顔パンツ

くにすらのに

第1話

 この国には2種類の人間がいる。マスクをする人間と、しない人間だ。

 原因は100年前に流行った感染症だと歴史の授業で習った。

 最初はみんなマスクをしていたけど、時が経つに連れてマスクをすることに嫌気が差した人が増えて、最終的に国土を二分してそれぞれの領域で暮らすことになったそうだ。


 マスクをする人はする人同士で、しない人はしない人同士で結婚し子孫を残す。そしてその子孫はそれぞれの環境で育つのだから自然とする派としない派としての人格が形成される。


 だから俺が置かれているこの状況はとてもイレギュラーで絶対にバレてはいけない。今いる場所はマスクをしない領域だからどちらかと言えば彼女の方がヤバいのかな。


 暑くなってきたからとバッサリ切られた彼女の髪は、今は肩くらいまでの長さに落ち着いている。

 以前よりも短くなった髪が初夏の風に揺られた。

 

「いいなあワタルくんは。マスクしなくていいだもん」


「アヤナだってここではしなくていいんだから。ほら、吸ってー。吐いてー」


「すー! はー! すー! はー! ああ、深呼吸が気持ちいい」


 俺の言葉に促されて大きく息をするたびに彼女の胸が上下に動く。

 本心から彼女に新鮮な空気を思いきり吸ってほしいと思っているが、その副産物として良いものを拝めたとも思っている。


「みんなもマスクを外して息をすればいいのに」


「まあ、そっちの言い分もわからなくはないよ。すごい感染力の病気が流行ったんだからさ」


「でもそれは昔の話でしょ? 今は収まってるんだから。また病気が流行ったら付ければいいんだよ」


「それができないから昔の大人達は国を分けたんだから。それに、マスクをしてなかったらアヤナに一目惚れしなかったかも」


「マスクで隠れてる方が可愛いってこと?」


 アヤナの目つきが鋭くなって半歩引いてしまう。可愛い系の顔をしているのに時折見せるきつめの表情がギャップを生み出し、それがアヤナの魅力になっている。なんて口が裂けても言えない。本人は気にしてるみたいだから。


「普段は隠されてるから可愛さが引き立つってこと。スカートの中身と一緒だよ」


「マスクはパンツってこと!?」


「ああ、昔の人は顔パンツって呼んでたらしいぞ」


「知ってる。顔パンツなんて恥ずかしい名前を付けたのにそれでもし続けるなんて、昔の人はちょっと変」


「おかげで風邪を引く人もほとんどいないそうじゃないか。俺なんて子供の頃から何度も熱を出して大変だったぜ」


「でも、そうやって免疫は強くなっていくんでしょ? 私なんか何も知らずにマスクを付けさせられて気付いたらこんなに大きくなってて、免疫のことを知った頃にももう手遅れ。マスクを手放せない体になっちゃった」


「一長一短ってことだな。っていうか、アヤナの言う通り必要な時だけマスクを付けられる国になればいいのに。ニキビができた時とかマスクで隠したいもん」


「ニキビなんてできるの? ワタルくんのくせに」


「俺をなんだと思ってるんだよ。思春期の男子だぞ」


 好きな女の子とあんなことやこんなことをした思春期男子だ。こうして一緒の時間を過ごせるだけで十分に幸せだけど、もっと他にもしたいことがある。

 だけど、それをしてしまったらもう引き返せない。下手したらお互いに牢獄行きだ。


「……私だって、思春期なんだよ?」


 二人の間に何とも言えない気まずい空気が流れる。こんな時、マスクで顔を隠せればどんなに良かったか。

 自分の生まれがマスクをしない領域なのを初めて恨んだかもしれない。顔パンツとはよく言ったものだ。恥ずかしいものを隠すのにちょうどいいじゃないか。


「な、なーんてね。お互い中学生なんだから思春期で当たり前だよね。あはは」


「だ、だな。今日のところはもう帰るか」


「うん。マスクを外せるのはいいんだけどさ、家以外だとちょっとドキドキしちゃうんだよね。やっぱり顔パンツかも」


 そう言ってアヤナはマスクを装着した。マスクをするとしないの境界線近くとは言え、ここはしない領域。こんな姿を見られたら通報されてしまう。

 俺は周りを見回して警戒を強めた。


「アヤナ。ここではまだ」


「あっ! そうだった」


 意地を張ってマスクを付けたままだったらどうしようかと肝を冷やしたが、アヤナは素直に外してくれた。


「ところでさ、今さらなんだけどワタルくんはどうして私がマスクをする領域の出身だってわかったの? ちゃんとマスクはポケットにしまってあったのに」


「ああ、それは簡単だよ。だってアヤナの唇、てかてかしてなのにすごく綺麗だったから」


「へ?」


「そっちではあんまり使われてないだろ。リップクリーム。マスクで保湿されてるし、唇に塗ったクリームがマスクに付いちゃうから」


 同じ理由で口紅もあまり使われていないらしい。だからこっち側では冬の乾燥した時期になるとリップクリームを付ける人が増える。この間だけでもマスクを付ければいいのに頑なに大人達は頑なにマスクを拒む。だから俺達もそれに従うしかない。


「へえ~。マスクしない人は大変なんだね。唇なんて気にしたことなかったよ」


「反対に夏はマスクするの大変そうだけどな。今でもすでに暑そうだもん」


「そうなんだよ。もう口の周りが蒸れ蒸れで汗が止まらないよ」


 アヤナは綺麗な唇を尖らせて不満を漏らす。この綺麗な唇が常に隠されているなんて世界の損失だ。

 だけど同時に、家族以外でこの魅力を知っているのは自分だけという優越感もあった。もしアヤナがマスクをしない領域に生まれていたらこんなに艶やかな唇に育たなかったかもしれない。


 アヤナは夏場のマスクに不満を抱いているので口には出さないが、ここまで唇を守ってくれたマスクには感謝している。


「……ねえ、ワタルくん」


「ん?」


「そんなに私の唇、好き?」


「あ、ああ。うん。クリームを塗らなくても綺麗っていうのは俺からしたらすごく珍しいし、それに……」


「それに?」


「触ったり、その……キス、したいな、とか」


「私も、だよ」


 まるで時間が止まったように沈黙が訪れる。

 OKサインと受け取るならこのまま攻めてもいい。だけど俺としてはもっとこうロマンティックな場面でファーストキスをしたいというか心の準備ができていないというか……!


 キスしたい。今は我慢する。


 この争って頭が真っ二つに割れそうだ。どちらを選んでも欲望を満たせるし後悔もする。


「なんてね。ウソウソ。いや、ウソではないんだけど。今はその時じゃないっていうか。もっとちゃんとデートできたらいいのにね」


「そそそそそうだな。俺みたいにアヤナが普段マスクをする人間って気付く人がいるかもしれないし、反対にそっちで俺がマスクしない人間だってバレるかもしれないし。今はこうしてこっそり境界線で会うのが無難かな。ははは」


「だ、だね。ワタルくん、ペットボトルを飲んだあとそのまま素顔で歩きそうだもん。マスクに慣れてない人はそうなるんだって」


「それは良いことを聞いた。そっちでデートすることになったら気を付けるよ」


「うん。ぜひぜひ! あっ! そろそろ本当に帰らないと」


 まるで100年前のロボットのようなカクカクとした動きでアヤナは境界線へと向かう。今にも転びそうな彼女を見ていられなくて無意識に手を掴んでいた。


「実は俺、今マスク持ってるんだ。この前もらったやつ」


「そ、そうなんだ。でも今日は……」


 空いた方の手でマスクを付けるとアヤナの手を引いて走った。もうここはマスクをする領域。この見た目なら俺もここに居ていい道理だ。


「どうしたの急に」


「正直キスしたい。でも、もっとお互いに心の準備ができたロマンティックな場所でしたいとも思ってる。だから」


 アヤナの唇と思われる部分に自分の唇を重ねた。この間には二人のマスク。2枚分のマスクが隔たっている。

 唇から伝わってくるのはサラサラした無機質の感触。想像していたような柔らかくて暖かなものでは決してない。


「これはキスじゃない。マスクとマスクが触れただけ。でも、ちょっとだけアヤナに近付けた」


「ビックリさせないでよ。でも、今の私達にはちょうどいいかも」


「マスクは暑苦しいけどさ、今はマスクをしてて良かったって思ってる」


「私も」


 マスクの上からでもお互いに顔がニヤけているのはわかる。でも、ハッキリとその表情が見えているわけではない。

 やっぱり顔パンツだ。恥ずかしいものを隠すのにちょうどいい。


 マスクをする派としない派。本来なら交わってはいけない俺達の恋を隠すのにも、マスクは一役買ってくれている。

 

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