3−3
四角形に配置されたベンチのうち、直角に隣り合った二辺それぞれに俺たちは座っている。他に人の姿はない。黙っていると、無音の大きさが皮膚レベルで感じられる気がしてくる。
俺は彼女が話し始めるのを待つ。相手のタイミングに委ねているのではなく、単に何を打ち明けられるのかわからず怖いだけだ。
遠くで子供が何事か叫ぶ。それをきっかけとしたように、彼女が小さく息を吐いた。
「わたしは今日、刺される覚悟を持ってここへ来ました」
刺される、と俺は口の中で繰り返す。誰が、誰に? わからない。いずれにせよ穏やかな話ではない。
「そうなっても仕方のないことをわたしはしました——しているんです」
口調こそ落ち着いているが、スカートの上で組み合わされた拳は小さく震えている。とりあえず、俺は武器になりそうな物は何も所持していないことを彼女に示した。それで安心したのか、彼女を取り巻く空気がいくらか和らいだ。「やっぱり、アプリに狂いはないようですね」そう言って彼女は鞄に手を入れ何か取り出した。すわスタンガンか、と今度はこちらが脅える番だったが、幸い武器ではなかった。
携帯端末。彼女は人差し指を滑らせ操作していく。やがてそれを俺の方へ差し出してきた。示されるまま覗き込むと、見覚えのある画面が表示されていた。マッチングアプリが起動している。今、端末に出ているのはそのトップ画面だ。彼女そっくりのアバターのバストアップが、静かに微笑みながらこちらを向いている。
「この子はわたしのアバターです」
俺は頷いた。この子。
「彼女はわたしの人格を模して作られた存在です。あなたのアバターもそうであるように」
俺はまた頷く。彼女は一度唇を湿らしてから、再び話し始めた。
「こういうの、他の人と比べたことがないのでわかりませんが、わたしたちの場合は少し状況が特殊なんです。その、関係性というか、そういうものが」
わたしたち。
「お気づきかもしれませんが、わたしはこの通りぼんやりした人間です。何をするにも人より倍の時間が掛かって、よく柱とか壁にぶつかります。比喩ではなく物理的に。だから、こういうアプリを使っても、最初の設定だけで疲れて、長い間ほったらかしにしてしまいます」
このアプリを使っている人間の大半はそうじゃないですか、と俺は言う。そう滅多に柱や壁にぶつからないとはいえ、やはり俺も大別すれば彼女と同じ側に属する人間だ。
今度は彼女が、俺の言葉を咀嚼するように頷いた。
「そうかもしれません。でも、あなたにとって、あなたのアバターは、あなたの一部ではありませんか?」
考えてみる。ログを読んでいた時、その〈恋愛〉を実行している主体は俺自身だったのか。はたまた別の誰か——例えば映画や小説の主人公として見ていたのか。恐らくは前者だが、ではこうして彼女と相対している俺自身かといえばそれも少し違う。強いて言うなら、アバターは俺の器官の一つだ。手や舌や目のように、外部の情報を自分の内へと取り込むための感覚器というのが一番近い。それは彼女の伝でいうと俺の一部であることになるのだろう。そして彼女の口ぶりからして、彼女にとってはそうではないのだろう。
「この子は」と、彼女が言った。その目は端末の画面に落ちている。「わたしとは違う一個の存在です。わたしにとっては、一人の人間です」
それは心の持ちようの問題なのでは?
「そうかもしれません。けど、わたしには、この子がしたことを自分がしたこととして受け入れることができないんです」
つまり?
「つまり、あなたの恋愛の相手は、わたしではなくこの子だということです」
頭の上でカラスが鳴いた。広げた翼の全長が五メートルはある怪鳥かのように、その鳴き声は大きく聞こえた。残響がすっかり消えてしまうまで、俺は何も考えることができなかった。
やがて、真っ暗闇にポッと灯る火のように、言葉が浮かんだ。
今、フラれた?
「いえ、そういうわけでは」俺の言葉は声に出ていたらしく、彼女は慌てたように首を振る。「あなたを好いているのがわたしではないというだけの話であって、これまでのことをなかったことにしたいわけではありません。むしろ、なかったことにされては困るんです。この子のためにも」
彼女は再び端末を操作する。それから、音声認識機能でも使っているのか、何事か語りかけたりもする。それはどこか、内気な女子の告白の場に立ち会うお節介な友達のようにも見える。そんなものアニメや漫画でしか見たことないが。
端末の画面がこちらへ向けられた。画面の中では、先ほどまで静止していた彼女のアバターが頬を赤くし、もじもじと肩を揺すっていた。
『あの……初め……まして……』
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