3話 雪竜が舞う海辺にて ~後~

 砂浜を踏み締めると、サクサクと音が鳴る。小さな蟹や貝、名も知らない虫がそこかしこに見付かる。昔、海に遊びに行った時にはこんなに沢山はいなかったように思う。これも、人間がいなくなった影響かな。


 だけど、そんな海岸の生態系を注視して観察したいと思えるほど、今のオレは呑気じゃない。

 なんたって、そんなものより遥かに目を奪われる存在があるのだから。


「ほらほらっ、タローもこっち来ないの? 久々の水浴び、気持ち良いよっ。それとも、実は海が怖かったりしてー。ビビりだもんね、人間って~!」

「そんな浅瀬に膝まで浸かった程度で威張られてもな。そんなの、何ら自慢にならないっての」


 着ているワンピースを膝上までたくしあげて浅瀬に浸るシロにならい、オレも靴を脱ぎ、ズボンの裾を捲って海に入る。

 ひんやりと冷たく、それでいて凍える程ではない。なるほど、確かにこれは気持ちいい。

 太陽を反射して輝く水面。そこに吸い込まれていく雪の一粒一粒。そんな風景の情緒もこの気分の良さを加速させる。


 まるで自然のすべてが、人類の滅びを満喫しているかのような美しい光景。そして、その光景にピタリと収まるシロの姿。

 ただ見ているだけで、網膜の底に焼き付くくらい素敵なだ。文字通り、目の眩んでしまいそうになる。


「ふぅん。じゃあもっと深い所で泳ごっ。ふっふっふーん!」


 シロは鼻歌混じりに言い放つと、躊躇なく背に穴の空いたワンピースを砂浜に脱ぎ捨て、そのまま下着にも手を掛ける。


「ちょちょちょっ、ちょっと待てっ!! シロ……お前もしかして裸で泳ぐ気なのか?」

「そりゃあ……そういうものなんじゃないの? 服着て泳ぐなんて本で見たことないし、濡れたら汚れて困るんじゃない? というかそもそも、あたしは元々服なんか着なくても良いんだけどさ。一応タローが着ろって言うから着てるだけだし」


 顔が触れなくとも分かるくらい熱くなる。多分、今オレの顔面は耳まで赤く染まっている。


 顔を手で覆い、目を背けるが……それでも見ないということは出来ない。よこしまなジレンマに苛まれながらも、顔を覆う掌の隙間からシロの身体を視てしまう。


 人間の肌のような部分と白銀の鱗に覆われた部分がまちまちな身体。柔らかそうな腹部や胸部には鱗がない。少し色が薄いくらいで、殆んど人間と変わらないように見える。

 逆に背中から肩、首にかけては鱗が目立つ。特に目が行くのは、人間でいう肩甲骨の辺り。そこからは、巨大なコウモリの翼を真っ白に塗ったような薄翼が生えている。翼自体はいつも見ているから珍しくも何ともないが、生え際の歪さは久しぶりに見たな。

 なんと言うか……竜の部分と人間の部分が責めぎ合ってるみたいな、そんな不思議な背反はいはんさを覚える。


 後は、人間の女の子として変わらない。身体の膨らみも──


「ま、ま、待った待ったっ!! ダメだって。せめてオレが余所に行ってる間に泳いでくれ。目のやり場に困り過ぎて泳ぐどころじゃない」

「目のやり場? ……あーっ。ひょっとして、あたしを見てエッチなこと考えたのー? うわー、変態だー。あははははっ!!」


 これも、本で覚えた語彙ごいだろうか。

 ぐぅう……。シロの拾った本を先に読んで、検閲けんえつしとくべきだったか?


「はぁ…、仕方ないだろ。今のシロはちょっと前までの竜の姿とは違うんだから。自然の摂理だ。オレは悪くないぞ」

「ふーん? でもさ、タローが泳げないっていうなら、この勝負はあたしの勝ち、不戦勝ってやつだね。やーいやーい! また竜の勝ちー」

「ああ参った、参りました。完敗だ。オレはあっちで敗北を噛み締めてるから、シロは好きなだけ泳いでてくれ。いくら竜とはいえ、今はその身体なんだからあんまり沖の方へは行かないようにな」

「はーいっ。タローも興奮し過ぎて倒れないようにねー」


 くそぅ……。水着なんて持ち歩いている訳ないのに、うっかり失念していた。オレもこの終末に慣れてしまって、常識のタガが外れかけているのかもしれない。

 それでも、羞恥のタガに関しちゃ未だに外れちゃいない。竜に人間並の恥という概念を理解しろなんて土台無理な相談だろう。しかしそれと同じく人間だって、いくら終末の世とはいえこれまで培ってきた羞恥心をまるっきり捨て去ることは出来ない。


 周りに人がいなくなっても、人の枠の倫理や常識に縛られている。なんと言うか……二重に恥ずかしいな。


 これが惚れた弱みというやつか。シロにすっかりやり込められて、オレはそそくさと敗走する他ない。まったく情けないったらありゃしないが、当のシロが愉快そうに笑ってくれてるから良しとしよう。


 さてと、シロが泳いでる間に食事の準備でもしておくか。シロのことだから、ひとしきり泳いだ後『お腹へったー』と催促してくるに違いないからな。

 ええと……今、何が残ってたっけ? 取り敢えずリンゴさえ添えておけば、何を食べてもシロは喜ぶだろうけど──


「──あっ」


 驚きの声に振り向くと、沖の方を眺めるシロの後ろ姿。シロの裸の背中に心ざわめかせつつ、彼女が眺める方向にオレも視線を向けてみる。


「どうした!? 何か──」

「タロー! あれ……」


 シロの指先が差す方向にいたのは、海面を優雅に泳ぐイルカの群れ。昔はこんな浜辺近くでイルカを見かけるなんて、あまりないことだったはずだけど。

 人間がいなくなって生息範囲が拡がったのか、或いはただの偶然か。どちらにせよ、この事自体はシロが驚くに値することじゃない。

 そう、彼女が指差してるのは……イルカじゃない。



 イルカの群れの中に、遠目からでも分かるほどの奇異な一匹が紛れている。

 水棲生物には珍しい体毛を生やしている『それ』は、イルカというよりも巨大なペンギンに近い。だが、ペンギンに似ているかと問われれば、違うと断言出来る。

 一見尾びれのようにも見える退化した足。明らかに他のイルカよりも大きい、横びれのような翼。周りと比べてぎこちなく、それでいて力強い泳ぎ方。


 『それ』はまるで、まったく別の生き物を粘土のように捏ねてイルカの形に整えたかのような──大袈裟に言えば、そんな歪さを全身で形容していた。

 そして何より一番異なっているのは……やっぱり目だ。こうして複数の目と押し並べて比べてみると、その違いは明瞭。


 全てが違う、特異な瞳。オレがいつも見ている瞳……銀に輝く、その瞳。


「………竜、だ」


 イルカの群れに紛れ、イルカのように擬態した竜が、イルカと同じように海を跳ねている。雪降る空をイルカと共に舞う竜の姿はさながら、人間と一緒に旅をして人間と同じ食事をするシロのよう。


「おお……。シロ以外の生きた竜、久しぶりに見たな」

「そーだねー。まさかホントにいるとは。割とてきとーに言ったのに」


 遂一、二年ほど前まで、人類が滅ぶほど自由気ままにこの世界を闊歩かっぽしていた巨大な竜たちだが、最近はその姿を見かける機会はめっきりなくなっていた。

 無論、彼らが消えていなくなった訳じゃない。突如世に現れた竜たちは、まるで世界に溶け込むように擬態していったのだ。


 そう、まるでイルカのように──まるで人間のように──


 共に旅する中で、竜の姿から人間のような見た目に変化した実例を知ってるからな。この事は、この目で見た純然たる事実だ。

 何故? とか、どうやって? とか、そんな理屈の面はさっぱり紐解けないが、その辺は致し方ない。オレは学者でも竜の専門家でもないからね。


「はっ…ははは。スッゲェ……」

「そう? あたしには何がすごいのか分かんないけど。あ、でも、楽しそうではあるかもね。この雪も、やっぱりあの竜が降らしてるのかな?」

「同じ竜のシロがそう思うなら、そうなんだろうな。楽しさ余って、ついつい雪を降らしちゃってる。そう考えれば、ちょっとした異常気象くらい全然許せるな」


 シロの感想を念頭に入れてから改めて見ると、微笑ましいほど楽しげに見えてくる。まるで意味もなくピョンピョン跳ねる子供を見てる気分だ。


「ねぇねぇ、タロー。いつものやつは?」

「いつもの…って?」

「ほらっ、名前付け。いっつも竜に会ったらやってるじゃない。あれ、やらないの?」

「あー、そうだな……うーん」


 雪、ゆき、ユキ……いやぁ、違うな。しっくりこない。直接的過ぎる。他には、そうだな──


「うん、セツ…って名前はどうだ? 雪を降らす竜な訳だから、その一文字を取って。シュッとしてて格好良いだろ?」

「えー? 相っ変わらず安直だなぁ」

「だから、覚えやすいくらい安直なのが丁度良いんだってば。一昔前のまだ竜がいなかった頃、人類の間じゃ分かりにくい名前が社会問題にまでなってたんだぜ。何だって、れば良いってもんじゃないのさ」

「ふーん……ま、あたしは別にいいけどさ」


 自慢する訳じゃないが、当時流行ってた冗長で分かりにくい名前と比べたら、シロやセツの方がよっぽど洗練された良い名前だと自賛出来る。


 オレはまだ、竜のことについて殆んど知らない。二年くらい前に突然世界にその姿を現して、人類を滅ぼす程の力を有し、そして今は『何か』に擬態して生きている。知ってることなんか、せいぜいがこのくらい。

 当の竜自身に尋ねても、新たな知見ちけんを得ることなんか期待出来ない。実際シロに竜について何度か質問したことはあるが、いつ何を訊いても知らぬ存ぜぬの一点張り。きっと、本当に何も知らないのだろう。


 まあ、よく考えれば当然の話だ。オレだって人間とは何かと問われても、受け売りの知識を並べるのが関の山。シロにはそんな受け売りの知識すらないのだから、どうとも答えようがないに決まってる。

 シロが竜であることと、竜に詳しいか否かは別問題ってことだ。


 だけど……無知だからこそ知りたいと願うのも普遍の道理。この終末の世で、竜と共に竜と出会う旅をしているオレは、ある意味では第一線を走る竜の専門家と呼べるかもしれないな。それも多分、人類でもトップクラスの。……もっとも、トップしか存在しないランキングかもしれないけどね。


「おーいっ、セツー!! これがあなたの名前だってさー。嫌なら文句の一つでも付けた方がいいよー」


 シロの呼び掛けに呼応したのかしてないのか、一際勢い良くセツは空高く跳ねる。


「くっくっくっ。ほら見ろ、気に入ったってさ」

「えー、あれは怒ってるんじゃないの? そんなダサい名前ゴメンだーってさ」

「さて、どうだか。言うは易し、何とだって言えるからな」


 セツはイルカ達とひとしきり遊泳を楽しんだ後、彼らに混じって海の彼方へと消えて行った。それにともない、降る雪もその勢いを急速に弱める。 

 もしかするとセツもオレ達と同様、異なる存在と一緒にこの世界を旅しているのかもしれないな。

 異なる者を知りたいと、そう望みながら。


「じゃーねー、セツ!! また会おうねーっ!!」


 全てが去った水平線に『一人』の竜が大きく手を降る。まるで心揺るがす名画を切り取ってきたかのような光景に、恥さえ忘れ見入ってしまう。

 過去も未来も滅びの現在いまさえも忘れて、この一景だけが全てだと……錯覚してしまいそうになる。

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