26話 夢見る人と竜の夢 ~後~

 マホロはさっきまでなかったはずの日本地図に、右手のあしゆびをなぞらせる。


「幸い、タローさん達の旅路と『彼』が去って行った方角は重なっているので、お二人と『彼』の現在地はそう離れていないはずです。そうですね……『彼』の移動速度で計算すると、おおよそこの辺りでしょうか」


 あしゆびの先の鋭い鈎爪かぎづめが日本列島を引っ掻いて、ある一点に円を描く。

 確かに、今オレとシロがいる場所からそう遠くない。今朝マホロの学校辺りにいて、今現在がここだってんなら、もう少しすればオレ達の現在地と重なる。あくまで、道筋通りに来てくれたらの話だがな。


「流石にそれは皮算用かわざんようが過ぎないか? マホロが見た時の方角に今も進んでるとは限らないだろ」

「そうですね。ですから、そこは運頼みです」

「おいおい……初っぱなから運次第かよ」

「困った事に、そのようです。ですが、そう心配する必要もないと思いますよ。天を悠々泳ぐ『彼』にとって、道を阻むモノは何一つありませんからね。わざわざ大きく進路変更する可能性は低いでしょう。それに──」

「それに?」

「同じ竜だから、分かるんです。きっと『彼』は、タローさんの所までやって来ます。ここまで来て勘頼みなのは心苦しいですが、私なりに確信を持ってます」

「はぁ……んじゃ、その勘とやらにすがることにするか。運命だの神のお導きだの言われるよりは、よっぽどマシだ」


 溜め息一つ落ちたが、実のところマホロの勘自体はあまり疑ってはいない。蓮根レンコンみたいに穴ボコだらけの根拠でも、不思議と全幅の信頼がおける。

 意図の読めないマホロの超然とした態度が、そんな風に錯覚させるのかもしれない。


「残る問題は、タローさんがこの嵐の中で無事『彼』に接近出来るかどうかですが──」

「そこはまあ、人間由来の知恵と心で何とかするさ。武器は、終末に遺された叡智の技術と…根性だな」

「叡智と根性、ですか。ふふふっ。それは信頼出来ますね。やっぱり人間に──タローさんに託して正解でした。タローさんになら安心して私達の命をせます」

「託すと言えば聞こえは良いけど……それ、責任逃れとも言うぜ」


  冗談なのか本気なのかは掴めないけど、そう言われるのは悪い気しない。ただ、素直に喜べるほど楽天的でもないので、斜に構えた皮肉を返す。


 肩口まで伸びた薄紫の髪が、笑い声に合わせて柔らかく揺れる。

 ホント、読めないヤツだなぁ。……まったく。


「ふふ、否定は出来ませんね。では最後に──」

「おいおい、まだ何かあるのか? 頼られるのは嫌じゃないが、ちっぽけな人間一人の肩にこれ以上荷を載せると潰れちまう」

「いいえ。最後に、責任逃れのお詫びと礼を返そうと思っただけです」

「礼? んなもん別に──」


 周囲の霞がかった景色が、またしても一変する。


 豪雨の音も、肌を打つ感触も、消えた。オレの感覚を刺激するのは、目に映る光景だけ。街中や学校や家やオフィス。それらが溶けて混じり合ったような背景に、多くの人影が佇んでいる。

 ……そう、『人』影。さっきの万華鏡のようなまぼろしとは異なり、今目の前に映るくすんだ水溜まりのような光景は、全てが終末以前のモノだった。背景も、そこに立つ人間も。


「と、父さん。母さん……?」


 それだけじゃない。友人や同僚。かつての教師や少し関わっただけの知り合いの姿まである。名前すらも脳内の遥か彼方に消え去った『人間』達の思い出。今の今まで完全に忘れていた記憶。思い出そうとすらせずに頭の奥底に封じ込めていた過去。

 そんな今は亡き過去の全てが、目の前に広がっていた。まるで長年ほったらかしにしていた昔の玩具箱を、無造作にひっくり返したかのように。


「わぁ、壮観ですね」

「……な、何のつもりだ?」

「タローさんの奥底で眠ってた記憶を呼び起こしただけです。ここは夢幻の中ですから、この程度のことは訳ありません」

「答えになってない」

「嫌でしたか? もしもそうなら、今すぐに消しますが」


 嫌……じゃない。嫌ではないさ。それどころか忘れていた家族や友人の顔を久々に見れて嬉しいぐらいだ。

 オレに思い返したくない過去なんかない。オレの過去は、概ね幸せだった。でも──


「タローさんは一つだけ、大きな勘違いをしています」

「勘違い?」

「今を肯定することと、過去を否定することは、全く別の問題です」


 マホロの銀の瞳が、真っ直ぐオレを捉える。一切歪みのない、真っ直ぐな視線。


「大切な存在が、自分の大切なモノを壊した時、その二つを天秤にかけてどちらかを否定しなくてはならない。そんなことは、断じてありません」

「………」

「人間が竜によって滅ぼされた過去と、竜と人間あなたが共に終末を過ごす現在いま。この背反した二つをふるいにかけ、タローさんは竜と一緒に過ごす終末を選んだ。そして…それと同時に過去を切り捨てたのではないですか? 失ったモノ全てを『無価値』と定めて、亡くしたモノを記憶の奥底に閉じ込めた。そうしなくては、竜を受け入れられなかったから」


 書に記された事実を淡々と読み説くようにマホロは語る。仮定でしかないはずなのに、断定してる口振りだ。

 まるで頭ん中でも覗いたかのような……いや、そういや覗いてるんだったな。なら、否定は無意味か。やっぱりインチキめいてるなぁ。


「竜の立場からこんな事を言うのは、どの口がと思われるかも知れません。──ですが、それでも言わせて下さい。そこを見ない振りして逃げるのは、二人にとっても良くないですから」

「なあ……やっぱりシロも、気付いてるかな?」

「きっと察しているでしょうね。ただでさえシロさんは私以上に人間にさとそうですし、何よりタローさんの態度が露骨でしたから」

「はぁ…これでも巧く気持ちを押し込めてるつもりだったんだがな」

「子供達から露骨に目を背けていましたし、本来喜ぶべき生き残りの存在に対して淡白過ぎる反応に見えましたね。あそこまで無関心だと、流石に異様です。子供達も違和感に気付いてましたよ」


 どうやら頭の中を覗いたかどうかなんて関係なく、バレバレだったらしい。自分の事は自分じゃ分からないもんだ。

 竜や幼子、盲人にすら見透かされるハリボテぶり。はっ……改めて省みると、しょうもない事この上ないな。


 ドクの骸を見てシロがあんなに落ち込んだのも、オレのこの煮え切らない態度が原因だったのだろう。

 ちゃんと隠せもしないくせに、バカみたいだ。竜と一緒に過ごす終末を破綻させない為に、『人間』を丸ごとないがしろにしてた。


 シロを肯定したいから竜を肯定し、竜を肯定したいから人間を否定した。今の幸せを維持したくて無理して心を凍てつかせ、過去の幸せを否定した。竜による人類の滅びを冷笑し、人類の生き残りも冷めた目で見つめて偽悪に振る舞った。フーコにも呆れられるくらい極端に。

 ──本当、バカだな。そんなひねくれた事しなくても、シロは離れていったりしないのに。……そんなこと、オレが一番分かってるってのにさ。


「教師っぽい助言だな、マホロ。お陰で大分気が楽になったよ。心ん中を占めてたデカくて邪魔な氷が溶けて無くなったような……そんな気分だ。どちらにせよシロに明かすつもりだったけど、こうしてハッキリ欺瞞ぎまんを指摘された後の方が、恙無つつがなく伝えられそうだ。……ありがとう」

「教師としてタローさんのお役に立てたのなら、何よりです。独りがりなお節介にならずに済んで良かった」



 オレの記憶を元に築いたであろう無数の人間と風景を、マホロは興味深げに見比べている。薄く微笑む顔に変化はないが、心なしか楽しげだ。人間が好きという言葉に偽りはないのだろう。元々、疑ってなんかいなかったけどさ。


「なあ、マホロ。物のついでに一つ、聞いてもいいか? ひょっとしたら、あまり答えたくない質問かも知れないが」

「ふふっ、私とタローさんの仲じゃないですか。水臭い事は言いっこ無しです。何でも仰って下さい」

「……以前オレは、マホロが人間の子供相手に教師と保護者の真似事が出来てるのは、マホロ自身が共生するのに邪魔な人間を殺したからだと予想した。そして、マホロはそれを否定しなかった」

「そうでしたね」

「ああ、いや、別に責める訳でも非難したい訳でもない。ただ、どうしても納得出来ないんだ。不可抗力なら兎も角、こんな理由で人間を殺すのは、オレが抱いたマホロの印象と合わない。心境の変化と言ってしまえばそれまでだが、そんな安易な解答にもどこか違和感が残る」


 マホロの表情は変わらない。柔らかい微笑みが、ただただ張り付いている。


「マホロは否定しなかったけど、実のところオレの推論は見当外れだったんじゃないか? 言い訳したくなかったから否定も反論もしなかっただけで、真意は別にあった。もっと、人間に寄り添った──」


 その時、頭の中でカチリと音が鳴った。複雑な機構をしたカラクリの歯車が綺麗に噛み合った瞬間に響く明朗な音。


 ああ。なんだ、そういう事か……。社会の絶えた終末だからか、それても相手が人間じゃないからか、こんなにも簡単な答えを見逃していた。


「あー………。今しがた、ようやく察しが付いたよ。人間を守る事と人間を殺す事は、必ずしも矛盾しない。なるほど、功利主義か。──トロッコ問題とか、懐かしいなぁ」

「ふふっ。フィリッパ・フットの思考実験ですね。倫理の天秤を分かりやすく問題化していて、良いですよね。私も一教師として見習いたいものです」

「……オレはそこまで詳しかないし、意識高くもねーっての。──ったく、この人間かぶれめ」


 マホロは肯定も否定もしない。だが、ついさっきまで何も読み取れなかった顔に、答えが書いてあった。

 いや……オレの目に映らなかっただけで、最初から答えは描いてあったのだろう。マホロへの理解が足りず読み取れなかったモノが、ようやく見えてきた。


 欠けたピースが幾つも埋まり、竜という巨大な絵図の輪郭りんかくが浮かび上がる。まだ完成には程遠いけど、竜という存在への解像度は大きく上がった。それこそ、表情から心っぽいモノを汲み取れる程度には。


「当時はまだ『竜害』による被害の真っ只中だったからな。食料の問題か環境の問題かは知らないが、恐らくは多くを生かす事は出来なかったんだろ? 少数を生かす為に他を殺した。そう考えれば、生き残りが子供だけな事にも合点がいく。マホロという絶対的庇護者の下でなら、子供の方がよっぽど生かし易いもんな」

「それに、言うまでもないですが子供の方が長生きですからね」

「……マホロ。お前という竜が、ようやく理解出来たよ。お前のやったことは統制でも支配でもない。──間引きだ。老苗を摘んで若芽を生かす。とてつもなく『人間らしい』、功利的な取捨選択だと思うぜ」


 マホロの全ての行いは徹頭徹尾人間の為だったんだな。殺す事も生かす事も、終末を一緒に生きることも。

 もう答えは訊かずとも明らかではあるけど、一応当人からの採点を貰わないとな。


「さて、どうだ? オレの竜への理解は何点だ?」

「凄い…凄いです。百点満点ですよ。教師として、減点の余地がありません。ひょっとすると、私自身よりも完璧に理解出来てるとさえ思える程です。……少し、嫉妬しちゃいますね」

「全部が分かったのは、今の今さ。『次会う時はお互いに、相手の事をもっと理解出来てたら良い』だっけ? 期待に応えられたようで何よりだ」


 マホロはベッドの上で笑っている。今なら分かる。マホロのこの笑みが、心底嬉しさを表してるって事に。


「仰る通り、私は人間を間引きました。元は五十二人いた生き残りを、子供八人にまで。この数が、当時の環境で私が確実に守れる限度だった。当時の私の力を持ってすれば、殺すのはそれこそ赤子の手を捻るよりも簡単でした。私の選択は、限りなく正解に近かったはずです」

「──それでもさ、マホロは後悔してるんじゃないか? だからこそお前は、わざと気付かせるような真似をした。自分の『罪』を明かして、敢えてオレに非難されようとした」

「………私の選択に間違いがあったとは思いません。なのに、子供達と暮らし、人間を一つずつ知っていけばいく程、それに反する想いが募るのです。もっと多くを生かせたのではないか、もっと別の手段があったのではないか──。そんな栓無き葛藤が、頭をよぎっては消えていく。これが後悔と呼ばれるモノの正体かもしれませんね」


 マホロの笑顔が自嘲気味にかげる。やっぱり自覚はしてたんだな。

 マホロの後悔と罪悪感は、マホロが人間を理解すればする程大きくなる類いのモノだ。きっとマホロはこれから先もずっと、自身の解けない想いと向き合い続けるのだろう。……それでも、だ。


「マホロ。オレはお前を肯定するよ」

「へ……?」

「一人の人間として、トロッコの線路を切り換えた竜の選択をゆるす。オレがゆるそうがゆるすまいが、マホロの後悔は消えないだろう。そもそもオレにゆるす資格があるとも思えない。──それでも、オレがマホロをゆるすんだ」


 マホロは珍しく目を丸くしている。さっきまでずっと同じ色をしていた表情が崩れて、違った色が顔を出す。これは、分かりやすい驚きの色だ。


「オレが何と言おうと、マホロはきっと後悔を繰り返すだろう。その後悔が、マホロを押し潰す日が来るかもしれない。或いは、いつか子供達が全てを知って、マホロを糾弾する日が来るかもしれない。だから……もしその時が来たら、思い出して欲しいんだ」


 オレが言わんとしてる事が分かったのか、マホロは無言で目を伏せた。


「マホロを肯定している人間がいたって事を。人を想い続けた竜の優しさを知ってるヤツが、少なくとも一人はいるって事をさ。それがきっと、僅かなりとも気休めになる。──全てを理解して尚、人間オレマホロが好きだよ」

「………ありがとう」


 人の言葉を人以上に理解している竜から零れたのは、とても短くシンプルな言葉だった。

 その顔は──いや、もう顔色を窺うのも野暮だな。それに、その必要もない。



「では、これでお別れですね。これ以上タローさんの頭でノンビリするのも悪いですし、その余裕もありません。……礼をするつもりが、私の方が多くを受け取ってしまいました」

「それはお互い様だ。今度は頭ん中じゃなく、ちゃんとした形で再会しよう。その時は、もっと人間を理解出来てるといいな」

「ええ、タローさんも。……この終末で、きっとまた会いましょうっ!」


 マホロが手を振る。鳥のあしゆびを人の手形に無理矢理整えたかのような歪な手がゆらゆらと揺れ、その動きに合わせて視界が歪む。ぼんやりと、ボヤけて……深い眠りに誘われるように……堕ちてゆく。



 一生分の密度を持った夢が、こうしてようやく幕を閉じた。

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