[追憶]一冊の悪い本

 小学四年生の頃、父の書棚から一冊の本と出会った。


 寡黙で勉強家、働き者の父の書棚には、幼い僕には読めない漢字と外国語の背表紙が隙間なくギュギュっと並んでいた。


 書棚はとても大きく、重厚感に溢れ、木に縁取られているガラスの戸が付いていて、鍵を掛けれる仕様だった。


 書棚の中の本は、ガラス越しに見るからか、どこか冷たい印象の本ばかりに見え、それらが書棚の中に一塊に集まっていると、荘厳で神聖な、ある種排他的な雰囲気をまとって見え、当時の僕は、何となく触れてはいけない気になっていた。


 それは神社や教会や博物館や図書館に感じていた、見えない真面目な空気だった。そう覚えている。


 その空気を感じとって以降、何となく苦手で足早に素通りするようになった。


 素通りすることが日常になってからは書棚の事など気にもしなくなっていた。



 小学四年生になってからのある日。家族総出で大掃除をしていた時だった。


 その時ばかりは、あの書棚の扉も開放し、パタパタと埃を落として掃除をしていた。


 ふと書棚の中の本に目をやると、一冊の異彩を放つ背表紙を見つけた。


 何も書いていない、ポップな水色とピンクの斜めストライプ柄の背表紙だった。


 掃除しなければ気付かなかっただろうその一冊は、戸の縁に隠れるかのように一番下の一番隅に配置されていた。


 開けなければこれは気付けない。


 そしてパラパラと捲れども、その本の内容はわからない。だけど書棚の真面目な空気を邪魔している事だけはわかっていた。


 この本に何となく腹が立ち、気付けば抜き取っていた。


 瞬間、元の荘厳で真面目な空気は再び溢れ出した。ように僕は感じた。


 満足だった。


 こうなってしまえば再び元に戻す気にはならず、迷った挙句、自室に持ち帰った。



「……何これ」



 それは小説とか物語とか、そんなものがびっしりと書かれていた。


 内容は、読めない漢字が数多く並び、スマホを片手に言葉を調べても難しくてわからない。言葉をまた調べてもまた知らない言葉が出てくる。辞書の沼に嵌まっていく。でもわからない。


 当時の僕が辛うじてわかったのは、男に女の子が泣かされていて、そこはイヤ、駄目、嫌だ、もう嫌だ、やめてと言いながら、どこかに何度もいく話だった。

 でもどうもその子はその場にいる。どこにも行っていない。なんとも不思議な内容だった。


 なんだかよくわからないけど、どうも女の子は泣いている。イジメられている。どうやら悪い事が書いてある本だった。背表紙は偽装だったのだ。


 母に似てボーッとしている僕は、よく忘れものをしたり、他人のモノを間違えて持ち帰っていたりとだらしなかった。

 しっかりものの幼馴染の月ちゃんは、いつも僕の心配をしていたくらいだ。


 反面、父は几帳面で真面目で、それこそあの書棚のような雰囲気を持っていた。

 だからまさかこんな悪い本を持っているなんて思っても見なかった。


 その日から数日、両親を観察したのを覚えている。


 母と妹を守らなければならない。そう思って。


 その当時はわからなかったが、後に明らかになった。


 それは書棚の中で、一番ふざけたタイトルで、一番ふざけた背表紙で、一番悪い中身をしている…


 官能小説だった。


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