―――弱者は強者に背を向ける―――

 軽自動車の中は特段暖かいわけではなかったが、かといって不快なほど寒いわけでもなかった。ただ車自体が古く、エアコンンお吹き出し口から出てくる空気も何年か前からやってきているのではないかと思うほどだった。

 桧木廉太郎がそのことに気が付いたのは外で電話をしている甲本剛志の怒鳴り声が社内の自分の耳に届いてからだった。いつもは車も通らないような山道とはいえ、誰かが偶然通りかかるとも限らない。そしてその誰かが自分を救ってくれるのではないかと勝手な希望を抱いてバックミラーを凝視していた。

 すると、後部座席に横たわっていた女性と思わしき人がむくりと起き上がり、何事もなかったかのように座っているのが見えた。

 桧木廉太郎の心臓が跳ね上がる。

「ねぇ君、何か飲むもの持ってない?」女性の口から発せられた声は澄んでいてよく見ると顔立ちもとても整っていた。

「すいません何もないです」あったとしても今、彼女に飲み物を渡す勇気は桧木廉太郎にはなかった。

 そう、と一言だけいうと、彼女は再び後部座席に横たわった。

「あ、あの」桧木廉太郎が口を開きかけた時、ようやく電話を終えた甲本剛志が戻ってきて、乱暴にドアを閉める。

「あ? なんだよ」甲本剛志が半開きになったままの桧木廉太郎を見て、岩を連想させる顔を向ける。

「な、なんでもないです」桧木廉太郎はギアをドライブに変えて重い車の足取りを再び進める。

「そうだ、お前に面白れぇもん聞かせてやるよ」頂上まであと1キロという標識を通りすぎた頃、甲本剛志がジャケットのポケットから何やら取り出してカーナビにつなぐ、しばらくいじると車内に布と布をこすれるような音が響く。

「これなんだと思う?」甲本剛志の問いに答えることが出来ずに黙ったまま運転をする。「わかんねぇかな。お前も知っている女の部屋の音だよ」

 桧木廉太郎は驚きのあまり岩の顔を凝視する。そんなはずはない。いや甲本剛志なら他人を苦しめるためになら何をやってもおかしくない。彼はそのために生きているような男だということを桧木廉太郎は身をもって知っている。

「そんなはずは……」

「安心しろって、お前の女じゃねぇよ。その友人ってところだな。お前のためにわざわざ引っ越し業者のふりして仕掛けてきたんだぜ?」まるでその行いを感謝しろと言わんばりの勢いだ。「最近の盗聴器ってのはすごいよな。こう、指輪の形をしててさ。特殊な接着剤でカーペットの毛とかにくっつけるわけだ。これがなかなかとれねぇんだ。見つかって引っ張られればそれまでだけど、家具の下とかに着けときゃそう簡単にはとれねぇしみつ館ねぇんだよ」

 まるで子供が最新式のおもちゃについて語るかのようだと感じた。自分の持っているものの高性能を友人に自慢し、自らを鼓舞している。俺はすごいんだぞ、と。

「なんで……」桧木廉太郎の言葉が終わらぬうちに甲本剛志は凄んで見せた。

「わかるだろ? お前が俺に逆らったら少しずつ輪を縮めていく」

 そこまで言われて始めて自分が脅されていることに気が付いた。いつものことだ。甲本剛志は定期的に桧木廉太郎に思い知らせるのだ。俺のほうが強い、お前は俺に逆らえないと。

 その行為にうんざりしたことも反抗してみたこともある。しかし、対外脅しですむことも、甲本剛志に関しては脅しでは済まない。そのせいで実際に傷ついた知人がいる。まだ彼らは桧木廉太郎の行動が引き金で自分たちが被害を受けたとは気が付いていない。

 しばらく布の擦れる音が続いた後女性の声が聞こえる。どうやら電話で誰かと話しているようだった。

「お前は今日、家にいた。俺とは会ってないし、何も知らない。近所の山にある崖から誰かが落ちていてもそんな事故があったとしか思わない。いいか?」

 甲本剛志が逆らうなよ。と付け足したと同時に山の頂上に着く。

 山呼べるかわからないほど高い山ではなかったが、それでも周りにビルや電柱のない場所だから、ここら一帯では地平線から朝日が昇るのが見える数少ない場所でもあった頂上には誰もいない。まだ、朝日が昇るまでに何時間もあるし、もし朝日が昇る時間であっても誰もいないのかもしれない。桧木廉太郎は甲本剛志の指示で車を止めた。

「いいか、ここで待ってろよ。うまくできたらこれをやるよ」甲本剛志は思い出したように盗聴器のリモコンらしき機械を放り投げる。それだけ言うと再び乱暴にドアを閉めて展望台へと上がって行った。相変わらず車のスピーカーからは布の擦れる音しか聞こえない。

「君は逃げないの?」甲本剛志がいなくなったことを察したのか、後部座席の女は続ける。「逃げたほうがいいよ。絶対」

「簡単に言わないでくれ」思わずに手に力が入って、甲本剛志から渡された機械のボタンを押してしまう。

 途端にスピーカーから歌が聞こえてくる。鼻歌のようだった。相変わらず布のこすれるような音は消えなかったが、低い声から察するに男の声のようだった。

“今日がだめなら明日にしましょ。明日がだめなら明後日にしましょ。明後日がだめなら明々後日にしましょ”お世辞にもうまい歌とは言えなかったが、どこか特徴的な歌詞とメロディだった。

 ふと、桧木廉太郎は昔、まだ、甲本剛志の恐怖を知らない頃、よく見ていた教育テレビで放送されていた人形劇の中でそんな歌が歌われていたのを思い出した。

「この歌ってさ。あきらめない歌だよね」後部座席の女は目をつむって電波障害のような歌に聞き入っている。

「そうかな? だって今やらなくてもいいって言ってるんだよ? どちらかといえば許容してくれてるんじゃない?」自分よりはるかに危険な立ち位置にいるはずの女があまりにも落ち着いていたせいか、思わず桧木廉太郎は女の意見を否定してかかる。

「だって、今日もダメならって一回挑戦してるわけでしょ。なのに毎日毎日何度でも挑戦してるんだもん」

「そんなの強い人だけだよ」

「そうだね。あの歌を歌ってる人は強い。でも君も十分強いよ。」女は自信満々に言い切った。女のほほえみは優しく、桧木廉太郎は何かに見守ってもらっているような力強さを感じた。

「そんなことないよ」そんなことない。それだけは自分を表すうえで一番自信のある言葉に思えて情けなくなってくる。

「そんなことなくないよ。君は強いよ。絶対」起こるようにほほを膨らませた女の口元に赤い傷跡があるのが見えた。おそらく甲本剛志に殴られた痕だろう。弱々しい彼女からかけられる力強い言葉は桧木廉太郎に不思議な力を与えてくれた気がした。

「絶対ってなんだよ?」今にも消え入りそうな声で言い返す。

「絶対は絶対なんだよ。だから君はあいつから逃げられるし、彼女もその友人もついでに私も助けられるんだよ。それだけ君は強い。絶対だよ」

 うつろな目のまま前を向くと、ちょうど甲本剛志が展望台から戻ってきてこちらに向かって歩いているところだった。

 パッと目の前が白い光に包まれる。甲本剛志の顔が歪んだのが視界に入った。みるみる内に顔が真っ赤になり怒っているのが遠めに見てもわかる。あわてて手元を見ると、無意識のうちに桧木廉太郎は車のヘッドライトを甲本剛志に向けていた。

 全身に冷水をかけられたような感覚に襲われる。

「もし、逃げられなかったら?」震える声を必死で絞り出す。

「明日があるさ」女は高らかに叫ぶ。同時に頭の中に声が響く。

 “清水の舞台から飛び降りてみろよ!”

 桧木廉太郎は意を決するとギアをドライブに入れてアクセルを踏み込む。今までの重さが嘘のようにたくましいエンジン音を鳴らして愛車が走り出す。

 驚きのあまり後ずさる甲本剛志のすぐそばを通り過ぎると、そのまま登ってきた山道を下り始める。

 ブレーキは踏まない。

 ハイビームにしたままのヘッドライトが通常より先の道を照らし、次の瞬間にはその景色が自分の隣を通り過ぎていく。

 後部座席からは女のはしゃぐ声が聞こえる。

 桧木廉太郎はアクセルから足を離して惰性のみで急なカーブを何とか曲がると、再び力強くアクセルを踏み込んだ。

 持ち主の心に応じるように愛車がうなりを上げる。

 心地よい加速が二人の体をシートに押し付けた。

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ポレンカルテット よまのべる @yomanovel

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