002 一人の少女
◇
「はい、たくさん食べてくださいね!」
差し出されたのは光耀くホワイトシチュー。少し黄色みがかったクリーム色のスープが、天井にまでとどくあたたかな湯気を立ち上らせる。
少女は自らを助けた男を家に招き、料理を振る舞っていたのだ。
「さあ、食べて!今日はご馳走だわ!」
彼女は満面の笑みで対面に座り、男が手を動かすのを待っている。
しかし一方の男は、シチューに手を付けるのをためらった。
「いや、その……馳走になるわけには……」
「遠慮しないでください。
だって、おじさんはわたしの命の恩人だもの。命の恩人には感謝を伝えるものだわ。そうでなければ神様の罰が当たってしまうもの。それに──」
「夢で見た人のことを知りたいと思った」という言葉を呑み込み、彼女は小さくうなずいて胸に手を当てる。
「──助けてもらったらお礼をいいなさいって、わたし、母から言われてきたわ。そして誰かに助けてもらったのは、今日が初めてなの。だから、精一杯の感謝をしたいの。」
「……」
「あっ──」
無言の男に、少女ははっと口を抑えた。
「もしかして、シチューでは駄目だったのかしら!?
ごめんなさい!
わたし、人を家に招くなんてことしたことがなかったから、おもてなしの作法にとても疎くて……」
「あいや、そういう訳ではないんだ。だが……君がそういうのであれば、ありがたくいただこう。」
男は慌てて両手を振り、肌触りの良い木製の匙を手に取った。
「……」
口いっぱいに独特の甘みと塩気が広がり、つづいてやってくる温もりが男の頬を緩ませる。
しかしその表情は美味しさに幸福を感じているのではなく、どこか安心しているようだった。
「どう?お口にあったかしら?」
「……ああ。とてもおいしいよ。こんなにうまい飯は……食べたことがない。」
「ほんとに!?あー、よかった!」
少女は安心したというよりも、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「料理を誰かにふるまうなんて初めてだったから、少し不安だったの。
でもおいしかったのならよかったわ!まだまだあるから、たくさん食べてくださいな。」
そう言ってから、少女ははっとして両手をやわらかな頬にあてる。
「ごめんなさい。初対面の人にこんなにはしゃいでしまうなんて、迷惑になってしまったかしら?」
男は一瞬固まったが、小さく笑みをこぼしてみせた。
「いや。そんなことはない。俺も、人と話をするのは2週間ぶりだ。
……君と会話ができることは、本当に……うれしいよ。」
「そうなの?それならよかったわ。」
彼女は安心して自身のシチューを口に運ぶ。
対して男の手は止まり、彼女の穏やかな表情を見て言葉を漏らした。
「君は……どうして俺なんかをこの家に──」
「え?」
「ああいや、その、君は……会話をするのが、好きなのか?」
男は慌てて言葉を濁した。
「ええと、随分と楽しそうに話すのだな、と……」
「えっ!そ、そんなに顔にでていたのかしら?」
「ま、まぁ……」
「でも、うーん。どう、なのかしら?」
彼女は頬を押さえたまま、自分でもどうだったのかと首をひねる。
「たしかに誰かと”お話”がしたいなぁとはずっと思っていたわ。憧れ、といえばいいのかしら?」
「……憧れていた?」
その言葉に男は眉を顰め、背筋が寒くなるのを感じ取った。
「ええ。
それが”好きだ”ということなのかどうかは考えたことも無かったけれど……
でも、おじさんはわたしの言葉に返事をしてくれるわ。それがとても嬉しいのは、きっと事実だと思うわ。」
「まて。それは……
「?」
首を傾げる少女に男は躊躇い、言葉を選ぶ。
「ああ、その……君のように明るい子なら、話くらい麓の街に行けばいくらでも──」
「ええと、その……街の人とは、あまり仲が良くなくて……」
力なく笑う彼女に、男は口を閉じた。
そしてやっぱりそうだったのかと、彼は悔恨にくれた。
「そう、か……」
彼はそれ以上尋ねるのをやめた。
彼は何故か匙を強く握りしめ、口にはもうシチューなど入っていないのに強く奥歯を噛んでいた。
と──。
「あっ。そういえば、まだ自己紹介をしていなかったわ!
ええと、たしかこうだったかしら?」
彼女は慌てて立ち上がって服の裾を持ち上げ、まっすぐ男の目を見て言った。
「わたしはフレイヤ。ニョルズとスカジの娘、フレイヤよ。あなたは?」
「────」
男は一瞬、口を固く結んだ。そして視線を落とし、小さく答えた。
「……俺は、イトウ・コウスケ。孤児だから、両親の名前は分からない。」
「あ──」
少女は
「ごめんなさい!
……そうよね。この作法は随分昔のものだって、そう本に書いてあったのを忘れていたわ。ここは戦争の絶えない世界『カーニッジ』。今は両親のいない子供は──
「いや──」
「そういうわけではない」そう言おうとして、コウスケは再び口をつぐむ。そして男の代わりに、フレイヤが口を開いた。
「で、でも、随分と珍しいお名前なのね?ええと……コウ……スケさん?だったかしら?」
「ああ。俺は、このカエルム帝国の出身ではないんだ。」
「そうなの?じゃあどこかしら?テッラ王国?それともアクア連邦の島国のどこかなのかしら?」
「俺の出身は……そうだな。島国の1つだよ。」
「そうなの?じゃあ、アクア連邦ってことよね!そうなると、おじさんはここまで来るのに相当長い旅をされているのね。この【イヴィング】の街からアクア連邦の海域に出るまで、馬で2ヶ月はかかると本に書いてあったわ。」
「そう、だな……本当に……長い旅だよ。」
彼女の言葉にコウスケはどこか疲れたような、そんな顔をして見せた。
けれど彼女は、その表情に気が付かなかった。
「いいなぁ。わたしも旅をしてみたいわ。わたしはこの街から出たことがないの。」
「そう、なのか──」
フレイヤの言葉に、コウスケの表情が曇る。そして、彼は言葉を詰まらせながら尋ねた。
「……出ようとは、思わなかったのか?街の人とは……仲が、良くないんだろう?」
コウスケの問いに、フレイヤは肩を竦める。
「うーん、何度か出ようかなと思ったのだけれど、踏ん切りがつかなくて。」
「……理由が、あるのか?」
「まあ、ね。」
フレイヤは理由の代わりに苦笑を返す。
しかしそれは一瞬で、彼女は再び口を開いた。
「その、家族を──
「───────」
コウスケは爪を手の平に突き立て、苦悶の表情を噛み殺した。フレイヤに見られないようにと視線を落とし、蝋燭に照らされて輝く白いシチューを凝視した。
そしてまるでその光がまぶしいと言わんばかりに強く目を閉じ、彼は押し殺すように小さく言った。
「この家には──
「え?ええ、そうなの。一人になって、もう10年になるわ。」
「──10年も、一人で──」
窓から吹く隙間風が、二人の間を駆け抜ける。机の上に置かれた蝋燭の炎が、コウスケを急かすように揺らめいた。
「……その……何が……あったんだ……」
「それは……」
「いや、いい。余計なことを聞いた。忘れてくれ。」
「ううん。いいの。たいしたことでは、ないから……」
フレイヤは言うのをためらったが、不思議とすぐに会話を続けた。
「その……父は何か“わるいこと”をして死んでしまったそうなの。10年前に。母はそのせいで偉い人に連れていかれてしまったわ。だから、わたしはずっとひとりなの。」
「それで、母親を待っているのか……
それは──寂しかった、だろ……」
コウスケの言葉は、隙間風にかき消されそうなほど小さかった。彼はごつごつとしたその拳を強く握りしめ、少女の返答を待った。
「確かに、ちょっとね。でも、もう慣れちゃったし、わたし覚えているの。」
「何を……?」
「本当にわずかな記憶しかないけれど、家族3人で暮らしたときの記憶。」
「……」
「……母も父も、強くて優しい人だったわ。母はとっても物知りな学者で、父はこの国の騎士だったそうなの。私が分からないことがあると母は何でも教えてくれたし、父は私を肩に乗せていろんな景色を見せてくれたわ。」
フレイヤは風に揺れる窓を見る。窓の外に広がっているのは漆黒の闇だけだったが、彼女はその先にある景色を眺めながら、穏やかにコウスケに言った。
「……父は、家にいる時はいつも外で稽古をしていたわ。それを、わたしはこの窓からじっと見ていたの。父は仕事で家にいないことの方が多くて、父との記憶は母との思い出に比べれば少ないけれど、いつも稽古が終わる頃に私が“ごはんだよ!”って呼ぶと、笑顔を返してくれたわ。その笑顔が、わたしにとっては宝物なの。」
少女ははにかみ、少し寂しそうに肩を竦めた。
「たったそれだけだけれど、わたしにとってそれだけあれば、この10年生きてこられたわ。」
「……」
「それにね、神様だって味方してくれたの。ほら!」
彼女は首の後ろに手を回し、そのブロンドの髪で隠された銀の首飾りを外す。そして彼女は、服の下に隠してあったあるものをコウスケに見せた。
「父が死んで3年目の『ユールの祭日』の朝、これが机の上にあったの!」
「それは……」
コウスケは痛々しそうに”それ”を見つめた。
「父の指輪よ。きっと神様が、一人でいるわたしにこれを授けてくださったんだわ。」
「……」
「あー、信じていないんでしょ?神様なんていないって。でも本当よ?
だってあのユールの日から、私はパンだけでなくて、新鮮なお野菜も、おいしいお肉の切れ端も街で
「そう、か……」
「ええ。だから私は大丈夫だったわ。この10年間、その思い出とこの指輪が私を支えてくれた。だからちょっと寂しくても、気にすることなんかないの。生きろって、神様が言ってくれたんだから。」
大丈夫だ──そう言う彼女を見て、コウスケは視線を再びそらした。
胸の張り裂けそうな内容を話す彼女を見ていられなくなった、もしくは初対面の自分にそんなことを言った理由が分からず困惑した、そういった理由もあるのかも知れない。しかしこのときの彼の表情は、苦悶に満ちたものだった。
そして小さく──まるで自分を責めるように──彼はつぶやいた。
「……君は、強いんだな。」
「ふふ、そう?」
フレイヤは微笑むと、指輪のネックレスを首にかけなおす。
「でも、今年でわたしはもう15歳だわ。もう、大人なんだもの。弱音なんて、吐いていられないじゃない。」
彼女の笑顔は儚く穏やかだったが、ひび割れたガラスのように、痛々しかった。
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