後編

 私は昔から雨が好きだった。

 雨音のBGM。

 カエルの合唱。

 雨独特の匂い。

 特に幼稚園の頃の私は、雨が降るとお気に入りのレインコートを着て、はしゃいでいたらしい。

 小学校に上がると、流石にはしゃぎ回ることはなくなったが、雨が好きなことに変わりはなかった。雨音を聞いていると落ち着くし、物語の世界にも、すんなりと入り込むことができた。

 この時間は、誰にも邪魔されたくない。それは高校に入った今でも変わらない。

 ――でも、今の私の隣には水島さんが居た。

 水島さんは不思議と、傍に居ても気にならない。それは居ても居なくても変わらない、どうでもいい存在というわけではなく、水島さんは一緒に居ると安心する人だった。

 私が薦めた本を褒めてくれるのが嬉しい。

 本の感想を語り合うのが楽しい。

 ただ一緒に居るだけでも、心が落ち着く。

 最近の私は本を読み終えると、つい水島さんの顔を探してしまう。本を読みながら笑ったり、険しい顔をしていたり、そんな水島さんの表情を窺うのも私の楽しみだった。

 雨音を聞きながら、先に本を読み終えた私は、今も水島さんの顔をチラチラと見ていた。自分がこれだけ他人に関心――いや、執着していることに少し戸惑う。あまり見ていると気まずくなりそうなので、視線を逸らそうとしたが、丁度その時、校内放送が聞こえてきた。

『もうすぐ最終下校時刻です。校内に残っている生徒は、速やかに下校してください』

 静寂を破る、無粋な音だと思う。顔を上げた水島さんと、目が合ってしまった。

「もうそんな時間か。ごめん、声かけづらかった?」

「ううん。私もさっき本を読み終えたばかりだから」

 一応、嘘は言っていない。水島さんの顔を見ていたのも1分程だった。

 いや、1分は長いか? 私は誤魔化すように笑った。

「雨はどうなった?」

 水島さんは外に目をやった。私も釣られて外に目が行く。

 1時間半前の雨は何だったの? とツッコミたくなるくらい、外の様子は落ち着いていた。風はほぼなく、小雨がパラつく程度。雲も黒から白に近い灰色に変わっていて、こんな天気でもさっきと比べると明るくなっていた。

「結局、雨は止まなかったね。帰る時は止んでてほしかったけど……」

 水島さんは残念そうに言う。でも私は、内心喜んでいた。雨はだいぶ弱まった。諦めていた計画を実行できるかもしれない。

 ――後は傘さえ調達できれば。

 私がそんなことを考えていると、視界の端で水島さんがカバンからスマホを取り出しているのが見えた。画面には『電話帳』の文字が見える。

「えっ……?」

 私の声に驚いて、水島さんが手を止めた。

「……? まだ雨が降ってるから、お母さんを呼ぼうと思ったんだけど……」

 確かにそんなことを言っていた。私は慌てて「ちょっと待って」と言ってしまった。

「ほら、職員室に行けば先生から傘を貸してもらえるかもしれないし」

「別に遠慮する必要はないよ? 車は嫌だった?」

「そういうわけじゃ……ないんだけど……」

 歯切れの悪い私を見て、水島さんは首を傾げた。彼女からしたら、車を使わない理由が分からないのだろう。車の方が早く家に着くし、濡れなくてすむ。私だって車の方が合理的だと思うし、水島さんのお母さんが苦手なわけでもない。

「もしかして、何か用事とかあるの?」

 墓穴を掘ってしまったかなと、私は思った。計画も別に今日無理して実行する必要もない。何でもないよと言って誤魔化そうと思ったが、水島さんに心配そうな顔をされて、それもやりずらくなってしまった。

 計画のことは話したくない。たぶん、変に思われてしまう。だが、納得のいくことを言わなければ、彼女は余計に気にしてしまうだろう。

 もう話してしまうしかなさそうだった。

「…………あのね、水島さん。実は私、今日わざと傘を忘れたんだ」

「……? 何で?」

 水島さんは、さらに首を大きく傾げる。当然の反応だった。

「その……少し前に読んだ小説にね、主人公が友達と相合傘をして帰るシーンがあって、私そういうのに少し憧れていて、やってみたいなぁって思ったの。それで……私が傘を忘れていたら、水島さんが入れてくれるかな……って思って」

「でも予想に反して、私も傘を忘れていたわけね。 ……なんかごめん」

「ううん。私が勝手に傘を忘れただけだから、水島さんが気にすることじゃないよ。それに私は、傘を忘れたって嘘を付けばよかっただけで、本当に忘れる必要はなかったし」

 よく考えてみれば、その通りだった。私は肝心なところで抜けている。先生に傘を借りることを直ぐに思い付けないあたり、アドリブ力もなかった。

「森下さんも、案外うっかりなんだね。でも私は今日、森下さんと一緒に居れて楽しかったよ」

 水島さんがそうフォローしてくれた。自分の失敗が恥ずかしかったが、一緒に居れて楽しかったのは私も同じだった。

「私も今日は水島さんと一緒に居られてよかったと思うよ。雷の時、隣まで来てくれて凄く嬉しかったから。それに安心できたよ」

 結局雷は2発で終わりだったが、私ひとりだったら次の雷がいつ来るか不安で、中々落ち着けなかっただろう。

「本当? それならよかった。私も嬉しい」

 水島さんは照れくさそうに――でも言葉通り、嬉しそうに笑った。可愛い。その顔を見られただけでも、私は改めて教室に残ってよかったなと思った。

「じゃあ、こうしようか」

 水島さんはそう言うと、スマホをカバンにしまった。

「お母さんを呼ばないの?」

「うん。まず職員室に行ってみて、傘を借りられたらそれで帰ろう」

「で、でも……それは私のわがままだし」

「森下さんは相合傘したかったんでしょ? 私も何だかしてみたくなったんだ。それに、『教室に残ってほしい』って私のわがままを叶えてもらったから、これでおあいこだよ」

「教室に残ったのは、そうせざる得なかったからで、水島さんのわがままってわけじゃあ……」

 何だか釈然としない。だが水島さんは、いやいや私のわがままを聞いてくれているわけではないようだった。彼女の子供っぽい楽しそうな笑顔を見ていると、些細なことはどうでもいいように思えた。


 2人で職員室に行くと、傘を2本渡されてしまうかもしれないので、水島さんが1人で職員室に行ってくれた。貸出用の傘は、職員室にいつも用意されていたらしい。1年以上学校に通っていても、知らないことは結構あるものだ。

 背の関係で傘は水島さんが持つ。当初の予定とはだいぶ違ってしまったが、私は水島さんの傘に入れてもらうことになった。

 傘は思っていたよりも狭く、私達は体がぶつかりそうな距離で、水を跳ねないように足元に注意しながら歩く。距離の近さにドキドキする。こんな理由で雨が好きになるとは、思ってもいなかった。

 幼稚園の頃を思い出す。あの頃の私は、母親の傘を抜け出してはしゃいでいた。あの頃から、私は人に合わせることが苦手だったのだと思う。

 ――でも今は、多少窮屈でも、誰かと一緒に歩いて行きたいと思っている。

 私は水島さんの方を見た。彼女は私を庇って肩を濡らしているが、嫌な顔をせずに笑っている。ドキドキしっぱなしの私と違って楽しむ余裕があるらしい。自覚があるのか分からないが、その優しさも余裕も、何だか悔しかった。

「水島さん。楽しそうだね」

「うん。楽しいよ。相合傘って久しぶりだし、それに森下さんと一緒だからかな」

「私と……?」

「うん。森下さんと一緒に居るのが一番落ち着くし、それに森下さんのこと、好きだからさ」

「……」

 水島さんから好感を持たれていることは、私も知っている。好きと言われるのも嬉しい。

 だが、その『好き』がどういう『好き』なのかは判断ができなかった。私と同じ『好き』なのか、単純に友達として『好き』なのか。たぶん、後者なのだろう。

 不意に雨が勢いを増した。傘を叩きつける雨音が私の心を揺さぶる。

 その雨音に紛れるように、私は小声で呟いた。


『私も水島さんのこと好きだよ。 …………愛してる』


 私達は無言のまま歩く。さっきの言葉、聞かれてしまったかなとも思ったが、水島さんは特に反応を見せない。どうやら聞こえなかったようだった。

 聞こえなかったのなら、それでもいい。私は臆病だから、今の関係が崩れてしまうのも怖い。

 ――だからもう少しの間、その雨音で私の恋心ドキドキを隠してほしい。

 私は水島さんの袖を引っ張った。

「水島さん。もう少しこっちに寄ってくれる? 肩濡れてるよ」

「えっ……でも、そうしたら森下さんが」

「小説でそういう展開があったの。それもやってみたかったんだ。だから、ほら」

 私は強引に水島さんを引っ張って腕を組む。実際に、小説にもそういうシーンは本当にあった。読んでいた時はじれったいなぁと、思っていたが、私も人のことは言えなかった。

 水島さんが中央に寄った関係で、私が押し出されて肩が濡れた。でも不快感はなかった。むしろ、この感覚も愛おしく感じられた。

 私の気持ちは、きちんと水島さんに伝えるつもりだ。

 その勇気が出るまで――もう少しだけ、この雨が続いてくれればいいのにな。

 肩を濡らしながら、私はそんなことを思った。

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この雨がまだ続けばいいのに 白黒灰色 @sirokuro_haiiro

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