003 一人の男

 食事を済ませた後、コウスケは一人ソファに案内され、フレイヤは鼻歌交じりに皿を洗っていた。


「お客さんはくつろいでいてくださいな。」


 そう少女は言ったが、彼はどうにも落ち着かないようだった。妙に背筋を正し、差し出された紅茶に手を付けることはなかった。彼はただじっと暖炉の炎を見つめ、その目が熱に焼かれることに耐えているかのような、酷く張りつめた表情をしていた。


 (──どうすればいい?)


 男は心の中で、炎に問いかけた。

 すると炎は「ごぉ」と大きく燃え上がり、薪を崩した。火花が散り、舞い上がった灰は熱を失って冷気に消えた。

 彼は数刻前の出来事を思い起こす。踵を返そうとした時、吹雪にも負けない大きな声で、自分を呼び止めた少女のことを。


「なぜ……俺を呼び止めたんだ……」


 彼は嗚咽に似た呻き声を発し、息も絶え絶えに小さく呟いた。

 

「俺は、彼女を──」

「ん?どうかしましたか?」

「!!あ、いや──」


 突然キッチンから顔を覗かせた少女に男は動揺し、視線を泳がせながら中年臭い下手くそな返事を考えた。


「──その、君の……手伝いを、と──」

「手伝い?」

「あ、ああ。ほら、こんな寒い日に水洗いは手が悴むだろう?だから──」

「ううん。大丈夫よ。おじさんはお客様なのだから、くつろいでいて下さいな。」

「そ、そうか……」

「ええ。それに、おじさん、脚を怪我しているのでしょう?」

「──え?」


 男は全身の毛がよだつのを感じ、恐る恐る少女に尋ねた。

 

「……どうして、気が付いたんだ?」

「だって、ここに来るまでずっと体が傾いていたんだもの。」


 フレイヤはコウスケの問いに胸を張って答える。


「脚をケガしたときは、そうでない方に体を預けたくなるものだわ。わたしも経験があるから分かるのよ。」

「……」


 男はしばらく目を丸くして驚いていた。それは彼女が自分の体の状態について気付いたことが、信じられないと訴えている顔だった。

 故に、少女は困惑した。


「あの、もしかして、お客さんの怪我をいたわるのって、作法的によくなかったのかしら……?」

「……え?あ、ああ、いや……」


 男は我に返り、下手くそな愛想笑いを浮かべて頭を振った。


「そんなことはない。気遣いには感謝しているよ。ただ……」


 彼は視線を落とし、暖炉の炎の音よりも小さな声で、呟いた。


「……それほどまでに俺が弱っていた、というだけ、だな……」

「?」

「いや、気にしないでくれ。それよりも──」


 彼は首を傾げるフレイヤに、戸惑いながらも小さな違和感を投げかけた。


「さっき……その、経験があると言っていたが、山で滑ったのか?」

「──」


 コウスケの言葉に、フレイヤは皿を拭く手を一瞬止めた。


「……うん。そんなところよ。」

「…………」


 彼はしばらく黙って彼女を見つめていたが、何かに急かされるように言葉を発した。


「その、ふれ……」

「フレイヤでいいわ。」

「……なら、フレイヤ。」

「何かしら?」

「──、どうしたんだ?」


 朗らかな笑顔が途端に曇る。彼女はその真っ白な肌に似合わぬやや赤く腫れた頬をさすり、慌てて笑顔を作ってコウスケにその理由を言った。


「これは──その、街でちょっと、転んでしまったの。」

「ええと…………」

「ほ、本当よ?」

「……そ、そう、か。」

「うん……」

「────」


 視線を落とした彼女を見て、男は奥歯を噛んだ。そこまで尋ねておいて結局何もしない選択を選んだ己を、彼はすぐさま呪った。

 彼は、分かっていた。”悪いこと”をして”死んでしまった父”を持つ少女が、街でどんな目で見られるのかを。

 

 そして何故、そんなことになってしまったのかすらも──。

 

 だが己を呪うほどの悔恨を抱いているのに、彼はどうすればいいのか、全くわからなかった。だから何もできない彼は、目の前の出来事に対してしか言葉を紡ぐことが出来なかった。

 

「……な、なぁ、フレイヤ。」

「うん?何かしら?」

「やっぱり……手伝おうか?」

「ううん。大丈夫よ。おじさんは休んでいてくださいな。

 それに、この家のものは生まれた時からずっと使っているから、扱いなれているの。子供だけれど、一枚だってお皿を割ったことはないのよ!」

「そう、か……」


 彼女の胸を張って見せるちょっとわざとらしい笑顔が、彼を急き立て、責め立てた。


「……俺は、明日には出ていくよ。」

「えっ!?」


 フレイヤはひどく驚き、思わず持っていた皿を落としそうになった。そして慌てて皿を掴み直し、コウスケから顔を逸らした。


「あ、いや、そう、よね。だっておじさんは、旅をしている・・・・・・のよね。

 こんな、一年中雪の降る辺境の街にとどまっていたら、風邪を引いてしまうわ。」


 彼女は肩を落とし、残念そうに言った。

 男は彼女が目に見えて気を落としている理由が分からなかった。一般的に考えて、初対面の人物との別れを惜しむ理由などそうそうあるものではないからだ。

 だが彼女にとって、コウスケという人間は特別だった。

 「夢で見た人」であるコウスケが誰なのか、どうして夢に出てきていたのか、それを知りたいと思っていた点で引き留めたいと思っていたのは間違いない。

 だが、同時にもう一つ彼女には理由があった。彼女には一日中語り合えるような友人も、普通に挨拶を交わす隣人すら、いなかったのだ。そんな中で命を救い、普通に会話までしてくれる人が現れた。己の憧れを叶えてくれる存在に出会ったのだ。それを一時であれ失いたくないと思うのは、子どもなら当然だった。


「あっ、だったら!」


 彼女は皿を持ったまま、コウスケに詰め寄った。


「明日、わたしは街に買い物にいくの。その時に一緒に出ませんか?」

「買い物?」

「ええ!そうなの!

 買い物って、一人で歩いて行くより、二人でいる方が、きっと楽しいと思うの!

 ──あ、いや、その!」


 少女は再び頬を赤らめ、適当な言い訳を探し出した。


「もしかしたら道中、狼が出るかもしれないし……」


 コウスケはためらったが、少女のせがむような瞳を見て、断ることが出来なかった。そして彼は大きく息を吸い込み、覚悟を決めたように・・・・・・・・・彼女に言った。


「……ああ。わかった。一緒に行こうか。」

「やった!……じゃ、なくて……ええと、その、よろしくお願いします!」





「……」


 フレイヤが案内した二階の部屋で、コウスケは一人ベッドの上に腰かけた。

 長く使われていなかったとフレイヤは言っていたが、その布団は新品同様の質感を保っていた。干したての太陽のような暖かな匂いが、柔らかな毛布から薫ってくる。古びた木造の床には埃一つなく、隅々まで綺麗に磨かれていた。

 彼女がどれだけこの部屋を──この部屋の主を大切に思っているかが、コウスケにはすぐに分かった。


 それが余計に、コウスケの心を突き刺し、軋ませた。


「あぁ──これが、俺の──罪、か。」


 彼は呻き、壁に掛けられている一つの肖像画を見つめる。

 顔の輪郭を覆うように生えた茶色の髭。海のように深い紺碧の瞳。その顔立ちは凛々しく、何者にも負けない“戦士”の顔であった。

 コウスケはその油絵の視線から顔を逸らし、自嘲するように、小さくつぶやいた。



「……ああ、本当にたくましい子だよ。あんたの娘は……」



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