12話 澄み渡る水竜の住処

 日本はその土地柄から、とにかく川が多い。土地の狭さに見合わぬ河川の多さを知識として知ってはいたが、終末の世界を旅して初めてそれが実感に至った。


 大昔の賢い誰かさんが「国破れて山河あり」なんて言葉を残しているけど、まさしくその通り。国どころか人類が滅びても、山も川も変わらずそこにある。

 ……いや、変わらずってのは語弊があるな。目の前を緩やかに流れる小川は、オレの記憶にある河川と比較しても類を見ないほどに澄んでいるように見える。覗くと水鏡のように、自分の寝惚け顔が鮮明に映されている。


「ぷはぁーっ、気持ちいい。朝一番に水浴びすると、やっぱシャキッとするね」


 綺麗な水鏡となっていた水面が波打ち、水面に映るただでさえ惚けたオレの顔が原型なく弛緩する。


「タローもそんなポケーっとしてないで、顔を洗ったら? ──えいっ!!」

「ぶへっ! ………げほっ、お、お前なぁ。この前散々砂遊びをしたと思えば、今度は朝っぱらから不意討ちの水遊びって……。普段子供扱いしたら嫌がる癖に、幼稚過ぎやしないか?」

「えー、なんの話? 見てもないのにあたしのせいにしないでほしーなぁ。てっぽーうおにでも撃たれたんじゃない? 冤罪だ、えーんーざーいーっ!」

「鉄砲魚がこんな川にいるかよ。こんにゃろお」


 こっちが直接見てないことをいいことに、適当なことをのたまうシロ。その両手は完全に水鉄砲の形になっている。言い訳無用だ。


「現場を見ていないのだから、証拠がないのだよ、しょーこが。よってこれ以上は水掛け論。そーだね? けーぶ殿」

「誰がけーぶだよ、誰が。水掛け論なんてシロらしからぬ嫌な言葉を巧みに使いやがって。さては探偵小説でも読んだな?」

「こないだ図書室で貰ったんだよー。にひひっ」


 図書室なんていう耳慣れなくなった言葉がシロの口から出たことに一瞬戸惑ったが、すぐに合点がいった。マホロの学校の図書室のことか。

 俺とマホロが話している間に、あの子供達の誰かから貰ったんだろう。子供は案外、刺激的なミステリーを好むからな。その証拠に、シロもしっかり影響されている。


 それにしてもシロの奴、東から顔を覗かせる朝日も顔負けな浮かれっぷりだな。この黄色い笑い声の前には、耳触りの良い川のせせらぎも雑音と変わらない。破顔一笑という言葉を絵にするなら、この顔をモデルにするのが最善と断言できる。

 いつもはとんでもなく朝に弱く、オレよりもずっとうつらうつらした顔で寝惚けてるってのにさ。


 ただ、意外ではないし驚きもない。頭の上でワクワクという擬音がポップコーンのように乱れ飛ぶ、そんなシロのハツラツとした活気の源泉が何処にあるのか、オレにはお見通しだからな。


「でも、普通に水浴びするよりシャキッっとしたでしょ? いっせーいちだいの一大事の前だもの。体調は万全にしておいてもらわないとっ!」

「一大事って……。ただ腹ごしらえをしていつも通り旅を進めるだけじゃないか」

「だーかーらー、それが一大事だっていってるんじゃないっ!!」


 あえてすっとぼけて見せたが、シロの言わんとしてることは分かってる。その朝一番の腹ごなしこそが本日のメインイベントだと主張しているんだ。

 ここまで担がれると、シロの小さな胸に張り裂けんばかりと詰まった期待感に応えられるか、いささか不安になってくる。

 ──とはいえ、約束しちまったものは仕方ない。一晩が明けるのを一日千秋の思いで待っていたシロの期待に添えられるよう、彼女の言うところの「一大事」をこなすだけだ。



 モエギのいたジャングル顔負けの果樹園跡を去って、丁度一夜が過ぎた朝。流石にあそこまでではないにしろ、十分豊かな自然に囲まれた小川のふもとにて、オレ達は一日の始まりを謳歌おうかしている。


 昨晩はここで泳ぐ魚を採って腹の足しにした。釣竿なんて嵩張るモノを常備しているはずもないのでかなり原始的な狩りになったが、存外巧くいったな。きっとここの魚達も、人間という厄介な捕食者が消えた終末という楽園に浸りすぎて頭が鈍っていたのだろう。  

 例え頭が鈍かろうと、味に衰えはない。小ぶりで食べやすく、骨も大して邪魔じゃなかった。何の魚だったのかはサッパリ分からかったが、食べるだけなら知識に疎かろうが一切困らない。例え毒魚の可能性があったとしても、それを危惧し過ぎて食うに困ったら本末転倒だ。

 おおらかさこそが終末を憂いなく楽しむ秘訣だってことに、オレはとっくの前から気付いている。終末になってまで死ぬことに怯えて楽しみあぐねるとか、それこそバカみたいな話だ。


 昨晩集めておいた川の綺麗な水を使って、いつも通りコーヒーを淹れる。シロお待ちかねの朝食もバッチリ出来上がった。モエギの果樹園で貰ったリンゴを使った、オレのお手製焼きリンゴ。味の方がバッチリかは食ってみなきゃ分からないけど。


「お、うおおぉ……。こ、これが焼きリンゴ。おおおおお……っ!」

「大して手間がかかった訳でもないから、そこまで感激されるとむしろ気が引ける。芯をくり貫いて、そこに砂糖やら花の蜜やらを入れて焼いただけだ。まあ、これだけの手間で感極まってくれるなら、作る側としても冥利に尽きるね」

「いい匂い………美味しそうっ!! ね、ね、タロー? 美味しそうだよっ」

「んーどうだろうなぁ。足りないものだらけだからレシピ通りには作れないし、そもそも作るのが初めてだからな。竜の舌を満足させる出来ならいいけれど」


 材料は代用品だらけだし、オーブンはないから折り畳み式のフライパンを使って焼いている。とはいえ、リンゴの素材の味が第一の料理だから、そこまで大きく失敗することもないだろう。

 名付けるなら、終末風丸ごと焼きリンゴってところかね。………ん? この字面だと、なんか失敗感があるな。


 ムラのある焦げ色の付いたシワシワの赤い皮を、まるで宝石でも眺めるような瞳で見つめるシロ。銀の光沢を放つ瞳が、よりいっそう目映く光る。


「敢えて皮は剥かず、カットもしない。その方が見栄えがいいからな。皮ごと一齧りに食べるのも風情があって良いだろう? まあ、まだ熱いだろうから、冷めてから──」

「わーいっ、いただきまーす!!」

「──って、シロ! おまっ、人の話を……」


 聞け、とまで言葉は続かなかった。というより、続ける必要がなかった。

 シロは掴むのも難しい熱々の焼きリンゴを平然と食べている。人間が同じことをやろうものなら口内が大火傷の大惨事になる愚行だが、そんな常識は竜相手には通用しない……か。オレの方こそ愚考。というか、杞憂だったな。

 

「ん~!! 甘ふへ、美味ひぃねぇ。……ごくんっ。シャキシャキ感はないけれど、その分……風味? が口いっぱいに広がって……上品な? 味わいだねっ」

「はははっ! そんな無理繰り講釈を並べなくても、美味しいの一言だけで十分だっての。シロは本当──」

「ホント……なに?」

「あーいや……本当、面白い反応をしてくれるなぁって。改めてそう思ったのさ」

「ふーん?」


 真意を喉奥で押し殺し、取り繕った嘘で誤魔化す。別に隠すような言葉でもないんだけど、気恥ずかしさから咄嗟に引っ込んでしまった。


 ………女の子に対しての「可愛い」という言葉を咄嗟とっさ躊躇ちゅうちょするなんて、まるで思春期の学生みたいだな。やれやれ、我ながら情けないったらないね。


「リンゴはそのまんま食べるのが至高だと思ってたけど、こうやっていろんな食べ方を試すのも楽しいねっ」

「そりゃ何より。こんな世でも、舌を楽しませられるに越したことはないからね。食えれば良いじゃ味気がなさすぎる。リンゴの美味しい食べ方を模索したり、敢えて手挽きのコーヒーに拘ったり、そんな一手間の工夫こそ終末を生きるオレ達には不可欠なのさ」

「ぷふーっ! なぁに、その気障キザったい言い方」


 コーヒーを注いだカップをシロの手に収まってるリンゴに近付け、乾杯の仕草をしてみせる。台詞の気障キザったさに合わせた気障キザったらしい一連の仕草に、シロはもう一度吹き出す。


 青々と晴れ渡る清々しい早朝。晴れやかな笑顔の竜と一緒に、採れたてのリンゴと淹れたてのコーヒーで舌鼓したつづみを打つ。おおよそ終末感に欠ける、優雅で幸福に満ちた一日の始まり。贅沢過ぎるくらい贅沢な「今」の味を、噛み締めるように味わう。

 ただ、こうして自然の恵みを満喫していると、いつもある疑問が首をもたげる。この終末が、何故こんなにも生きやすいのかという、当然の疑問が。


 人が滅ぶと人間社会を管理する者がいなくなり、汚染物質やら放射線やらが垂れ流しになって自然そのものに深刻なダメージを与える……なんて説を、その昔耳にしたことがある。少なくとも数百年は人間の生き残りが棲める環境ではなくなるってのが、当時の賢い人らの見解だった。実際、『竜害』に端を発する事故で壊滅した工場から、危険な物質が──なんてニュースが、当時はそれなりに賑わっていた。


 でも、現実はこの通り。竜は兎も角、オレもマホロの所の子供達も、二年もの時を平然と生き延びている。オレに至っては、病院もないこの世界で二年間、一度たりとも風邪すらわずらったことがない。

 俺の目で見た終末の世界は、明らかに終末以前よりも美しい。川も海も澄んでいて、緑も豊かに賑わっている。人類が立つ鳥跡を濁さず消え去ってくれた事実は、立たずに居残っている立場としては有難いことこの上ないけど、この齟齬そごが意味するところはいったいなんなのだろう?


 単に賢い人らの思い描いた絵図が的外れだったのか、それとも──



「もう一個食べよーとっ」


 一個、また一個と、シロは瞬く間に口の中へ放り込んでいく。竜の姿だった頃と比べると全然ではあるが、今でも小さな身体の割に食欲旺盛だ。

 竜であるシロを人の常識に当て嵌めて健啖けんたん家と評するのも変な話ではあるけど、純粋に気にはなる。ひょっとすると竜に備わる常識外れの力のせいで、燃費が悪いのかもしれないな。

 街を砂丘に変えたり、果樹園をジャングルのようにしたり、周囲に雪を降らせたり……こんな天変地異まがいの異能を未だに有しているのなら、多少の健啖けんたんむべなるかなってね。


 突如として前触れもなく世界に舞い降りた竜という存在は、人類が滅んだ後も世界に異常な力を誇示し続けている。

 もしも、この終末の美しい景色が異常だというのなら、この異常もやっぱり竜のおかげ……なのかもな。だとしたら、人類の負の遺産を帳消しにしてくれた竜には、感謝してもしきれない。


「夢中になって食べてくれるのは嬉しいけどさ、オレの分も残しておいてくれよ?」

「ふぁ、ふぁはっへふ……分かってるもんっ。そこまで食い意地張ってないしっ! あたしをなんだと思ってるのさ!!」

「ぷっ、あはははっ。ホント、作り甲斐があるなぁ。シロが相手だとさ」


 ハムスターのように頬袋を膨らましたまま怒るシロ。怒ってるはずなのに、微塵も不機嫌そうじゃない。

 それどころか、腹を抱えて笑うオレに釣られ、一緒になってシロも笑いだしてしまった。


 水も空気も一瞬にして澄み渡らせるような眩しい笑顔に、竜の神秘の一端が垣間見える。

 例え世界に人類が付けた傷痕が残っていたとしても、そんなもの知ったことかと笑い飛ばせるくらいに平穏で、凡庸で、奇跡的な……コーヒーの薫り漂ういつも通りの楽しい朝が、そこにはあった。

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る