―――直線は曲線と会い、お互いの線の先を決める―――

 小さなマンションの小さな一室。壁紙は入居した時のままだったが、室内にある家具や敷物は今時の女性らしく、かわいらしいものになっていた。

 「で、あんたはどうしたのよ?」稲森愛子は片手に甘いアルコール飲料の瓶を持ったまま、震える目を蛇原智美に向けた。蛇原智美は手にしていた缶ジュースをコトリとキャラクターもののかわいらしい机の上に置くと、重々しい口をどうにか開くことが出来た。

「気が付いたら春さんが指輪を探してくれることになってて」

 稲森愛子は大きなため息をつく。あまりに大きなため息で、体内の気体をすべて吐き出してしまうのではないかと思うほどだった。

「なんでそんなことになっちゃうのよ? 今日はおしゃれなカフェでお茶をするだけじゃなかったの?」

 まるで出来の悪いこどもにイラつく親のような稲森愛子の態度に、思わず蛇原智美は体をこわばらせる。

 稲森愛子にとってそんな蛇原智美の挙動が何かと気に食わなかった。それでも彼女とこのように酒を飲みながらお互いの身の上話が出来るぐらいには仲が良かったのは二人の性格が正反対だったことが良く働いたからだろう。

 直情的で物事をまっすぐとらえ、まっすぐ放つことに長けている稲森愛子は良くも悪くも屈折した形を作り上げることが出来る蛇原智美をうらやましく思っていた。対して蛇原愛子は何事もはっきりと物申す稲森愛子をそれなりに慕っていた。

「智美はいつもそんなことやってるからわかりにくいのよ。その春さんって人、絶対気づいてないよ?」

「愛ちゃんだってわかりにくい例えするくせに」蛇原智美は口をとがらせながらせめてもの反撃と言い返す。

 稲森愛子は口を詰まらせ、顔が少し赤みがかる。少し前から少しでも遠回しな伝え方や女性らしい表現を手にしたいと思っていた彼女にとって少しでも自分を彼女に似せようと意図的に行った努力の結果であったからだ。

「いいじゃない。私だってたまには…… そうじゃなくて、私のことはどうでもいいのよ。私が言っているのはこれから智美がどうするつもりなのかってこと。ついちゃった嘘はもうどうしようもない」

 蛇原智美が小さくうなずく。

「いい? 地球はいまさら逆回転しないし、私が飲んでしまったこのお酒はもとには戻らない。今期私が落とした単位が取れてることにもならないし、智美のついた嘘はなくならない。」

「愛ちゃんを置いてどっかに行っちゃった彼も戻ってこないしね」

「智美、はっきり言い過ぎ」稲森愛子はむっと眉間にしわを寄せた。

「愛ちゃんだけには言われたくないよ」

 蛇原智美がかわいらしく笑うと、稲森愛子の中に芽生え始めていたはずの怒りがすっと消え、自然と笑みがこぼれた。不思議なことに蛇原智美と話しているといつもこうだった。彼女のねじ曲がった考えや意思とは違う行動、表情はよくよく考えると面倒臭く、本来なら稲森愛子をいらだたせるだけのはずだ。しかし、なぜか彼女に対しての怒りはいつもどこかに消えてしまうのだ。

「でも、本当にどうするの? その春さんって人は智美の嘘に騙されて今頃必死にごみの山をひっくり返しているわけでしょ? ありもしない指輪を探して」

 ほんの少し前まで楽しそうだった蛇原智美の表情が再び沈みこむ。

「それがね、あったのよ」

「何が?」

「指輪が」

「ないのに?」蛇原智美がうなずく。

「しかも明日渡しにくるっていうの」

 実際のところ蛇原智美にもよくわからないらしい。ただ、あるはずもない指輪を探してみますと言った杉山春から数十分前に連絡があり、指輪が見つかったとのことだったらしい。

「それ嘘じゃない? 探すのが面倒で新しいのを買ったのよ」

「春さんはそんなことしない。それにあるはずもない指輪だから私だってどんな指輪か言ってないんだよ? それなのに見つけたなんて嘘つくかなぁ?」

「ありもしない指輪をなくしたって騒ぐ女がいるのよ? ありもしない指輪を買う男がいたって不思議じゃない」

「ねぇ、私どうしたらいいかな?」

「私だったら本当のことを言う」稲森愛子ははっきりと答える。

 蛇原智美はわかっていた事実を突き付けられたかのような、いや実際わかってはいたのだが、そうすることの勇気が持てずにいた。

 うんとも違うとも言わない蛇原智美の態度にしびれを切らした稲森愛子は半ば酒の勢いに任せたまま口を開く。

「じゃあこうしない? 私は智美が春さんにどうするか教える。代わりに智美は私が煮え切らない彼にどうするかを教えて。それで二人ともその通りにするの。それで成功したら二人とも幸せでしょ? 失敗したときは…… 今は考えないことにしない?」

 妙な提案だった。それが稲森愛子が決心をさせるためにとっさに口をついて出たでまかせであろうとも蛇原智美にとっては心強く感じたのは事実である。

「愛ちゃんはいつも通りでいいよ」

「それ、どういうこと?」

「いつも通りわかりづらい例えで言ってあげればいいんだよ。頑張れって」

「何それ? 全然わかんないよ」

 二人は再び笑い出す。その後しばらくたわいのない会話して蛇原智美は自宅へと帰って行った。近所まで送り届けた稲森愛子は自分の前から突然いなくなった彼に対する怒りから電源を切っていた携帯電話を取り出す。そして何通も送ったメールや何回もかけた電話の返事がないことをわかっていても残念に思いながらメールの作成画面を開く。

 さて、どんなメールをしようか。まるで自分が小説家になったかのような気分で精いっぱいの頑張れを無表情の電子メールに込めた。

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