―――男は昔の女の影を追う―――

 杉山春は困っていた。昨日、鼻歌混じりで探し初めた指輪はあっけなく見つかり、翌日にあたる今日、蛇原智美本人に返却を終えれば問題はないはずだったのだが、肝心の蛇原智美が約束の時間になっても現れなかった。そのため、以前からフィルターの受け取り等で訪れた彼女の自宅に行ってみようかと悩んでいたのだ。

 ただ、理由があるとはいえ、一人の女性の家に約束もなしに行くのはどうなのだろうか? そんなことを考えているうちに約束の時間はとうに過ぎたころ、一通の電子メールが届いた。

「本日杉山さんよりお受け取りするはずのものでしたが、必要がなくなったため、そちらで処分をお願い致します」

 不思議と怒りは湧いてこなかった。杉山春にとってただ約束が一つなくなったに過ぎなかったのだ。ただ、手の中にある、指輪の行方については何とも思いつかなかった。

 とりあえず帰ろう。そう思い、会社のオフィスがあるほうへと歩き出す。その時、歩きまわる人々の雑踏の隙間にか細い足が見えた。その足は何もはいていない。裸足のまま道端に止められた軽自動車から降りてくる。初めはペタペタとゆっくり、そしてだんだんとそのテンポを速めていき、ついには杉山春の前から消えていった。足が見えなくなった時、ふわっと風に揺れる長い黒髪が視界に入った。

 あぁ、そういえば昔もこうして裸足で長い黒髪を持った女性に会ったことがあると思い返す。

 まるでその女の後に吸い寄せられるようにして道端に止まったままの軽自動車に近づいていく。

 軽自動車の運転席には一人の小柄な男が座っていた。エンジンがかかったままフロントガラスのずっと向こうを見ているようだった。先ほどの女が出て行く際に空いたドアもそのままで、一瞬その男が死んでいるのではないかと杉山春は思ったほどだ。

「え、あぁすいません」小柄な男はドアから覗き込む杉山春に気が付いたらしく、あわててドアを閉めようとする。あまりにあわてて閉めようとしたため、横から迫りくるドアをよけ損ねた杉山春はドアの縁に手を打ち付け、小柄な男は再びすいませんすいませんと謝罪の言葉を繰り返した。

「気にしないでください。今日が不幸でも明日があるんですから」口にしてから、この言葉は自分の言葉ではなく昔の女が言っていたことだと思い出す。何かと自分の中にあらわれては霧のように消えていく女の像に不快感を覚えた。

 これではお前のせいで見知らぬ人にわけのわからないことを言ってしまったと文句を言うことすらできない。

 杉山春の言葉にきょとんとした顔で言葉をとめた小柄な男ははっと何かに気が付いたのか、声を張って答えた。

「そうですね、明日はあるんですよ。今日がだめでも明日がだめでもその次があるんですよね」今度はゆっくりとドアを閉めた男はつきものが取れたかのような笑顔のまま杉山春に会釈をすると小さな軽自動車を右に左に揺らしながら去って行った。

 残された杉山春は打ち付けた手を開き、打った拍子に指輪を落としてしまったことに気が付く。追いかけようとも思ったが、すぐにもう必要のなくなったものだと思いだし、代わりに携帯電話を取り出した。必要はないと思ったが念のため、蛇原智美に処分した旨を伝えようと思ったのだ。

 電話がつながることはなく、留守電を知らせる案内音が聞こえるだけだった。

 自然と蛇原智美の自宅へと足が向く。何か重要なことを忘れている気がする。

 俺は何を忘れているのだろう? 想像の中の女に問いかける。

「君はいつか忘れるよ、絶対。君が強いことも、人が助けを求めていることも、私のことも」悲しそうな声で返事が返ってきた。

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