多分そこにある。@浅葉時生

母はやつれていた。そのせいか、実年齢より老けて見える。今更何をしにとも思うが、父さんが家に上がらせたんだ。何かあるのだろうか。


「どうぞ」


「…ありがとう…」


お茶を用意し、それから僕は黙っていた。


父さんの顔を見る。


笑顔こそ浮かべていないが、いつもの顔だった。それは、僕に遠慮しているのか、もう終わったことだと気にしてないのか、それとも迫る死を前にして、もはや何も感じないのか。


それに、母には病気の事は伝えているのだろうか。でも父さんのことだ。多分、伝えていない。


伝えるためではなく、ここにいる。


「……時生。俺が呼んだんだ。お前と話をして欲しい、とな。……お前は多分あの時からずっと塞ぎ込んでいた。多分、今もそうだ」


「…時生…何も言わず、出て行ってごめんなさい」


「……」



それは何度も思ったことだ。


今の僕の始まりだ。


何度も浮かんではスルーしてきた、僕のトラウマ。


母に謝罪されながらも黙って考えていた。


母の浮気の原因もその後の経過も。今も何にも聞きたくないし、見たくもないと考えているのか。


それを明らかにしなかったからこそ、トラウマは治らないのか。


今までこのトラウマを掘り下げたことはなかった。明確な言葉にしたことはなかった。


心が拒否していた。それ以上見ないようにと蓋をしていた。



父さんを見る。


父さんは僕を今まで懸命に励ましてくれた。自分が一番悲しかっただろうに、そんなことよりお前だと放っておいて。


その事を思い出すと頑張れる。



今まで、僕自身は当事者だが当事者ではないと思っていた。あくまで父さんと母の話だと。でもそうやって理由をつけることでスルーしやすくしていただけかもしれない。


それがいけなかったのかも知れない。


「…それだけ……しに来たんですか?」


「…時生に、謝ろうとずっと思っていたの。結局、今まで言えなかったけど」


「いらない……」


「え?」


「いらないよ、謝罪なんて…」


やっぱり、何度考えても謝罪が欲しいわけではない。それだけは確かだ。


今は全てを母のせいにしたいわけでもない。父さんにも悪いところがあったのかも知れない。僕と遥のように決定的にズレたのかもしれない。


だけど、その後の裁判で確実に白黒はついた。


父さんと母には決着はついた。


だから謝罪が欲しいわけではない。

浮気の言い訳が欲しいわけでもない。


僕が欲しいのは、本当に欲しかったのは。


「何がいけなかったんですか」


「…」


「時生…」


「二人の話だと。二人の間の話だと、ずっと僕は思っていた。けど、違った。その瞬間までは三人で家族だったんだ。あなたが浮気をする瞬間までは」


あの日から僕の足元は、本当はグラグラだったんだ。どこに立っているのかわからなかった。周りの出来事をスルーしなければ、平気なふりをしなければ、嘘をつかなければ、とても立っていられなかった。


それに慣れてしまえば、今度はグラグラな足元は見えなくなり、ただの嘘つきが誕生していた。


そうだ。欲しかったのは、三人で過ごした時間が嘘だったのか、本物だったのか。


浮気現場を見た時に感じたもの。

それは、僕は居ても居なくても母にとっては同じだったのか。


その答えが本当は欲しかったんだ。


「だから、教えてよ。僕は要らなかったのか」


僕のトラウマの真ん中は、多分そこにある。

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