1話 巨竜を仰いで旅をする

 朝目覚めてテントから顔を覗かせると、季節外れの雪が降っていた。


 大雪って程ではない。チラチラと、或いはシンシンと、冷たい粒が空に揺らめいている。空気はひんやり冷たいけれど、凍えるほどじゃない。空には明るい太陽も顔を出している。こういうの、たしか風花かざはなって言うんだっけ。たまにはこんな風情のある朝もいいな。


 こういう特別感のある日には、ケチケチせずに贅沢するのが望ましい。そもそもこんな世の中で、刹那の幸福を惜しんでも意味がないからな。

 うんうん。いくら有限の嗜好品とはいえ、我慢するべきじゃあないね。


 使い古されてくたびれた大きめのキャリーバッグから、同じく骨董感丸出しの手動コーヒーミルと珈琲豆を取り出す。

 ここ一年、手挽きのコーヒーを良く飲むようになったのだけど、これが中々に旨い。それまでは缶コーヒーくらいしか飲んだことがなかったオレにとって、この味は結構衝撃的だった。奥深い味わいに鼻孔をくすぐる繊細な薫り。神は細部に宿るってのは、案外嘘じゃないのかもな。


 単に他の嗜好品が乏しいからって理由もあるかもしれないが、それだけじゃない。この違いに気付けただけでも、こうして生き延びてる『甲斐』ってやつを実感出来る。



「んん…んあー、良いかおりぃい……」


 テントの中から寝息混じりの声が聞こえる。オレの起床から遅れるほど一時間、寝坊助なお姫様もようやくお目覚めか。


「んあ、ふぁ~ぁあ。おはよぉ」

「おー。おはようシロ。丁度コーヒー入れたとこだ。一緒に飲むか?」

「……おさとーは?」

「まだまだ沢山あるぜ。砂糖は結構保存が効くからな。なくなったらまた調達すればいいし、いくらでも使えばいいさ」

「ん──じゃあ、のむ」


 寝ぼけまなこを擦りながら近寄ってくる、まるで『人間のような』少女。

 オレよりも頭二つ分くらい小さな背丈と肩にかかるくらいの白髪が『人間的』なチャームポイントの彼女だけど、そんな凡庸な尺度で語り尽くせる程、人間視点から見たシロという女の子の容姿はマトモではない。


 目尻や頬、服の袖から覗く手の甲は白銀の鱗に覆われている。着ているワンピースに空いた二つの背中の穴からは、小さな身体に見合わぬ大きな一対の翼が飛び出している。口は人と比べると一回り大きく、その端からは鋭そうな牙がちらつく。

 そして何より、この眼。オレの目には最も特異に映る、銀に輝く竜の瞳。眠たそうに細めたまぶたの隙間からでも、その特別さは丸分かりだ。


 ……ああ。何度見ても、この異質さには慣れないな。


「んっんっ…ぷはぁ-っ!! タローはコーヒーを淹れるのだけは上手だねぇ。人間の文化も捨てたもんじゃないや」

「なーにを上から偉そうに。コーヒーを淹れるの『も』上手なんだよ。ただまあ、このコーヒーだって消え行く文明の残り香でしかないって考えると、少しだけ物寂しい気持ちになるな」

「ホントホント。タローのしょうもない感想ポエムより、よっぽど価値があるのにねーっ」

「……けっ。そんな悪態の語彙ごい、一体どこで覚えてくるのやら」

「ふっふーんっ!! これだよ、こーれ。あたしはきんべんなんだから」


 シロは薄汚れた表紙の本を、勝ち誇ったような表情で見せびらかしてくる。

 ……案の定か。文化の保持となると、やっぱり書は強いな。読む者が殆どいなくなっても、少なからずこうして継ぐ者が現れるのだから。

 とはいえ、何でもかんでも残せばいいってもんでもない気はするけどね。



 人類が実質滅びて、もう五年は経っただろうか。廃墟となった街──いや、「元」を頭に付けるべきか。元々街だった瓦礫の山には、勿論かつて住んでいた人の山はもう居ない。探せば白骨化した死体の山くらいは見付かるだろうけど、わざわざそんな不快なことをするほど物好きでもない。


 世界各地で数十億単位の人が死んだことまでは、オレも知っている。それまでは、まだ報道機関も生きていたからな。

 そこから先の滅びは、神が時計の針を弄ってダイジェストにしたのかってぐらいには速かった。テレビもラジオもいつの間にか砂嵐の映像や音を届けるだけになり、その後は電力までも供給されなくなって、パソコンもスマホも単なる複雑な仕組みの置物と化してしまった。

 家族も友人も近所の知り合いも遠くの見知らぬ人も、みんな死んだ。今や何処を見渡しても、人っこ一人見当たらない。鏡でも見ない限りはね。


 今人類が何れだけ生き残ってるのか、最早オレには知りようがない。正直、知りたいとも思わない。

 ただ少なくとも、オレがこうして生き延びてる以上、完全に滅んでないことだけは確かだ。海を越えた場所では、案外そこそこ残ってたりしてな。……あんまり興味ないけどさ。



「なぁにぼんやりしてんのさ。どうせタローの頭の中なんて、つまんないポエム染みた冗談とあたし達『竜』のことだけなんだから、しんみょーな顔してたって馬鹿っぽいだけだよー」

「見る目がないな。ここにはもっと高尚なものが詰まってるぜ?」

「例えばぁ?」

「ええと……そうだな。そりゃあ世界の平和…とか?」

「それ、今更考えてなんか意味あるの?」


 たっぷり砂糖の入ったコーヒーをすすりながら、シロは満足げに顔を綻ばせる。その顔を見ると、釣られて此方の顔も綻んでしまう。


「なあシロ、朝ご飯はリ──」

「リンゴ!!」

「──で、いいよな。相変わらず、大好きだなぁ。その内、日本中のリンゴを食べ尽くすんじゃないか?」

「そ、そこまでじゃ、ないもん……多分」


 勿論冗談のつもりだったのだが、案外本気にしてしまったみたいだ。消耗品や嗜好品の有限さはシロにだって身に染みて理解してることだし、無理もないか。


「あー、大丈夫だって。いくら西洋リンゴが元々日本にはなかった種とはいえ、こっちで栽培出来てたんなら自生出来ない道理はないし、そうそう絶滅したりはしない。無くなったらまたリンゴ園の跡地から採ってくればいいさ。もしくは、アップルシードのようにあちこち種を植えて回るのもいいかもな。そうすれば、日本がリンゴの楽園になるかもだぜ? そうなりゃ神様だって、リンゴを食うななんてケチ臭い事言わなくなるさ」

「それは………夢があるねぇ。──じゅるりっ」


 キャリーバッグから赤いリンゴを取り出す。人の手が加わらなくなったからか、オレの知ってるリンゴと比べて色合いも味も細部で違ってはいるが、これはこれで旨いから大した問題じゃない。

 人類に管理されなくとも、そう簡単に種は滅んだりしない。人の天下が終わった世を眺めていると、人間以外にとっての人間の不要さを改めて思い知る。人による管理を必要としていたのは、何処を探しても人間だけだった。


 雪のちらつく空を見上げてみる。

 かつてこの空を独占していた、景観けいかんを損ねる高層ビルや無駄に高い電波塔は、今や崩れた瓦礫となって、見るも無惨に地に伏している。

 オレも人間である以上、ざまぁみろとまでは思わないが……今となっては崩壊してる方がマシだとは思う。景色の邪魔にならないからね。


 その崩れた邪魔者の代わりに目に付くのは、途方もなく巨大な一つの竜の骸。まだ人類が竜に一応の抵抗をしていた頃、ミサイルだの爆弾だの核弾頭だの、最新兵器をしこたま注ぎまくってなんとか殺した巨大な竜の死体だ。

 相も変わらず、死骸とはいえ凄まじい威圧感だ。相当遠くにあるのに、全くそう感じさせない。それどころか、何処と無く風情やおもむきも感じる。少なくとも、ただ高いだけの塔よりかは観光客をよべるんじゃないかな。

 惜しむらくは、客となり得る存在なんかもう何処にもいないってことだけど。


「こんな凄いのが現れたんだ。そりゃ、人間なんかひとたまりもないか」


 染々しみじみと、心の声が独り言となって漏れる。



 今から二年と少し前、世界に何十、何百もの竜が現れた。


 これまで地球の何処かにその巨躯きょくを隠していたのか、それとも異なる世界から突如やってきたのか……それは誰にも分からない。そもそも、竜を調べたがる程に気概のある賢者なんて、当の昔に死という形でこの世からいなくなってるからな。


 燃え盛る炎竜の寝返りで、数万の人が焼け死んだ。

 巨大な翼を持つ風竜の羽ばたき一つで、一つの国が更地になった。

 海を泳ぐ海竜の起こした波で、小さな島が沈んでしまった。


 人類もほんの少しは抵抗はしたけれど、こんな超規模の災害……『竜害』に見舞われては焼け石に水。それどころか、マグマに水滴。滅びは時間の問題だった。

 人類が消え、文明が消え、それでも世界は平然と動いている。人の手で海外から持ち込まれ、品種改良されたリンゴが、人の世話を失ってもして変わらず在り続けるように。

 そしてオレは、そんな世でのんびり暮らす数少ない──もしかしたら最後の一人かもしれない人類。それこそ、逆アダムってヤツかもな。イブは不在だけれども、そんなもの今更必要もない。


 澄んだ空には風花かざはなが舞い、雄大な竜の骸がちっぽけな人間を見下ろしている。何十億もの人間が死んだことなんてお構い無しに、世界は今日も美しい。

 ……こんな言葉を口に出して語ったら、またシロからポエムだなんだとバカにされそうだな。うん、思うだけにしとこう。



「ねぇさぁー」

「どうした、シロ?」

「もしあの竜が生きててさ、タローが名前を付けるとしたら……どんな名前にする?」


 シロは空を指差して、首を傾げる。シロは案外鋭いヤツだから、オレがあの巨竜について考えていることを察したのだろう。


「そうだなぁ。強そうだし大きいし……『キョウ』なんてどうかな?」

「えーなにそれ、あんちょくじゃんか。考えなしー」

「安直なくらいが丁度いいんだよ。『シロ』だって、安直かもしれないけど良い名前だろ?」

「むぅ……ま、タローらしいといえばらしいかもね」


 コンクリートの瓦礫に腰掛けたまま、足をブラブラさせるシロ。安直な回答には違いないけれど、シロ的には高得点の回答だったのか中々に満足げだ。


「ほら、兎。どーぞお食べ下さいな、お姫様」


 兎の形に向いたリンゴを、無駄に仰々しく差し出す。


「うーっ! ま~た子供扱いしてぇ。今はこんな見た目だけど、あたしだって竜なんだから。もっと『それなり』に扱ってってばぁ!!」

「言われなくとも、大切に扱ってるじゃないか。これは子供扱いじゃなくてお姫様扱いってやつだ。ほら、あーん」

「むぅ……。あー」


 小さな顔をまるでリンゴのように仄赤く染め控えめに口を開ける、かつて白くて大きな竜だった女の子。

 その瞳は人に『成った』今でも、確かに竜のモノだ。ずっと眺めていると、身体が溶けて吸い込まれ、そのまま内包されてしまいそうな異質さを持つ銀の瞳。


 オレはそんな白竜の女の子と一緒に、竜によって人類が滅びた世を旅している。巨大な竜を仰ぎ見ながら、竜と共に、竜によって破壊された街の瓦礫に腰を据えて朝食を楽しむ。


「シャクシャクシャクシャク──ごっくん。……つ、次はあたしがタローにあーんってするからねっ!! ちょっと前まではあたしのが大きかったんだから、子供扱いしていいのはむしろあたしの方なんだからっ!」

「はいはい。じゃあ喜んで、子供扱いされましょうとも。お姫様」

「やっぱりバカにしてるでしょーっ! この……バカ人間っ!!」


 季節外れの雪以外、何時もと変わらぬ朝の光景。それなのに、すこぶる気持ちのいい朝だ。冷たい雪すら温かく思える、日常の心地好さ。

 こんな日がずっと続くことに比べたら、人類が滅びたことなんて些事も些事。どうでもいいって思えるね。


 オレはこのリンゴと一緒だ。人類を失おうがお構い無しに、この世界で生きていける。竜の世界を愛していける。

 人類の滅びなんて一笑に伏す、竜との旅の中でなら。

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