの?》

《いいから教えて》

《付き合ってるよ》

《どうして?》

《私のことはどうでもいいの?》


(どうでもいいよ)


 思わず入力してしまった七文字を消す。どうして杏と付き合うことを水瀬に報告しなければいけないのか。どうして水瀬の顔色を窺わなければいけないのか。

 その後、いくつか来た水瀬のLINEは全て無視した。授業の残り時間は全て杏とLINEに費やした。ニヤニヤした顔でずっと下を向いている僕を教師は快く思わなかったはずだが、注意はされなかった。


 授業終了のチャイムが鳴る。それと同時に水瀬が勢いよく僕の席にやってきて――


「来て」


 有無を言わさず僕の左手を掴んで立ち上がらせるとずんずん廊下を進んでいく。

 非常階段の踊り場まで僕を連れてくると、水瀬は勢いよく僕の左手を離して詰め寄った。


「どうしてあんな女と付き合うの⁉」

「またそれ?」

「またって……どうして? どうして私の気持ちはどうでもいいの?」

「どうでもいいよ」


 自分の中の糸が音を立てちぎれる音を聞いた。


「僕は二回も水瀬のことを振った。僕は誰とも付き合ってない。僕が誰と付き合おうと水瀬には関係のないことでしょ?」

「関係なくない! 私の、私は――」

「重いよ」

「お、重い……?」

「僕はずっと水瀬の隣にいたでしょ? 何年も何年も水瀬に優しくしてきたでしょ? 遠足の時に独りぼっちでご飯を食べるしかなかった水瀬の、林間学校で仲間外れにされた水瀬の、教師すらも近寄らなくなった水瀬の、ずっとずっと近くにいたでしょ?」

「…………」

「そんな僕の優しさを振り払ったのは、渡したプレゼントを拒否したのは水瀬でしょ?」

「…………」

「それなのに突然戻ってきて結婚しようとか、僕が何回も振っているのに他の女の子と付き合うのを許さないのとか」


 全部全部重いよ。支えきれないよ。優しくなれないよ。


「でもね水瀬、僕は幼馴染としての水瀬は大切なんだよ。だから――」

「わかったわ」


 涙混じりの声で水瀬が立ち去る。水瀬の表情は振り乱した髪で見えなくて、だから僕は手の甲に触れた水滴に気づかないフリをした。


「うまくいかないな……」


 水瀬のこと、傷つけたくなかった。でも水瀬に僕を諦めてもらわないと杏と付き合えない。

 そんな単純なわかりきったことを、僕はうまくできない。

 そしてそんな感情は、水瀬の涙は、杏からのLINEで忘れてしまう。

 僕は酷い奴なのだろうか。

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