ソウル・ガン ―黄金の少女と隻眼の魂喰者―
猫山英風
第1章
001 出会い
炎。
それは全てを焼き尽くし、奪い去る。
玄関へと続く見慣れた廊下は、もはや地獄の道だった。
暖炉のような温もりはそこになく、身を焼く悪魔が我が物顔で踊っていた。
揺らめく炎は蛇のように壁を這い、頬を焼いた。
立ち昇る煙は虫のように部屋を舞い、目を潰した。
既に悲鳴を上げる力はなく、
だが──
その炎の中から “わたし”を連れ出した男が一人、いた。
「いいか、よく聞くんだアカリ。」
男は手を伸ばし、焼けただれた頬をそっと撫でる。
「お前は逃げろ。ここから離れて、安全なところで待っていなさい。できるな?」
男は
その眼差しは迫りくる炎よりも熱く、その手は春の日差しのように温かかった。
“わたし”がうなずくと彼は小さく微笑み、踵を返した。
「必ず戻る!」
そう言って男は炎の海へと飛び込んだ。
彼の拳は黒煙を切り裂き、その一歩は炎を蹴散らす。
広く厚い背中は逞しく、全てに抗う強靭な魂が宿っていた。
──けれど、決して戻っては来ない、そんな予感があった。
だから、“わたし”はその背中に手を伸ばし、ありったけの声を振り絞って叫ぶのだ。
『待って──お父さん!!』
そして──
屋根は、崩れ落ちた。
◇
「──」
雲が少女の視界に広がっていた。
今にも落ちてきそうな灰色の空。その空から滲み出るように、一つまた一つと白い綿が舞い降りる。
「……
エメラルドのような鮮やかな瞳を閉じ、少女は白い息を吐く。
「また、同じ夢……」
自分の知らない場所、知らない家で、知らない男が、知らない“自分”を火の中から救い出す夢だ。何の覚えもない景色を夢に見ることは稀にあると少女は聞いたが、彼女がそれを見るのは、決まっていつも体に
少女は起き上がり、服についた雪と汚れを払い落とす。
「いたっ」
口の中に広がる鉄の味。
彼女は口元に手を当て、その指先をじっと見つめる。彼女の赤いブラウスと同じ深紅の血が、白く小さな指の先で宝石のように煌めいていた。
「包帯はまだ家にあったわよね……」
煉瓦でできた家と家の間。細く薄暗い路地裏から見える景色に、少女は再びため息をこぼす。
曇天にまで続く長い坂。真っ白な絨毯を貫くように、黒い肌をした木々が雪山を覆っている。その果てなき斜面のどこかに、彼女の住む家があった。
「遠い、な……」
太陽は陰り、夜が近づいている。
吐く息は白く、吸い込んだ空気が肺を凍らせる。
彼女は
「……お父さん、かぁ。
彼女は雪の上に落ちている赤い毛糸のマフラーを拾い上げ、小さく首をふった。
「なにを言っているの、フレイヤ。
大丈夫。わたしは大丈夫よ。だってわたしはもうすぐ15になるのよ。もう大人になるんだから、弱音なんて吐いてなんかいられないわ。
──それにもう、今日は誰にも遭わないはずだもの。痛いことなんて、ないわ。」
彼女はそういうとマフラーを首に巻き直し、煉瓦の路地裏から逃げるように駆けて行った。
その小さな胸を、抑えながら。
◇
夜の森は厳しい。
気温は氷点下をゆうに下回り、肌を突き刺し心臓を凍らせる。踏み出す足は遅くなり、瞼は次第に重くなる。
雪が降っている時はさらにひどい。
一歩踏み出すその先が崖かどうかもわからない。その空気の冷たさに息をするのもつらくなり、身も心も寒く寂しくなっていく。
月も星もない完全なる暗闇が支配する日ともなれば尚更だ。手の平にのる小さなランタンただ一つを頼みの綱にするのは、ひとりぼっちの少女にとってはあまりにも細い蜘蛛の糸だった。
「困ったわ。わたし、迷子になってしまったわ。」
振り返れば、数歩後ろにあるはずの足跡は深い夜に飲み込まれてしまっている。このままでは自分も夜に消えてしまうのではないか──そう、震えた時だった。
「!」
前方から、獣の鳴き声がした。
狼だ。
高い遠吠えは雪の夜に冷たく響き、彼女の足をすくませる。
「──この声、もう近くにいる……早く、帰らなきゃ。」
彼女は行く先も見えぬ中、足を動かした。
きっと獣は自分の居場所が分かっている。この場に立ち止まっている方が危険だと、彼女はそう思ったのだ。
しかし、雪山というものは冷酷だ。人の意思とは関係なく、その表情は刻一刻と変わっていく。静かな積雪は轟々と鳴る吹雪に変わり、雪を踏む音はさらに固く重くなった。冷気は体温を奪い、霞む視界が気力を奪った。故に雪山が少女の動きを封じるのに、時間はかからなかった。
そしてそれを、山の獣が見逃すはずもなかった。
「あっちへ行って、お願いだから!」
少女は小さなランタンを掲げ、己を取り囲んだ獣に力の限り叫んだ。
しかしひ弱な彼女の声を、獣が警戒するはずはない。
「──だ、だめだってば!」
獣の殺気を肌で感じたその瞬間。闇の中から真っ赤な口が少女の視界に現れた。
「きゃっ!」
少女は倒れ込み、間一髪で狼の牙から逃れる。
だが狼は瞬時に態勢を整え、闇の中から倒れた少女に再び襲い掛かった。
「来ないで!“
一瞬の陽光。
彼女の手から放たれた眩い光が、狼たちを怯ませる。
「はぁ、はぁ。
わたしの知っている魔法じゃ、これが限界なの。だからお願い。これでどこかに行って!」
しかし彼女の思いとは裏腹に、狼たちは再び距離を縮める。彼女の両手から溢れた光は目くらましには成り得ても、威嚇にはほど遠いものだったのだ。
そして今、一匹の狼が歩み出た。
他の獣より一回り大きい体。吹雪の中ですら轟く唸り声。獣の長だと、少女は直感した。
「──」
爛々と輝く瞳に身体が
一歩また一歩と獰猛な口が近づくたびに、息が止まる。
なす術の無くなった獲物に、獣は容赦などしない。狼はひときわ大きくうなり声をあげ、牙をむき出しに飛びかかった。
その時だ。
それは、彼女の聞いたことのない音だった。
山に落ちる雷のような、空気を割る音。
岩をも砕く荒波のような、揺らぎのある残響。
それに続いて、燕が風を切って飛ぶときのような一瞬の風圧が耳を掠めた。
流れ星に似た小さな光が、自分の背後から狼に飛び込んでいくのを、彼女は見た。
気が付くと狼はぐったりと倒れていて、他の狼たちはもう少女を見ていなかった。彼等は少女の背後の闇に向かって牙を向き、おびえる目で必死にその敵を見定めようとしていたのだ。
少女は、振り返った。
自分を襲った獣を倒した、何者かを見るために。
そして彼女は、一人の人間を見た。
黒いフードを深々と被り、黒いマントで体を覆った
まるで夜を纏ったようなその人物の手には、見慣れない金属の筒が握られていた。その人物はその筒を空に向け、そして
「!!」
吹雪が、静寂へと変わった。
全ての音を打ち砕き、彼の発した音だけが世界を支配した。
その音は先ほど少女が聞いたものよりも大きく、嵐の音よりも強く激しかった。
少女を脅かしていた狼たちが、その音に恐れをなして一目散に逃げていく。
「え──」
少女も驚きはしたが、それでも彼女は逃げ出そうとはしなかった。彼女はそれよりも、そのフードの下の顔に釘付けになっていたのだ。
「あなたは──」
そこにあったのは、男の顔。
顎のがっしりとした、戦士の顔。
全く会ったこともない、会話をしたこともない男だ。
だが、彼女は知っている。
たとえどれだけ年を重ね、その風貌が変わっていようとも、彼女はその男を“知っていた”。
なぜなら彼女は、その瞳を、その眼差しを、何度も“夢”でみていたのだから。
そう。
そこにいたのは、あの男だった。
炎よりも強い眼差しを向ける、夢の男だったのだ。
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