ソウル・ガン ―黄金の少女と隻眼の魂喰者―

猫山英風

第1章

001 出会い


 炎。

 それは全てを焼き尽くし、奪い去る。


 玄関へと続く見慣れた廊下は、もはや地獄の道だった。

 暖炉のような温もりはそこになく、身を焼く悪魔が我が物顔で踊っていた。


 揺らめく炎は蛇のように壁を這い、頬を焼いた。

 立ち昇る煙は虫のように部屋を舞い、目を潰した。

 既に悲鳴を上げる力はなく、少女わたしは悪魔の前に膝をついた。


 だが──


 その炎の中から “わたし”を連れ出した男が一人、いた。


「いいか、よく聞くんだアカリ。」


 男は手を伸ばし、焼けただれた頬をそっと撫でる。


「お前は逃げろ。ここから離れて、安全なところで待っていなさい。できるな?」


 男は“わたし”を見つめる。

 その眼差しは迫りくる炎よりも熱く、その手は春の日差しのように温かかった。


 “わたし”がうなずくと彼は小さく微笑み、踵を返した。


「必ず戻る!」


 そう言って男は炎の海へと飛び込んだ。

 彼の拳は黒煙を切り裂き、その一歩は炎を蹴散らす。

 広く厚い背中は逞しく、全てに抗う強靭な魂が宿っていた。



 ──けれど、決して戻っては来ない、そんな予感があった。



 だから、“わたし”はその背中に手を伸ばし、ありったけの声を振り絞って叫ぶのだ。


『待って──お父さん!!』


 そして──



 屋根は、崩れ落ちた。






「──」


 雲が少女の視界に広がっていた。

 今にも落ちてきそうな灰色の空。その空から滲み出るように、一つまた一つと白い綿が舞い降りる。


「……気絶してしまっていたのね。」


 エメラルドのような鮮やかな瞳を閉じ、少女は白い息を吐く。


「また、同じ夢……」


 自分の知らない場所、知らない家で、知らない男が、知らない“自分”を火の中から救い出す夢だ。何の覚えもない景色を夢に見ることは稀にあると少女は聞いたが、彼女がそれを見るのは、決まっていつも体に痛み・・を覚えた後だった。

 少女は起き上がり、服についた雪と汚れを払い落とす。


「いたっ」


 口の中に広がる鉄の味。

 彼女は口元に手を当て、その指先をじっと見つめる。彼女の赤いブラウスと同じ深紅の血が、白く小さな指の先で宝石のように煌めいていた。


「包帯はまだ家にあったわよね……」


 煉瓦でできた家と家の間。細く薄暗い路地裏から見える景色に、少女は再びため息をこぼす。

 曇天にまで続く長い坂。真っ白な絨毯を貫くように、黒い肌をした木々が雪山を覆っている。その果てなき斜面のどこかに、彼女の住む家があった。


「遠い、な……」


 太陽は陰り、夜が近づいている。

 吐く息は白く、吸い込んだ空気が肺を凍らせる。

 彼女は悴むかじかむ足に鞭を打ち、全身の痛みをおさえつけて歩き出す。


「……お父さん、かぁ。は、会えたのかな……」


 彼女は雪の上に落ちている赤い毛糸のマフラーを拾い上げ、小さく首をふった。


「なにを言っているの、フレイヤ。

 大丈夫。わたしは大丈夫よ。だってわたしはもうすぐ15になるのよ。もう大人になるんだから、弱音なんて吐いてなんかいられないわ。

 ──それにもう、今日は誰にも遭わないはずだもの。痛いことなんて、ないわ。」


彼女はそういうとマフラーを首に巻き直し、煉瓦の路地裏から逃げるように駆けて行った。


その小さな胸を、抑えながら。





 夜の森は厳しい。

 気温は氷点下をゆうに下回り、肌を突き刺し心臓を凍らせる。踏み出す足は遅くなり、瞼は次第に重くなる。

 雪が降っている時はさらにひどい。

 一歩踏み出すその先が崖かどうかもわからない。その空気の冷たさに息をするのもつらくなり、身も心も寒く寂しくなっていく。

 月も星もない完全なる暗闇が支配する日ともなれば尚更だ。手の平にのる小さなランタンただ一つを頼みの綱にするのは、ひとりぼっちの少女にとってはあまりにも細い蜘蛛の糸だった。


「困ったわ。わたし、迷子になってしまったわ。」


 振り返れば、数歩後ろにあるはずの足跡は深い夜に飲み込まれてしまっている。このままでは自分も夜に消えてしまうのではないか──そう、震えた時だった。


「!」


 前方から、獣の鳴き声がした。

 狼だ。

 高い遠吠えは雪の夜に冷たく響き、彼女の足をすくませる。


「──この声、もう近くにいる……早く、帰らなきゃ。」


 彼女は行く先も見えぬ中、足を動かした。

 きっと獣は自分の居場所が分かっている。この場に立ち止まっている方が危険だと、彼女はそう思ったのだ。

 しかし、雪山というものは冷酷だ。人の意思とは関係なく、その表情は刻一刻と変わっていく。静かな積雪は轟々と鳴る吹雪に変わり、雪を踏む音はさらに固く重くなった。冷気は体温を奪い、霞む視界が気力を奪った。故に雪山が少女の動きを封じるのに、時間はかからなかった。


 そしてそれを、山の獣が見逃すはずもなかった。


「あっちへ行って、お願いだから!」


 少女は小さなランタンを掲げ、己を取り囲んだ獣に力の限り叫んだ。

 しかしひ弱な彼女の声を、獣が警戒するはずはない。


「──だ、だめだってば!」


 獣の殺気を肌で感じたその瞬間。闇の中から真っ赤な口が少女の視界に現れた。


「きゃっ!」


 少女は倒れ込み、間一髪で狼の牙から逃れる。

 だが狼は瞬時に態勢を整え、闇の中から倒れた少女に再び襲い掛かった。


「来ないで!“光よルクス”!」


 一瞬の陽光。

 彼女の手から放たれた眩い光が、狼たちを怯ませる。


「はぁ、はぁ。

 わたしの知っている魔法じゃ、これが限界なの。だからお願い。これでどこかに行って!」


 しかし彼女の思いとは裏腹に、狼たちは再び距離を縮める。彼女の両手から溢れた光は目くらましには成り得ても、威嚇にはほど遠いものだったのだ。


 そして今、一匹の狼が歩み出た。


 他の獣より一回り大きい体。吹雪の中ですら轟く唸り声。獣の長だと、少女は直感した。


「──」


 爛々と輝く瞳に身体がすくむ。

 一歩また一歩と獰猛な口が近づくたびに、息が止まる。

 

 なす術の無くなった獲物に、獣は容赦などしない。狼はひときわ大きくうなり声をあげ、牙をむき出しに飛びかかった。



 その時だ。



 それは、彼女の聞いたことのない音だった。



 山に落ちる雷のような、空気を割る音。

 岩をも砕く荒波のような、揺らぎのある残響。


 それに続いて、燕が風を切って飛ぶときのような一瞬の風圧が耳を掠めた。

 流れ星に似た小さな光が、自分の背後から狼に飛び込んでいくのを、彼女は見た。


 気が付くと狼はぐったりと倒れていて、他の狼たちはもう少女を見ていなかった。彼等は少女の背後の闇に向かって牙を向き、おびえる目で必死にその敵を見定めようとしていたのだ。


 少女は、振り返った。

 自分を襲った獣を倒した、何者かを見るために。

 そして彼女は、一人の人間を見た。

 黒いフードを深々と被り、黒いマントで体を覆った人間死神を。


 まるで夜を纏ったようなその人物の手には、見慣れない金属の筒が握られていた。その人物はその筒を空に向け、そして何か・・をした。


「!!」


 吹雪が、静寂へと変わった。

 全ての音を打ち砕き、彼の発した音だけが世界を支配した。

 その音は先ほど少女が聞いたものよりも大きく、嵐の音よりも強く激しかった。

 

 少女を脅かしていた狼たちが、その音に恐れをなして一目散に逃げていく。


「え──」


 少女も驚きはしたが、それでも彼女は逃げ出そうとはしなかった。彼女はそれよりも、そのフードの下の顔に釘付けになっていたのだ。


「あなたは──」


 そこにあったのは、男の顔。

 顎のがっしりとした、戦士の顔。

 全く会ったこともない、会話をしたこともない男だ。


 だが、彼女は知っている。


 たとえどれだけ年を重ね、その風貌が変わっていようとも、彼女はその男を“知っていた”。

 なぜなら彼女は、その瞳を、その眼差しを、何度も“夢”でみていたのだから。


 そう。

 そこにいたのは、あの男だった。

 炎よりも強い眼差しを向ける、夢の男だったのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る