021 出立
──行け。
振り返るな!
……?
貴様みたいなやつが、その子に触れるんじゃない!!
……暗闇の中で、声が聞こえる。
──ソウル・マジック──『■■■■■■■』
「▲#%■$@●*!!」
声にもならない叫び声は、痛みとなって脳を揺さぶる。
今にも頭が割れそうだと、そう思った時だった。
一瞬だけ、周囲の闇が晴れた。
そして、目の前に今まであった闇よりももっと具体的な、形を持った恐怖が現れた。
女だ。
全てを恨む憎悪の瞳。
怒りで顔に醜い皺が寄り、その大きな火傷の顔をさらに不気味に仕上げている。
そしてその女は、毒々しい
「殺してやる!」
◇
「──!!!!」
少女は飛び起きた。
額には汗が吹き出し、呼吸は荒く、心臓は激しく脈打っていた。
何事が起きたのかとフレイヤはあたりを見渡すが、洞窟の中は寝る前と変わらない。隣ではエミリアが寝ており、洞窟の入り口付近ではコウスケが毛布にくるまっている。
崩れかけた蝋燭だけが、机の上で静かにその時の流れを告げていた。
「な、何、今の……」
◇
「やぁっぱり、冬の山はこれだろう!!」
「きゃぁああああ!?」
エミリアの楽しげな声が、森に響く。
フレイヤの悲鳴が、山を越える。
フレイヤを同じスキー板に乗せ、前に抱きかかえるようにして、エミリアは森の中を縫うように滑り降りていく。
「わぁああ!前、前!大木よ!ぶつかるわ!!」
「だあいじょうぶさ!
そういってエミリアが体を大きく傾かせると、瞬時に視界が切り替わり、新たな雪原が現れる。
「こ、こんどは岩が!!」
「そうれ!!」
エミリアは軽々と行く手を阻む自然の建造物を躱していく。
その動きといったら、まるで流水のように滑らかだった。
雪に残す軌跡は美しい弧を描き、思うがままに道を切り開く。
その速さといったら、まるで空を飛ぶ鳥のようだった。
風を切る爽快感は冬の寒さを忘れさせ、鼓動を軽やかに奏でさせる。
自由自在に山を駆け下りるその体験は、フレイヤにとって感じたこともないほどに力強く、また胸の高鳴るものだった。
「そら、見てごらん、フレイヤ。」
「──わぁ!」
そうしてたどり着いた景色は、息をのむ絶景だった。空を突き刺す真っ白な雪山が、朝日に照らされ薄紅色に輝いている。どこまでも透き通る青空は山々の遥か彼方にまで続き、うっすらと見えている星の元まで吸い込まれていきそうだった。
「いい景色だろう?あたしがここいらで見つけた一番の景色さね。
山頂からの景色もいいが、山の中腹から見ると山の迫力をも感じることができるんだ。
特に朝はいい。空気が澄み切って遠くまでよく見える。」
「すごいわ。【イヴィング】の街じゃいつも雪が降っているから、こんなにも晴れ渡った空を、輝く山を見るのは初めてよ!」
「そりゃあ、よかった!」
目を輝かせるフレイヤを一息の間眺めてから、エミリアは再び口を開いた。
「……どうだい?少しは気が紛れたかい?」
「え──?」
「だって、出立するときも顔色、悪かったじゃないか」
「……!」
フレイヤは頬に手を当て、顔を洗うようなしぐさをする。
「だ、大丈夫よ?問題ないわ。
その、ちょっと眠れなくて疲れてしまっただけだから、心配しないで。」
「フレイヤ。」
エミリアはフレイヤを後ろからそっと抱きしめる。
「こんな状況だから無理もないことだろうけれど、あまり気を張りすぎるのは体に毒だ。
人間は逃げる生き物じゃない。何かに追われている生き物じゃない。
生きるために行動しようとする生き物だ。
生を彩る生き物だ。
だから、こういう苦しいときこそ、それを忘れさせてくれるようなものを見るといい。」
「……」
「──なーんて、もっともらしいこと言っているが、これは受け売りでね。私の恩師がよく言っていた言葉なんだよ。」
「恩師?」
「ああ。その人は自由人でわがままでね。ほんと、テキトウな人だった。
『仕事?そんなもの、人間の生きる時間の一部でしかないのに、お前はなんで一日の大半を仕事で終わらせるんだ?』って言って一日中遊んで全然仕事をしないのさ。
困った話だろ?
けど、
だから、フレイヤ。」
「うん?」
エミリアは輝く山を見つめる。
「今は追われる身だ。
これからも、敵に追われるかもしれない。
戦い続けなくてはいけなくなるかもしれない。
けれど、それから逃げることを、戦うことを、生き残ることだけを考えていたら、心は──魂は、死んでしまう。
楽しみのない人生は、死んでいるのと変わらない。
あんたには──そんな苦しい人生は、送らないでほしい。」
「……」
エミリアはフレイヤの肩を軽くたたく。
「さあて、それじゃあ後ろに置いてきたコウスケを少し待ったら、今度は一人で滑ってみようか!」
◇
「随分と滑れるようになったじゃないか。」
「そ、そうかしら?」
「ああ。コウスケなんかよりもよっぽどうまい!」
昼過ぎ。朝に見た向かいの山の中腹で、彼らはスキーの板を平行に滑らせる。
「でも、まだエミリアさんのように、杖もなしで滑られないわ。」
「ははは!いきなり杖なしに滑られたら、こりゃあたしの立つ瀬がなくなっちまうねぇ。
でも、丈夫さ。
今でも十分フレイヤは上手だ。心配しなくても、気が付いたときにはできているよ。」
「本当に?」
「ああ。コウスケも、そう思うだろ?」
「……そう、だな。」
「ったく、歯切れが悪いねぇ。」
「……」
フレイヤはちらりとコウスケを見る。コウスケは黙々と足を進めており、常にエミリアたちの後ろにいた。けれどそれは決してスキーが不得手だったと言う訳ではなく、常に背後を警戒してのことだった。彼はいつも二人の後ろに注意を配り、彼女たちを守っていた。そして今も周囲を警戒していることを、フレイヤは分かっていた。
「──おじさん。」
「なんだ、フレイヤ。」
「その……今度は、わたしが“しんがり”をするわ。」
「!!」
その言葉に、コウスケはひどく驚いた。虚を突かれた顔をするコウスケに、彼女はスキー板を器用に動かして歩み寄る。
「だって、わたし、ずっと守ってもらってばかりだもの。思えば、エミリアさんの家にたどり着くまでの10日間、わたしはずっとコウスケさんに守られていたわ。
──わたしも、命を狙われているのに……」
「!!いや、それは──!」
「エミリアさんが言ったの。『戦い続けていたら、疲れてしまう』って。」
コウスケは否定しようとするが、その言葉を遮ってフレイヤはつづけた。
「だから、きっとコウスケさんはひどく疲れているわ。それなのに、ずっと一人大変なことを任せているのは、気が引けるもの。
わたし、たしかに戦うことはできないけれど、見張りくらいはできると思うわ。
だから──」
「いや、俺は大丈夫だ。……君は、気にしなくていい。」
「そういう訳には……」
「それに──」
コウスケは少女の優しさをひしひしと感じながら、彼女のエメラルドの瞳から目を逸らす。
「俺は──こう、しなければいけないんだ……」
「?それは、どういう──」
フレイヤがコウスケの言葉の真意を確かめようとした、その時だった。
「二人とも、伏せろ!!」
エミリアの声が空気を割った。
そして同時に、フレイヤとコウスケは頭上を覆う敵意を感じとった。
「これは──木の、枝!?」
「フレイヤ!!」
コウスケはフレイヤの腕を引っ張り、強引にその場に伏せさせる。
「エミリア!」
「分かっている!」
エミリアのつがえた弓に、光が集う。
眩いばかりの白い魔力。
それが彼女の弓の中で形を成し、一本の矢を形成した。
「ソウル・ブレイク!」
コウスケ達の頭上に迫る敵意に、その矢は放たれた。流星のごとき速さでそれはその“枝葉の群れ”を貫き、飛散させる。
「す、すごい。空を覆うほどたくさんあった枝が、一撃で……」
「今のがエミリアのソウル・ブレイクだ。俺のものよりはるかに威力が高い。」
コウスケはそういって立ち上がり、フレイヤに右手を差し出す。
「立てるか?」
「え、ええ。大丈夫よ。」
その手を取った時、彼女はコウスケが腰から下げている黒い銃に目が留まった。
この片手で扱う武器もまた、今のようにあの枝葉の群れを打ち抜いていた。
それを思うと、少しだけ、その伸ばした手が強張った。
「……ね、ねえ。今の枝って、確か【イヴィング】でも見た魔法だわ。ということは──」
「ああ。ヴァルキリーズが、すぐそこまで迫っている。」
「コウスケ。今のソウル・マジックは……」
二人に駆け寄るエミリアが、枝の飛んできた方向を睨みながら尋ねる。
「ああ。あの枝はスキールニルの『使者の呪い』の
「やっぱり、あのフラーテルの腹心か!」
「ああ。あれはあいつが得意な『植物魔法』と『ソウル・マジック』との複合技だ。魂に呪いをかけて意のままにその生命体を操る精神支配の魔法。そいつを
そして、奴の魔素量はフラーテルの部隊ではフラーテルに次ぐ量を持っている。」
「ってことは、すぐに
「なんだ。」
「今度はあたしが
「……大丈夫なのか?あれはソウル・マジックだぞ。それに、あいつがいると言うことは、フラーテルもいるはずだ。だったら俺が殿を──」
「いいや。それはだめだ。」
心配そうな顔をするコウスケに、エミリアはぴしゃりと言う。
「こいつはきっと罠だ。
たしかにあの魔法はソウル・マジックだが、幸いにもソウル・ブレイクで打ち破ることができるものだ。
だが逆に言えば、ソウル・ブレイクを使うしかない。」
「……」
「あんたは4回しかソウル・ブレイクを使えないんだ。ここで使い切ったら相手の思うつぼだぞ?それくらい、分かっているんだろ?」
コウスケはフレイヤを一瞥する。
「……わかった。後ろは任せる。
けれど、応戦は最低限にしてくれ。」
「ああ。
──それじゃあ、フレイヤ。コウスケと一緒に先に行きな。」
「……大丈夫、なの?」
エミリアは不安げなフレイヤの頭をなでると、白い歯をのぞかせて笑って見せた。
「大丈夫さ。あたしの戦場での
それにすぐ後ろにいるから、離れ離れ、なんてことはないよ。
だから心配するよりも、あたしの雄姿を目に焼き付けておいておくれ。」
「……わかったわ。」
フレイヤは頷くと、コウスケの隣に立つ。
「じゃあ、また後で!」
「ああ。
……そっちは任せたぞ、コウスケ。」
「分かった。」
二人が森の奥へと滑り去っていくのを見送ってから、エミリアは枝が飛んできた山に向かってニヤリと笑う。
「それじゃあ、いいとこ見せるとしようか!」
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