第12話

 スイッチを押すと同時に目を閉じて、海水の吸い上げられる音を聴く。轟音というほどの音はしないが、床からジリジリと振動が伝わってくる。

 ピッチが上がっていくにつれて振動は徐々に収まり、空間が安定していく。

 目を開けば、砲身と天井の隙間から夕空の光だけが、相変わらず薄暗い部屋に差し込んでいた。

 ……

 もう一つ、光が見える。

 どこも明かりは点けていないのに、この部屋の入り口の扉から光が漏れている。

 誰かが灯台砲に入ってきたのだ。

 空間が安定したと言っても、部屋のひとつやふたつ、いや外からでもこの振動と音を感じることはできるだろう。

 乾いた足音の誰かは、当然こちらへ向かってくる。

「一体誰が……」

 病院を抜け出してきたのだ、看護師や職員が必死に私を探しまわっていることだろう。近くにいるのなら、灯台砲の異変に気がつくかも知れない。

 しかし、灯台砲に入ってくることはできないはずだ。彼らは研究員でも軍人でもないのだから。

 直線的な足音は止まり、瞬間にガコンと重い扉が開く。

 私を探していて、灯台砲に入れる者、それからこの足音に、一切の迷いのない動き。

「みっけ」


 大体、見当はついている。


「ルアさん……」







「帰ろう!」

「直球ですね……」

「当たり前でしょ、そのために来たからね?大変だったんだからー」

「どうして此処にいるのが分かったんですか?」

「ん?灯台砲が変な方向に向いてたから?」

「それはそうでしょうけど……どうして港の方に来ようと思ったんですかってことですよ」

「うーん」

 眉をへの字に曲げて腕を組み、右の手は顎に絵に描いたような困り顔。本当にわざとらしい。

「何となく?」

「はぁ……」

「たっっっため息っっっ……!?」

「リアクション芸をしても私は帰りませんよ」

「それに……帰ったところで、もう意味はないですから」

「ふーん」

 彼女はリアクションのついたおかしなポーズから一転して直立、真顔で少し首を傾げる。

「"もう"って何?さっきまでは意味があったの?」

「なんか、灯台砲がぐぉんぐぉん鳴ってるのと関係ある?」

「……」

「何か悪いことしてるの?私、止めた方がいい?」

 もうじき、雨は降り始める。

 今更誰にバレようと、灯台砲を止められようと雨は必ず降る。だからもう無理に隠す必要もない。

 でも、彼女はいい人だ。

 このまま何も知らずにいて欲しい。

 大切な記憶を失うかも知れないなんて恐怖を味わうことも、その元凶が私だということも、何も知らないで欲しい。

 きっと、悲しんでしまう。

 ただ本当に何も知らないまま眠って欲しい。

 何か、伝えるべきことは……

「……ルアさんって恋人いましたっけ」

「えっ、なに急に」

 流石に一瞬驚いた素振りを見せた。

 だか次の瞬間には悪巧みの顔に切り替わって

「ふふーん」

「知りたい?うーんどうしよっかなぁ?さっきの私の質問に答えてくれるなら、考えてやらんことも〜〜〜ない」

「伸ばすところ合ってます?それ」

「そんなことはいいのよ、さぁどうする?」

「じゃあいいです」

 えぇぇぇ〜〜〜みたいな顔。

 今日は特にリアクションが激しい。

「うーん、灯台砲がぐぉんぐぉん鳴ってる理由は教えてくれないってことだよね?」

 薄赤紫の髪を手櫛でときながら、また少し真面目な顔になる。

「それってさ、ミオちゃんにとって大事なこと?」

「……」

「君が誰かを想ってやってること?」

「……」

「これぐらいは答えてくれてもいいでしょー?」

「そう……ですね。とても大事なことです」

「そのために誰かを傷つけてない?」

「……ええ」

「自分を傷つけてない?」

「……ええ」

「それで、君は本当に満足する?」

「もちろん」

「そっか」

 ルアさんはゆっくりと目を閉じて少し微笑んだ。こういう顔をするときの彼女は、やっぱり羨ましいぐらい綺麗だ。

 本当に。

 でも、彼女は切り替えが早いから、この顔を見るのはいつも短い時間で終わってしまう。

 凛とした目で、またこちらに向き直る。

「うん、よし!分かった!」

「私と約束しよ」

「約束?」

「ミオちゃんが何をしているのか知らないけど、大事なものを傷つけないって君が言うなら私は信じるよ」

「だから止めないし何も聞かない、君は君なりの信念があるんでしょ?でも、その代わりお願い」

 目の前で、目線の高さを合わせて彼女は言う。

 あぁ。だから。本当に。

 うんざりするくらい表情の豊かな人だ。

「帰っておいで」

 帰る、か……

 彼女は雨のことを知らないからそんなことが言えるのだ。

 私が帰ったところで、何も変わらない。

 いや……彼女なら雨のことを知っていても同じ台詞を言うかも知れない。

 彼女がこんなことを言う理由はきっと、皆んなが心配しているからでも、私の怪我の悪化や体調を心配しているからでもない。

 たぶんこの人は、私をひとりにさせたくないんだ。



 例え意味がなくても、こんな私でも、そんな彼女の思いを蔑ろにはしたくない。

「分かりました……約束です」

「うん、よーし。良い子だー」

 怪我をしている左腕は避けるようにしてくれているけど。

 また、あの微笑みと抱擁で胸が苦しい。

「う……やめてください、子供みたい」

「子供じゃないの?」

「くっ……」

「冗談。ごめんってー」

 いつものように子供扱いを嫌ったけど、隠し事に目を瞑ってもらって「帰っておいで」だなんて。

 今だけは、とても子供じみているかも。

「ルアさんも、すぐに帰るんですか?」

「うん?そうだね、そのつもりだけど」

「……あの、さっきの私の質問覚えてますか?」

「あー恋人がいるかって?ふふん、仕方ないなー。約束に免じて答えてあげよう」

 ふぅ、とひと息。

「いるよ、恋人。とても優しい人」

 容姿端麗な彼女のことだし、そうだろうと思ったけどやっぱりいたんだな。

「ていうか、ミオちゃんは?そろそろいても良いでしょー」

「えっ、私ですか?いや私はそんな……その、いませんよ……」

「ちぇっ……つまんなー」

「まぁ、研究ばかりしていましたから」

「……………ケイさん?」

「がっ!」

「がっ……?」

「(しまった……)」

「ふーーーーん」

「にやにやしないで下さい……じゃなくて、それは置いといて」

 はぁ、とひと息

「恋人、逢いに行ってあげて下さい」

「今から?」

「今から」

「あー」

 彼女は天井の隙間から差す光を手で遮って、僅かな空を覗き込む。

「そうだなー……雨降りそうだし、明日でも良いかなぁ?」

「いや!」

 想像以上に張った声が出てしまった、彼女も少し驚いた顔をする。

「あ……今から逢いに行って下さい。傘なら出口の側に何本かありますよ。私はひとりでも、病院には必ず帰りますから」

 彼女は少しだけ驚いた顔のまま、数回の瞬きで私を読み取ろうとする。

「そう……分かった。じゃあ、そこまで言うなら逢いに行こうかな」

 それから間もなく、ふたりで透明な傘を持って今にも降り出しそうな曇天へ出る。

 どのくらい中にいたのだろう、久々に光を浴びた感覚がある。

「じゃあ、ちゃんと帰るんだよ」

「はい、必ず」

 また後で。






 一番最後に、嘘をついてしまった。

 あぁいや、その前にもひとつ嘘をついていた。ついてしまった。

 ルアさんの「誰かを傷つけていないか」という問いに対して、私は「ええ」と。

 記憶を失わせようとしておいて、一体どの口が言ったものか。

 彼女は私を信じると言ってくれたのに、知らない方が幸せだという私のエゴで彼女を騙した。

 もう、謝ることもできなくなる。


 何を忘れるのかは、個人差なんてものじゃ済まない。血の匂いや戦の憎悪とは程遠い人、例えば平穏な地の幼子なら殆ど変化は無いだろう。

 だが、もし雨の効果が強く作用すれば、一体何をどのくらい忘れてしまうのか。

 それは本人しか、いや、本人すらも分からない。

 脳の発達のわりに身体の小さい私には、特に強く作用する可能性は十分にある。

 もしそうなれば、研究所に入ってからの日々も忘れてしまうかも。

 灯台砲の開発チームも、イドさんや街の少年も、ルアさんもケイさんも、忘れてしまうかも知れない。

 私が辛いと思う資格はない、皆同じ様に失う。奪う。

 これは私の勝手な覚悟だが、せめて怖い思いをするのは私だけでいい。

 雨が止んだ後の世界はどうなっているんだろう。

 雨を降らせたのが自分だということも、そもそも雨の存在自体忘れてしまうから、目が覚めた時に思い描いた理想を掴めたかどうか知る術はない。

 もしかしたら、ちょっと記憶が無くなったぐらいじゃ、世界から血の匂いは消えないかも知れない。

 付き合いの浅い人は赤の他人になるかも知れない。

 悲しいな。

 あまり知らない建物や道具は未知の物体に。

 名前が書いてある物もあるだろうから困惑するだろうな。

 少年少女は勉強が台無しにならないといいな。

 何にせよ暫くは大混乱、世界が安定するまで何年かかるだろうか。

 でも、その先に

「新しい世界があるといい」

 思いふけって歩いていれば、いつの間に病院に着いていた。雨が降り出すのに間に合って良かった。

 中庭のベンチに腰を据えて、続けて全身の力を抜く。空を見上げれば煌めきを放つ雨粒がひとつ、ふたつ、みっつ。

 それはありえないぐらいに透明で、眼鏡のレンズをつたう粒はきらきらと白く輝いてる。これだけ輝いていれば、心地の良い視界のまま眠れるだろう。

 たぶん、いや私にとっては間違いなく。

 この世で一番美しい曇空だ。


 雨粒が服を濡らそうとも、少しずつ皮膚の熱を奪おうとも、私の薄目から溢れる涙はこの美しさからは逃れられなかった。

 微睡みの傍で私の名を呼ぶ医師や看護師の声が聞こえるが、次第にその声は発されなくなる。対照的に大きくなる雨音が喧騒をかき消すより早く、大人たちも眠りへと堕ちてった。

 研究所の人たちも、街の子供たちも、屋台のおじいさんも、川の釣り人も、山の獣も、海の魚も、敵も味方も、君も私も。

 今宵、全ては眠りにつく。

 目覚めの朝がきっと美しくなることを願って。



 それじゃあ、おやすみなさい。

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