第11話
傍に掛けられていた白衣を羽織って、眼鏡を掛ける。左手が使えないので少々掛けるのに手こずったが、どうやら破損や変形はないようだ。
「よし」
それから、瞬きを10回もしないうちに病院を抜け出した。駆ける音は止ませず、目が乾くのも忘れてただ脚を動かした。
「はぁ……はぁ……」
走りづらい。
振動で左腕が多少痛んでも我慢しようと思っていた。
だが、走りづらいのは痛みが問題なのではなく、左腕が固定されているせいで左右のバランスがとれないからだ。
四肢の欠損などが無かったのは幸いだったが、完全な五体満足でないことがこんなにも大変とは。
今頃、病院の方はどうなっているだろうか。私が抜け出したことにそろそろ気がつくだろう、一応時間稼ぎの小細工はしてきたが……
病院は研究所の屋上から視界に入れることができる程度の距離にあり、港や鉱山からは少々離れている。
走ってはいるが、勿論その足で直接向かうわけではない。
国や軍の施設がいくつか集まっていることから、専用のバスが頻繁に行き交っていて、その使用は関連施設の職員とその家族にも開放されている。研究所の人間もその恩恵を受けることができて、私も軍人や物資と相乗りで何度か使わせてもらったことがある。
向かっているのはその停留所だ。
「はぁ……はぁ……はぁ」
専用バスはかなりの高頻度でやってくるので公共のように時刻表などはない、だから一刻も早く乗り込む為にここまで走った。
停留所には次のバスを待つ人が3人、ひどい息切れで目立ってしまい、視線が痛い。
息が落ち着き始めた頃、小型のバスがやってきた。荷台には大きなテントの様なものが張られている。
後方から降りる列が止み、次第に乗り込んでいく流れにならって乗り込もうとしたが……
「……?」
目の前の老人が動かない。乗り込むどころか、心ここに在らずといった感じで微動だにしない、一体どうしたのだろう。
「あの……」
「ちょっと父さん、突っ立ってないで。ほら、こっち」
「え………ああ……えっと、ここは……」
「病院の帰りでしょ、しっかりしてよもう」
「ああ……そっか……すまない」
「……」
弱々しい顔でバスに乗り込む老人に私も続く。
認知障害だろうか……。
心掛けとして、障害を個性だという風潮があるが、あまり……好きではない。もちろん蔑むなんてもってのほかだし、言葉の改変はイメージの改善に大きな影響を与える。
しかし、障害というのは不幸か老いによるハンデでしかない。例え向けられる優しさが本物であっても、本質的なところは腫れ物を扱うような風潮で取り繕っても仕方がない。
失ったものは、
「取り戻せない」
『雨』の過ぎ去った世界で、そんなことが少しでも減ることを願うばかりだ。
「イリダット大橋前ですー」
「ほら、いくよ」
「ああ……」
考えごとをしていれば、もうこんなところか。おじいさんの家の最寄駅なんだろう、降りるみたいだ。
「えっと……」
「どうしたの、落し物?もう……何を落としたのよ」
「えっと、なんだっけ……」
「そんなジェスチャーじゃ分からないわ。ああ運転手さんすみませんね、ちょっと待ってて……」
「おじいさん」
「あ……」
「はい、これ落し物」
懐中時計だった。私と同じ、写真入りの銀の懐中時計。
「入口の方に落ちてましたよ」
「ああ、ごめんなさいねお嬢さん。ありがとう。ほら父さんも」
「あ……ありがとう」
「いえ、落し物気をつけてくださいね」
降りていくおじいさんを見届けて、再び腰を下ろす。
また、考えごとをしてしまう。
……娘さんかな、おじいさんは娘さんのことを忘れていないみたいだったけど、もっと重度になれば大切な人や思い出も忘れてしまうんだろうか。
「……」
記憶の一部がなくなる『雨』にも共通するところだ。もしかしたら、そういう場合も少なからずあるかも知れない。
大切な記憶を奪う。
そういう表現になっても文句は言えないな……
だが、別に同情だとか心変わりだとかそういったことはない。こんなこと、と言っては酷いが、一時の感情で実行に支障をきたすわけにはいかない。
この手ひとつで雨を降らせる、世界を変える、記憶を奪う。
何だかまるで、神様の天罰みたいな話、心の内でも冗談でも、神の所業を語るなんて傲慢だろうか。
神様が酷いことをするやつだっていうのは、祈ってもひとつだって何もしてくれなかったあの時に分かっている。
そういう意味では、私も神様なのかも知れないな。
「なんて……」
いつの間にか残っている乗客は私ひとり、ひとりごとを呟いて外を見れば、小雨がぽつり。
空の調子から見て、直ぐに止むだろう。
『雨』が見つかるまで、これが最後の本物の雨になることを祈るとしよう。
そのためじゃないが、ゆっくりと瞼を閉じた。
2日も寝ていたんだ、まるで眠くなんかない。
ただ、そういう気分だった。
降りてから十数分、廃坑の中。
2日前に自分が倒れていたらしい場所まで戻ってきた。
あの時、奪われた後に雨はどうなったのだろう。敵兵には工事の作業員とその同行兵が鉢合わせしたと聞いたが、そこで戦闘中に落としたりしていないだろうか。
ならば、外を探さなければ。
「ここにはないか……」
本当はもう一つ探したい物があるが……今は一刻も早く雨を見つけなければならない。
後ろ髪を引かれる思いを押し殺して、外へ向かった。
「あっ……」
探し物というのはいつも突然に見つかるものだ。
廃坑入り口の脇、茂みの中に『雨』は転がっていた。
「良かった……!」
別に、意識的にそうしようと思ったわけじゃなかったけど、抱き締めるようにして拾い上げた。さっきの小雨でかなり冷たくなっているけど、特に問題ないだろう。
2日と少し遅れてしまった。
「すぐにでも降らせよう」
灯台砲の主砲は火薬の替わりに海水と水斥鉱という鉱石を使っている。開発当初は威力が足りないんじゃないかと批判もあったが、第二回の砲撃試験以降そんな声は上がらなくなった。
灯台砲地下30m、吸水管の傍に立つ。
整った石造りの床と壁、円形の薄暗い部屋の中心に、私が6人は入るだろう巨大な吸水管が露出した海面へと伸びている。
仄かな光は背後の電灯から。
水面を囲む鉄柵を開いて雨を浸す。カチッと音を立てて数秒、碧の色をしたもやが次第に広がり沈んでいく。まるで毒でも流し込んでいるような光景だ。
「よし……」
昇降機に脚をかけて30m。
骨組みの隙間から吸水管が一定の間隔でちらちらと見える。6、7回見えたところで、少しの間真っ暗になった。地上階に上がったところで薄暗いままだが……
薄明かりを頼りに、主砲の根元までたどり着いた。ドーム状の広い部屋を突き破るような形で主砲の砲身だけが外へ飛び出している。
砲身を上空へ垂直に向けなければならないのだが、信号が送られてしまうので操縦室や制御室は使えない。
「ふんっ……」
手動で砲身の角度を変えるためのハンドルを回す。砲撃試験の時、男性の研究員が軽々と回していたのでもっと軽いものだと思っていたのだけど……
「お……重い」
両腕で精一杯やっているが、1分でいいとこ10回転か。
1回転で砲身が具体的に何度上がっているのかは分からないが、90度まであとどれくらいだろうか?
今ばかりは自分の非力を呪いながら、とにかく回すことに専念した。
10分?15分?ようやく砲身を垂直にすることができた、もう腕が上がらない。
最後の最後にこんな力仕事があるとは思っていなかったが、あとは吸水管のコンプレッサーを起動すれば全て終わりだ。
「はぁ……」
長かったのだろうか、短かったのだろうか、何年かかったのだったか。
私が研究に加わったのが5年前。ケイさんはずっと前からだけど、それでも十数年。
そうだな……これから成すことに対してこんな時間は、あまりに短い。
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